その日、忠之は叔父の乗艦が帰港している横須賀へ行き、叔父と食事を共にした。
「久しぶりに叔父と飲んだけど、ちょっと気になることがあるんだ」と忠之が言った。
 勝ち続けている戦況について聞きたかったのだが、戦争に関わることはすべて機密事項とのことで、叔父からは何も聞けなかった。叔父は笑顔を絶やさなかったけれども、その笑顔には、連勝している海軍の軍人とは思えない暗さがあった。そのような叔父を見ているうちに、忠之は疑念を抱いた。新聞やラジオは日本の有利な戦況を報じているが、大本営が発表する戦果というものを、素直に信じてよいのだろうか。
 忠之の話を聞いて良太は言った。「おぼえてるだろ、忠之、東京へ出てくる前に、オニカンノンと戦争の話をしたこと」
「米英との戦争が長引いたら大変なことになる、とオニカンノンが話したことか」
「工業生産力に差があるうえに、石油も鉄も向こうの方が圧倒的に有利だからな」
「オニカンノンって、誰ですか」
「俺と忠之の先生。ふだんは観音さまみたいに優しいけど、叱られるときには、鬼みたいにこわいからオニカンノン」
「戦争が長引けば危ないということは、もしかすると、アメリカとの戦争は、すぐに終わると考えていたのかしら、日本は」
「信じがたいことだけど、軍部のえらい奴等はそんなつもりだったんだろうな」
「軍部のばか者たちに国を任せたからだ、支那やアメリカとの戦争を始めて、こんな苦労をするはめになったのは。良太や俺にだって予想できたのにな、緒戦でどんなに叩かれようと、アメリカが講和に応じることはないだろうと」
「支那事変だって、もう5年になるのに、終わりそうな感じがしないわね」
「あのな、忠之・・・・淳蔵さんが支那で戦死した。俺もおとつい知ったばかりだ、親父からの手紙で」
「そうか・・・・・・戦死したのか淳蔵さんは。おれ達より学年がみっつ上だったから、まだ満で22か3じゃないか」
「たとえ敵でも、殺すことなどできそうにない人だよ、淳蔵さんは。どんな気持で死んだんだろうな」
「出征するときの壮行式では、淳蔵さん、威勢のいい挨拶をしていたけど、前の日に会ったときには、戦死をあんなに惧れていた。俺たちには励ますことしかできなかったけど」
「俺たちだから本心をさらけ出したんだと思うよ、あのひとは」
「俺たちが卒業するまでには終わってほしいよな、この戦争。戦死した淳蔵さんには申し訳ないけど、こんなくだらない戦争で死にたくはないからな」
「名誉の戦死だから、戦死は喜ぶべきだと言うひとがいるでしょ。身内のものが戦死したとき、そんなことを言われたら、もっと悲しくなると思うけど」
「戦争に駆り出す側の奴らは勝手なことを言うんだよ。俺の叔父は職業軍人だが、みんなでいつも安全を祈願している」
「ここで話されたこと、世間の人に聞かれたら誤解されますよね、きっと」
「おれ達の場合にはな、良太、オニカンノンみたいな先生を囲んで議論していたから、世間とは多少ちがった見方ができるわけだけど」
「ずいぶん違っていると思うぞ。お前も俺も支那事変を聖戦だと思ったことがないわけだし、アメリカとの戦争に勝てるとも思っていないんだから」
「あのな千鶴さん、ここで話したこと、誰にもしゃべらないでな、家のひとたちにも」
「大丈夫、誰にも話しませんから」
 千鶴の家族にかぎらず、良太と忠之が口にした言葉を耳にしたなら、それを非国民的なものと受け取り、不安や反発をおぼえるに違いなかった。