それからひと月の間に、良太は浅井家を2度訪れた。電報で訪問を予告しておいたので、千鶴には2度とも会うことができたが、忠之には1度しか会えなかった。工場が空襲に備えて分散したことにより、忠之の負担はさらに重くなっていた。
 良太と千鶴は書斎でのひとときを過ごすと、つれだって上野駅へ向かった。ふたりが逢瀬を重ねている間にも、戦局は大きく推移して、一段と厳しいものになった。

 2月20日の朝、良太たち120名の少尉は講堂に集められた。
 訓辞を述べようとする飛行長に、良太は緊迫したものを感じた。その緊迫感は飛行長の訓辞にひきつがれ、良太に強い緊張をもたらした。
「ただ今より」飛行長の声が変わった。「特別攻撃隊員を募る」
 良太は飛行長を凝視したまま、心の中で声をあげた。「ついに来たのだ。俺はどうしたらよいのだ」
 飛行長の言葉はつづいた。学徒出身の少尉たちは身をかたくして、特攻隊への志願をもとめる声に聞きいった。
 特攻隊への志願。命にかかわる決断でありながら、そのために与えられた時間は少なく、回答期限はその日の正午とされた。
 良太は渡された紙片を凝視した。そこには回答として選択すべき言葉が三つ記されていた。〈熱望〉〈希望〉〈希望せず〉。家庭環境について問う項目もあったが、良太は志望の有無を問う文字から眼を離せなかった。
 想いの底に沈んでいた良太は、眼をあけて教室の中を見まわした。仲間の多くが椅子に腰かけたまま、それぞれの姿勢で考えている。静まりかえった教室に椅子を動かす音が聞こえた。仲間のひとりが教室から出てゆく。どこへ行こうとしているのだろうか。いつの間にか、かなりの者が部屋を出ている。気持ちを静めて考えるには、場所を変えてみるのも良さそうだ。
 良太は椅子をひいて腰をあげると、紙片をポケットに入れて教室を出た。
 海軍では迅速な行動をもとめられ、歩くにしても常に速足であったが、良太は学生時代と変わらぬ足取りで飛行場に向かった。
 良太は歩きながら思った。来るべきものがついに来たのだ。敵の飛行機と戦って戦死する運命にあった俺たちは、飛行機もろとも敵艦に体当たりして死ぬことになった。とはいえ、特攻隊を志願しなければ、生きて還れる可能性が無くはない。いや、それは無い。俺たちが生きて還れる可能性はないのだ。グラマンF6Fなどアメリカの新鋭戦闘機は、零戦を上回る性能を備えているようだし、その搭乗員は充分な訓練を積んでいるはず。訓練すらまともに受けることができない俺たちは、特攻隊に志願しなかったにしても、いずれは戦死する運命にあるのだ。
 枯れた芝生を踏んで歩くと、斐伊川の堤防が思い出された。堤防で忠之たちと凧上げをしたのは、小学校の5年生か6年生の頃だった。冬の出雲は風が冷たく、遊んでいるとすっかり体が冷えた。体を暖めるため、忠之たちと枯れ草の河川敷や堤防を走った。
 冷たい風が吹きすぎた。良太は我にかえった。良太はあたりを見回した。誰かが枯草の上に寝そべっている。遠くのほうで腰をおろしているふたりも、同じ隊の仲間にちがいない。
 良太は芝生のうえに腰をおろした。仰向けになると、真上にひとかたまりの白い雲があった。その雲は良太の足の方向へ流れていた。
 良太は流れる雲を見ながら、人は死んだらどうなるのだろうと思った。霊魂なるものが死後にも残っているらしいことは、遠縁のお婆さんの存在を通して知っている。あのひとは死んだ人の霊魂を呼びだし、死者の想いを聞きだすことができた。俺は非科学的なものとしてそれを否定していたのだが、あのできごとがあってからは、霊魂の実在を信じるようになった。あのひとは、死んだ者しか知らなかったことを、霊を通して聞きだすことができた。そのようなことが幾度もあったのだから、あれは決して単なる偶然のことでも、まぐれ当たりでもなかった。
 霊魂はたしかに存在するはずだが、いまの科学では説明することも、その存在を証明することもできない。それどころか、現在の科学知識によれば、死んだ人間の霊魂が実在することなどあり得ないことになる。だが、俺はその存在を知っている。それでは、死んでからの俺は霊魂として、どのような存在になるのだろうか。俺の魂はどこへ行くのだろうか。それとも、行きたい所に自由に行くことができるのだろうか。
 遠くで誰かがどなっている。良太は我にかえった。急いで結論をだし、調査用紙に回答を記入しなければならない。良太は体を起こして膝をかかえた。
 俺がこうして悩んでいるのはなぜだろう。死にたくないからだ。なぜ死にたくはないのか。恐しいからだ。死んでも霊魂は残るのだから、恐れなくともよいではないか。俺にはやりたいことや、やらねばならないことがある。まだ死にたくはない。それどころか、俺は死んではならないのだ。もしも俺が死んだら、家族や千鶴が悲しむことになる。そうなのだ、俺が死んだら悲しむ者たちを悲しませたくないのだ。俺は死にたくないし、死んではならないのだ。