新入社員研修が終わろうとするころ、職場配属の辞令を渡された。僕の配属先は希望がかなってスピーカー部だったが、ビデオ機器の開発を希望していた坂田は、アンプを製造する部門に配属された。
新入社員研修が終わるとすぐに、僕たちはそれぞれの職場に別れていった。僕はスピーカー部の第1開発課に配属され、5年ほど先輩の小宮さんについて、スピーカーの振動板を開発することになった。CVDという技術を使うその仕事に、小宮さんは1年前から取り組んでいるとのことだった。
最初の1週間は、あたえられた資料を読みつづける毎日だった。小宮さんが渡してくれた資料は、仕事に必要な知識を修得するための参考書や、文献をコピーしたものだった。スピーカーについては豊富な知識を持っているつもりだったが、それらの資料を理解するためには努力を必要とした。僕ははりきって、そして夢中でそれに取り組んだ。
職場の資料棚には多くの文献や資料があった。僕はそれらを自宅に持ち帰り、夜おそくまで読んだ。もともと朝寝坊の僕がそのようなことをしたので、母にたたき起こされてもバスに乗り遅れることになった。数日の間に2度目の遅刻をしたとき、上司の野田課長からきつい言葉で叱責された。小宮さんが忠告してくれた、自宅でいくら努力をしても、そのために遅刻をすれば、サラリーマンとしてはマイナスにしか評価されないのだ、と。
そのような努力をつづけて、僕は多くの知識を身につけた。配属されてからひと月もたたないうちに、小宮さんの相棒として実験にとりくむようになっていた。
先輩たちが提出したレポートの中に、とくに僕を惹きつけるものがあった。報告者は吉野となっていたが、その先輩はすでに他の職場に移っていた。
「面白いですね、このレポート」僕は小宮さんにレポートを見せながら言った。
「たいしたもんだな松井、吉野さんのそれがわかるのか。レポートというより提案だけどな、それは」
「ちょっと変わった形になりますよね、このアイデアで作ると」
「そうかも知れんけどさ、ほんとに音が良ければ売れるだろ、きっと」
「どんなふうに鳴るのか聴いてみたいですね、このスピーカー」
「いいアイデアだけど、どういうわけか試作もしなかったんだ」と小宮さんは言った。
吉野という先輩の提出したレポートが、資料棚にはいくつもあった。いずれも考えかたが明快で説得力のあるものだった。会ったことのない吉野という先輩に僕は敬意を抱いた。小宮さんに聞いてわかったことは、吉野さんは第2開発課の係長だったが、前年の春に回路設計の部門に移っているということだった。
小宮さんといっしょに振動板の材料を試作しては、高音領域用のスピーカーに適したものかどうかを調べ、その結果をもとにしてさらに実験をくりかえした。毎週月曜日の午前中に開かれる会議で、小宮さんが実験の進みぐあいを報告した。
第1開発課には四つのグループがあり、それぞれのテーマにとりくんでいた。月曜日の定例会議で、各グループのリーダーが仕事の進捗状況を報告すると、野田課長がそれから先の進め方について指示を与えた。課長になって4ヶ月とのことだったが、野田課長は会議の席で部下をきびしく指導した。そのような野田課長の姿が、その頃の僕には頼もしく見えた。
僕が実験に加わってからひと月が過ぎても、試作は少しも進まなかった。製品化されているスピーカーは先輩たちの努力の結晶であり、それを越えるものを容易に作れるわけがなかったのだが、少しも進展しない試作に僕はあせりをおぼえはじめた。その職場で6年目になる小宮さんは、そんな僕をはげましながら試作を進めようとした。
複合材料の利用を思いついたのは、図書室で学術雑誌を見ているときだった。性質の異なる素材を組み合わせることにより、優れた特徴を引き出そうとするその考え方は、スピーカーの材料にも応用できそうに思われた。僕はすばらしいヒントを与えられたような気がした。僕は昼休になると図書室へ行き、参考になりそうな資料をしらべた。
そのアイデアが浮かんだのは、会社から帰る途中の電車の中だった。家に着くなり自分の部屋にこもって、そのアイデアを具体的な形にするための検討を始めた。
それからの数日、夜おそくまで知恵をしぼってアイデアをまとめた。単なるアイデアのままに終わらせたくはなかったので、それを開発案として提案することにした。
そこまでのすべてを自宅で進めていたし、小宮さんにはそのことを話してもいなかったので、いきなり提案書を見せて小宮さんを驚かすことになった。その提案書を検討するには時間がかかりそうだからと、小宮さんはそれを自宅に持ち帰ることにした。
翌日になって小宮さんが返してくれた提案書には、数ヶ所にエンピツで意見が記入してあった。最後のページには、〈良く考えられたアイデアであり、検討してみる価値はあるが、振動板の重さが気になるところだ〉というコメントが記入してあった。
僕はそのアイデアに自信があったので、すぐにも課長に提案したかった。小宮さんは野田課長の反応を気にしていたが、提案することには反対しなかった。僕は勇んで野田課長の席へ向かった。
僕の説明を聞きながら提案書を見ていた野田課長は、僕が途中まで話したところで口をひらいた。
「君はまだわかっていないようだな、会社で仕事をするということの意味が」
なぜ咎められるのか分からないまま、僕は野田課長を見つめた。野田課長の威圧的な眼に、会議の席で部下を責めるときと同じような冷たさを感じた。
「いいか、松井くん」と野田課長は続けた。
野田課長は教えさとすような口調で話した。小宮さんと僕が取り組んでいる仕事は、充分に検討された開発案にもとづいたものである。新入社員が思いついたアイデアを検討している暇はない。社員は与えられた仕事に全力をつくすべきであり、それ以外のことにエネルギーを費やすならば、場合によっては職務怠慢になる。
野田課長の言葉を聞いて僕は混乱し、そして強い怒りをおぼえた。僕は落胆と憤りを胸にしながら自分の席にもどった。小宮さんは僕を見るなり立ちあがり、実験室で話し合おうと僕をうながした。
実験室に入るなり、僕は野田課長に対する怒りをぶちまけた。提案書をまとめるために仕事をさぼったことはない。与えられた仕事に全力をつくしたうえで、さらに努力して提案書を作りあげたのだ。野田課長はそのような僕の熱意を認めようとしないばかりか、課長の方針に忠実ではない部下だときめつけた。野田課長には僕の提案書を検討してみようという気持ちがなさそうだ。そのような提案書を提出したこと自体が、野田課長には不快なことらしい。それどころか、野田課長は職務怠慢という言葉すら口にした。野田課長のあの発言をを許すことはできない。あのような人の下では仕事をしたくない。
小宮さんは奨めてくれた。吉野係長を訪ねて僕の提案書を見てもらい、意見を聞いたらどうか、と。
その翌日、小宮さんは吉野係長に電話をかけて、僕が相談に乗ってもらえるように依頼してくれた。その夕方、僕は吉野係長の職場がある建物に向かった。
笑顔で迎えてくれた吉野さんは、小宮さんから聞かされていたように、気さくで親切そうな人だった。僕がお礼の言葉を口にすると、吉野さんはそれをさえぎるように、「わかってる、小宮くんから話は聞いている」と言った。
吉野さんは空いていた隣りの席の椅子をひきよせ、そこに腰かけるようすすめてくれた。僕は提案書をさしだしてから椅子に腰をおろした。
吉野さんは提案書に眼をおとし、そのまま黙って読みはじめた。僕は高い評価を期待しながら、吉野さんが読み終えるのを待った。
読み終えた吉野さんは、提案書に眼を向けたままで言った。
「入社してから2ヵ月あまりで、こんな提案書が書けるんだから、たいしたもんだよ、君は。小宮くんが感心するわけだよな」
僕はわくわくしながらその続きを待った。
吉野さんは続けた。「だけどな、ちょっと問題があるんだよ、この開発案には」
吉野さんは僕の開発案にえんぴつでコメントを記入しながら、問題となるところを説明してくれた。
僕の提案書には製作過程に技術上の問題があるだけでなく、たとえ試作してみたところで、従来製品を超える性能を期待できないものだった。僕は吉野さんの説明を聞き、そのことを充分に理解することができた。
その開発案が採用されることに大きな期待を抱いていたので、それが無価値なものとわかって僕はショックを受けた。心の中で僕は思った。もしかすると、野田課長も見抜いていたのではなかろうか、僕の開発案に問題があることを。
吉野さんは僕を慰めるように語りかけてきた。
「ちょっと問題はあるにしてもだ、会社に入ってすぐにこんなアイデアを出せるんだからな、たいしたもんだよ君は。本当に良いアイデアというのは、開発課なんていう組織じゃなくて、個人の中にひらめくものなんだ。いっしょうけんめいに努力していると、神様がアイデアを与えてくださるというわけだよ。がんばるんだな、松井君。僕も応援するから。これからは、君のような技術者が力を発揮すべき時代だからな」
吉野さんが低く語りかける声には、僕を鼓舞してくれる力があった。誉めてくれるその言葉を、僕は素直に受け取ることができた。吉野さんから受ける印象とその言動が、吉野さんに対する僕の信頼感を確たるものにした。提案書に技術的な問題があるとわかって落胆したが、吉野さんから励まされたことで自信を無くさずにすんだ。
吉野さんの職場を出たときは、すでに定時を1時間ほど過ぎていた。スピーカー部にもどって事務室に入ると、残業をしていた小宮さんが立ちあがり、僕をうながして実験室に向かった。
実験室に入るなり小宮さんが言った。「それで、どうだった、あの提案書」
僕は吉野さんから指摘された問題点を小宮さんに伝えた。
「おかしなやつだな松井は」と小宮さんが言った。「あれほど自信を持っていたアイデアがだめだとわかったのに、案外に元気じゃないか」
「小宮さんのおかげで吉野さんに会えたし、いろいろと教えてもらえたからですよ。すごい人ですね、吉野さんは」
「あんな人がここを出されたなんて信じられるか。よくわからんよな、会社の人事というのは」と小宮さんは言った。
新入社員研修が終わるとすぐに、僕たちはそれぞれの職場に別れていった。僕はスピーカー部の第1開発課に配属され、5年ほど先輩の小宮さんについて、スピーカーの振動板を開発することになった。CVDという技術を使うその仕事に、小宮さんは1年前から取り組んでいるとのことだった。
最初の1週間は、あたえられた資料を読みつづける毎日だった。小宮さんが渡してくれた資料は、仕事に必要な知識を修得するための参考書や、文献をコピーしたものだった。スピーカーについては豊富な知識を持っているつもりだったが、それらの資料を理解するためには努力を必要とした。僕ははりきって、そして夢中でそれに取り組んだ。
職場の資料棚には多くの文献や資料があった。僕はそれらを自宅に持ち帰り、夜おそくまで読んだ。もともと朝寝坊の僕がそのようなことをしたので、母にたたき起こされてもバスに乗り遅れることになった。数日の間に2度目の遅刻をしたとき、上司の野田課長からきつい言葉で叱責された。小宮さんが忠告してくれた、自宅でいくら努力をしても、そのために遅刻をすれば、サラリーマンとしてはマイナスにしか評価されないのだ、と。
そのような努力をつづけて、僕は多くの知識を身につけた。配属されてからひと月もたたないうちに、小宮さんの相棒として実験にとりくむようになっていた。
先輩たちが提出したレポートの中に、とくに僕を惹きつけるものがあった。報告者は吉野となっていたが、その先輩はすでに他の職場に移っていた。
「面白いですね、このレポート」僕は小宮さんにレポートを見せながら言った。
「たいしたもんだな松井、吉野さんのそれがわかるのか。レポートというより提案だけどな、それは」
「ちょっと変わった形になりますよね、このアイデアで作ると」
「そうかも知れんけどさ、ほんとに音が良ければ売れるだろ、きっと」
「どんなふうに鳴るのか聴いてみたいですね、このスピーカー」
「いいアイデアだけど、どういうわけか試作もしなかったんだ」と小宮さんは言った。
吉野という先輩の提出したレポートが、資料棚にはいくつもあった。いずれも考えかたが明快で説得力のあるものだった。会ったことのない吉野という先輩に僕は敬意を抱いた。小宮さんに聞いてわかったことは、吉野さんは第2開発課の係長だったが、前年の春に回路設計の部門に移っているということだった。
小宮さんといっしょに振動板の材料を試作しては、高音領域用のスピーカーに適したものかどうかを調べ、その結果をもとにしてさらに実験をくりかえした。毎週月曜日の午前中に開かれる会議で、小宮さんが実験の進みぐあいを報告した。
第1開発課には四つのグループがあり、それぞれのテーマにとりくんでいた。月曜日の定例会議で、各グループのリーダーが仕事の進捗状況を報告すると、野田課長がそれから先の進め方について指示を与えた。課長になって4ヶ月とのことだったが、野田課長は会議の席で部下をきびしく指導した。そのような野田課長の姿が、その頃の僕には頼もしく見えた。
僕が実験に加わってからひと月が過ぎても、試作は少しも進まなかった。製品化されているスピーカーは先輩たちの努力の結晶であり、それを越えるものを容易に作れるわけがなかったのだが、少しも進展しない試作に僕はあせりをおぼえはじめた。その職場で6年目になる小宮さんは、そんな僕をはげましながら試作を進めようとした。
複合材料の利用を思いついたのは、図書室で学術雑誌を見ているときだった。性質の異なる素材を組み合わせることにより、優れた特徴を引き出そうとするその考え方は、スピーカーの材料にも応用できそうに思われた。僕はすばらしいヒントを与えられたような気がした。僕は昼休になると図書室へ行き、参考になりそうな資料をしらべた。
そのアイデアが浮かんだのは、会社から帰る途中の電車の中だった。家に着くなり自分の部屋にこもって、そのアイデアを具体的な形にするための検討を始めた。
それからの数日、夜おそくまで知恵をしぼってアイデアをまとめた。単なるアイデアのままに終わらせたくはなかったので、それを開発案として提案することにした。
そこまでのすべてを自宅で進めていたし、小宮さんにはそのことを話してもいなかったので、いきなり提案書を見せて小宮さんを驚かすことになった。その提案書を検討するには時間がかかりそうだからと、小宮さんはそれを自宅に持ち帰ることにした。
翌日になって小宮さんが返してくれた提案書には、数ヶ所にエンピツで意見が記入してあった。最後のページには、〈良く考えられたアイデアであり、検討してみる価値はあるが、振動板の重さが気になるところだ〉というコメントが記入してあった。
僕はそのアイデアに自信があったので、すぐにも課長に提案したかった。小宮さんは野田課長の反応を気にしていたが、提案することには反対しなかった。僕は勇んで野田課長の席へ向かった。
僕の説明を聞きながら提案書を見ていた野田課長は、僕が途中まで話したところで口をひらいた。
「君はまだわかっていないようだな、会社で仕事をするということの意味が」
なぜ咎められるのか分からないまま、僕は野田課長を見つめた。野田課長の威圧的な眼に、会議の席で部下を責めるときと同じような冷たさを感じた。
「いいか、松井くん」と野田課長は続けた。
野田課長は教えさとすような口調で話した。小宮さんと僕が取り組んでいる仕事は、充分に検討された開発案にもとづいたものである。新入社員が思いついたアイデアを検討している暇はない。社員は与えられた仕事に全力をつくすべきであり、それ以外のことにエネルギーを費やすならば、場合によっては職務怠慢になる。
野田課長の言葉を聞いて僕は混乱し、そして強い怒りをおぼえた。僕は落胆と憤りを胸にしながら自分の席にもどった。小宮さんは僕を見るなり立ちあがり、実験室で話し合おうと僕をうながした。
実験室に入るなり、僕は野田課長に対する怒りをぶちまけた。提案書をまとめるために仕事をさぼったことはない。与えられた仕事に全力をつくしたうえで、さらに努力して提案書を作りあげたのだ。野田課長はそのような僕の熱意を認めようとしないばかりか、課長の方針に忠実ではない部下だときめつけた。野田課長には僕の提案書を検討してみようという気持ちがなさそうだ。そのような提案書を提出したこと自体が、野田課長には不快なことらしい。それどころか、野田課長は職務怠慢という言葉すら口にした。野田課長のあの発言をを許すことはできない。あのような人の下では仕事をしたくない。
小宮さんは奨めてくれた。吉野係長を訪ねて僕の提案書を見てもらい、意見を聞いたらどうか、と。
その翌日、小宮さんは吉野係長に電話をかけて、僕が相談に乗ってもらえるように依頼してくれた。その夕方、僕は吉野係長の職場がある建物に向かった。
笑顔で迎えてくれた吉野さんは、小宮さんから聞かされていたように、気さくで親切そうな人だった。僕がお礼の言葉を口にすると、吉野さんはそれをさえぎるように、「わかってる、小宮くんから話は聞いている」と言った。
吉野さんは空いていた隣りの席の椅子をひきよせ、そこに腰かけるようすすめてくれた。僕は提案書をさしだしてから椅子に腰をおろした。
吉野さんは提案書に眼をおとし、そのまま黙って読みはじめた。僕は高い評価を期待しながら、吉野さんが読み終えるのを待った。
読み終えた吉野さんは、提案書に眼を向けたままで言った。
「入社してから2ヵ月あまりで、こんな提案書が書けるんだから、たいしたもんだよ、君は。小宮くんが感心するわけだよな」
僕はわくわくしながらその続きを待った。
吉野さんは続けた。「だけどな、ちょっと問題があるんだよ、この開発案には」
吉野さんは僕の開発案にえんぴつでコメントを記入しながら、問題となるところを説明してくれた。
僕の提案書には製作過程に技術上の問題があるだけでなく、たとえ試作してみたところで、従来製品を超える性能を期待できないものだった。僕は吉野さんの説明を聞き、そのことを充分に理解することができた。
その開発案が採用されることに大きな期待を抱いていたので、それが無価値なものとわかって僕はショックを受けた。心の中で僕は思った。もしかすると、野田課長も見抜いていたのではなかろうか、僕の開発案に問題があることを。
吉野さんは僕を慰めるように語りかけてきた。
「ちょっと問題はあるにしてもだ、会社に入ってすぐにこんなアイデアを出せるんだからな、たいしたもんだよ君は。本当に良いアイデアというのは、開発課なんていう組織じゃなくて、個人の中にひらめくものなんだ。いっしょうけんめいに努力していると、神様がアイデアを与えてくださるというわけだよ。がんばるんだな、松井君。僕も応援するから。これからは、君のような技術者が力を発揮すべき時代だからな」
吉野さんが低く語りかける声には、僕を鼓舞してくれる力があった。誉めてくれるその言葉を、僕は素直に受け取ることができた。吉野さんから受ける印象とその言動が、吉野さんに対する僕の信頼感を確たるものにした。提案書に技術的な問題があるとわかって落胆したが、吉野さんから励まされたことで自信を無くさずにすんだ。
吉野さんの職場を出たときは、すでに定時を1時間ほど過ぎていた。スピーカー部にもどって事務室に入ると、残業をしていた小宮さんが立ちあがり、僕をうながして実験室に向かった。
実験室に入るなり小宮さんが言った。「それで、どうだった、あの提案書」
僕は吉野さんから指摘された問題点を小宮さんに伝えた。
「おかしなやつだな松井は」と小宮さんが言った。「あれほど自信を持っていたアイデアがだめだとわかったのに、案外に元気じゃないか」
「小宮さんのおかげで吉野さんに会えたし、いろいろと教えてもらえたからですよ。すごい人ですね、吉野さんは」
「あんな人がここを出されたなんて信じられるか。よくわからんよな、会社の人事というのは」と小宮さんは言った。