4月2日の朝、千鶴は布の袋を持って家を出た。袋には握飯と毛糸のシャツにくるまれたお茶のビン、そして小麦粉で作った菓子代りの食物が入っていた。
 千鶴は土浦につくと、良太からのハガキにそれとなく示されていた地域へ行って、付近にあるはずの古本屋をさがした。
 さがしあてた本屋に良太の姿はなく、海軍士官がひとりだけ書棚にむかっていた。書棚を眺めながら良太を待っているうちに、店の客は千鶴だけになった。
「千鶴」耳元でいきなり良太の声が聞こえた。
 体をひねると帽子をかぶった良太の笑顔があった。千鶴は思わず両手をさしだした。その手を良太に握られたまま、千鶴は良太に笑顔をむけた。
「待たせたな、千鶴」と良太が言った。「話をするのに丁度いい場所があるんだ」
 本屋を出るなり良太が言った。「ハガキに書いた暗号をわかってくれて嬉しいよ。千鶴なら気づいてくれると思っていたけど」
「あんなにじょうずに書いてくださったんだもの、2枚のハガキを読んだらすぐにわかったわ」
 並んで歩きながら、千鶴は良太の軍服姿をあらためて眺めた。海軍の士官服姿は幾度となく眼にしていたが、すぐ間じかで眺めたのは初めてだった。白い手袋をして腰に短剣を吊っている良太の姿が、千鶴には物珍しくも誇らしいものに映った。
「もっとしゃべってくれよ」と良太が言った。「おしゃべりの千鶴が好きなんだ」
「ごめんなさい。良太さんの身なりに気をとられていたの」
「こんな身なりで街を歩くなんて、去年の秋には想像さえしなかったよ]
 千鶴は良太の横顔を見た。会わずにいた数ヵ月の間に、良太の顔には新しいものが加わっていた。本屋で千鶴を見つめた良太の眼にも、以前には無かったものが宿っていた。
「軍隊って、やっぱりたいへんでしょうね」
「もう慣れたよ。慣れればどうと言うこともないんだ」
「海軍の訓練はとても厳しくて、土曜日も日曜日もないほどだって聞いたけど」
「月月火水木金金という歌があるけど、千鶴が心配するようなことはないよ。しっかりと日本を守って、しかも戦死しないで還ってくるための訓練なんだ」
 土浦にはたくさんの軍服姿があったけれども、狭いその道は人通りが少なく、軍人とすれ違うこともなかった。
「こんな狭い道、よく見つけたわね」
「この前の外出日にこのあたりを歩いて、千鶴と話し合う場所をさがしておいたんだ。ほかの連中に見られないような場所がいいからな」
 千鶴は不安になった。ふたりが一緒に歩いているところを軍の人に見られたら、良太さんは困ったことにならないだろうか。
 しばらく歩いて国民学校の前にくると、良太は千鶴をうながして校庭に入った。
「ここだよ、この前の外出日に見つけたのは。いい場所だろ」と良太が言った。
「そうよね、海軍のひとは誰も来そうにないし」
 校庭では数人の子供たちが走りまわっていた。良太と千鶴は校庭をよこぎって、奥のほうにあるベンチに向かった。支柱に板を渡しただけのベンチだった。
ベンチにならんで腰をおろすとすぐに、千鶴は袋から湯飲み茶碗をとりだした。
湯飲を受けとった良太が、帽子をとってベンチにおいた。良太の頭は丸刈りだった。
「私たちが初めて会った頃、良太さんはまだ髪が半分しかのびていなかったわね」
「海軍に入ったら、半分どころか高校時代に逆もどりだ」
 シャツでくるんでおいたガラスのビンをとりだすと、ビンにはまだ暖みがあった。
「おとついの夜、良太さんからのハガキをみんな読み返したの」お茶を注ぎながら千鶴は言った。「面白かった、あの年賀状。心の中でチーズとパイナップルを食っている」
「俺が書いた年賀状の最高傑作だよ」と笑顔の良太が言った。「すぐにパイナップルをしたいけど、まずはお茶をもらうよ」
 辺りでは子供たちが遊んでおり、キスをかわせるような場所ではなかった。
 千鶴は包みをとりだして布袋の上でひらいた。小麦粉で作った菓子の代用品だった。
「もうすぐ良太さんの誕生日よね、21回目の」
「5日ほど早いけど、今日のこれがおれの誕生祝いだな。千鶴が作ってくれたものを食ったし、こうしてお茶を飲んだし、何より千鶴がいっしょだ」
 ふたりはベンチで昼食をとった。千鶴が作った握り飯を良太が、そして良太が持参した弁当を千鶴が食うことになったが、弁当のおかずはふたりで分け合った。