「長岡半太郎や本多光太郎も、小学校時代には勉強ができなかったそうだから、今の日本に生まれていたら、世界的な学者にはなれなかっただろうな」
「今の日本では、小学校でつまずいた子供は催眠にかかってしまって、自分には能力がないと思い込むようになると思うな。そうなると、たとえ努力をしたところで、催眠にかかっているために勉強は身につかないわけだ。お前の場合には運が良かったんだよ。オーディオ装置に興味を持ったおかげで、うまい具合に催眠から醒めることができたんだからな。電子回路を勉強したきっかけが音楽というのは、お前だけかも知れないけどな」
「詳しいんだな、教育のことに」と僕は言った。
「本を1冊読んだだけだよ。偏差値教育と詰込み教育の問題をとりあげた本を」
 その言葉を聞いて、坂田はずいぶんレベルの高い読書家だと思った。僕が読むのはおもに科学雑誌や週刊誌で、教養のための書物はほとんど読まなかった。
 坂田はさらに続けた。「こんなことも書いてあったな。小学校の低学年では理科好きな子供が多いのに、高学年になると理科嫌いが多くなるというんだ。好奇心を満たすことより、知識を詰め込むことが重視されたり、友達と成績を競わされたりするんだからな、そんな理科がおもしろいはずがないよ」
「おもしろそうな本だな。貸してくれないか。おれも読んでみたいよ」と僕は言った。
 坂田としばらく話しているうちに、彼もまた小学生の頃から理科好きだったことがわかった。そのような坂田と僕は、技術者をめざして同じ会社に入社したのだった。
「どこに配属されるにしてもだよ、新聞社や銀行の仕事よりはおれに向いているはずだからな」と坂田が言った。
 4月の末には辞令が出され、配属される職場が決まるはずだった。
「あのな」口調を変えて坂田が言った。「おれの妹は銀行なんだ」
「へー、そうか。もしかしたら、お前よりも妹の給料がいいんじゃないのか」
「そうだとしゃくだからな、給料の話はやめとくよ、妹とは」坂田は笑いながら応じ、そして続けた。「今度いっしょに就職したんだ、妹も。おれより三つ年下だ。妹は短大でおれが1年ほど浪人したからな。かわいい奴だぞ。会ってみたいと思わんか」
 坂田の言葉と笑顔にうながされ、僕は「ありがとう、なんだか自分に自信を持てそうな気がするよ、お前からそんな言いかたをされると」と応じた。
 儀礼的なその言葉を口にしたとき、心の隅を佳子の影がかすめた。
「だったら紹介するよ、そのうちにな」と坂田が言った。
 坂田の言葉に僕は黙ってうなずいた。佳子のことを話すべきだと思いながらも、雰囲気を壊しそうな気がして口にしなかった。
 妹のことに僕がそれほど興味を示さないと見たのか、坂田はすぐに話題を変えた。   とりとめのない会話に興じていると、いつの間にか話題は政治のことになっていた。政治にはそれほど関心がなかったので、僕のほうから話すことは少なかったが、坂田は社会問題や政治について熱心に語った。
 日本の政治の現状をなげく坂田と話していて、僕は1週間前に会った高校時代からの友人を思いだした。新聞社に入社したばかりの友人は、ジャーナリストとしての夢を熱心に語った。友人と話し合って以来、ジャーナリストというものにたいして、僕は正義漢のイメージを抱いていた。僕が友人のことを話すと坂田は言った。
「正義感を持たないジャーナリストなんて存在価値が無いだろう。それにさ、なによりもだよ、ジャーナリストには見識や良識といったものが必要だと思わんか。ひとりよがりでわがままな正義をふりかざされたら、迷惑をこうむるどころじゃないからな」
「さっき話したような政治家は、要するに存在価値がないわけだ」
「政治家になってほしくないのは利己的な奴だ。政治は政治家のためのものじゃないからな。使命感や正義感、勇気に倫理感……もちろん実行力も必要だ。とにかく、いろいろあるけどさ、政治家にはどれも必要なんだよ。そう思わんか」
 坂田の話に触発されるままに僕は考え、そしてしゃべった。酔いにまかせてしゃべっていると、いつになく自分が知的になっているような気がした。
 坂田はずいぶん酔っていたはずだが、話の内容や議論の展開には少しも乱れたところがなかった。政治や社会について語っている坂田は、しらふの時よりもむしろ理知的に見えた。僕は坂田に敬意を表わしたくなった。
「いろんなことを知ってるし、随分考えてもいるんだな。お前をみならって少しはおれも考えることにするよ、政治とか社会のことを」
「お前だってよく考えてるじゃないか。よかったよ、久しぶりにこんな議論ができて。おれが知っているのは、新聞で読んだ程度のことだけど、たまにはこんな話をするのもいいもんだよな」
 いつかまた、このような機会を持ちたいものだと僕は思った。
 まわりには僕たちと同じように、大声で議論をしているグループがあった。僕たちはときおり何かを注文し、たまにビールを追加しながら、長い時間をそこで過ごした。
 店を出たときにはふたりとも深く酔っていた。ふらつく坂田をささえるようにして立川駅へ向かった。
 坂田は高尾行きの電車に乗るまぎわまで僕に語り続けた。坂田の別れのあいさつはプラットホームに響きわたったが、それがまわりの人に与えた不快感はそれほど強くはなかっただろう。声は乱れていても言葉はじつに爽やかだった。僕もずいぶん酔っており、悲鳴をあげそうな胃を抱えていたが、それでも気分は爽快だった。

 土曜日の午後おそく、1週間ぶりに佳子と会った。
 佳子は両親や妹といっしょに埼玉県に住んでおり、英語の教師として県内の中学校に勤務していた。佳子と会うために、僕は毎週のように埼玉まで出かけた。電車とバスを乗り継いで行くこともできたが、多くの場合、借りた父の車を運転して行った。車の運転を楽しむことができたし、その方が僕にとっては便利でもあったが、その土曜日は武蔵野線の電車を利用した。
 従妹の幸子が佳子を紹介してくれたのは、まだ大学が冬休中だった前年の正月だった。佳子は幸子の同級生であり、僕と同じく大学の3年生だった。他には女の友達がなかったし、佳子とは気が合ったので、それ以来、僕は佳子と親しくつきあった。
 その3月に佳子が大学を卒業し、故郷の埼玉で教師になってからは、土曜日の午後か休日にしか会えなくなった。
 その日も、いつものように佳子と早めの夕食をとった。アルバイトの収入が頼りだった学生時代とちがい、サイフの中身を気にすることはなかった。
「もしも私がお見合いをすると言ったらどうする、滋郎さん」いたずらっぽい笑顔を見せて佳子が言った。
 とうとつにおかしな冗談を聞かされたような気がした。
 僕は佳子の笑顔を見つめながら言った。「なんだよ、いきなり。佳子がどうして見合をするんだよ」
「もっとびっくりすると思ったのに・・・・。でも、ほんとよ。どうする、滋郎さん」
 佳子は両ひじをつき、組んだ手にあごを乗せたまま、挑発するような言い方をした。佳子の笑顔が僕のとまどいを楽しんでいた。
「じらさないで言えよ。何があったんだ」
 佳子は1週間前の日曜日に起こったできごとを話した。約束していた訪問先でひとりの男を紹介されたこと。それが意図して仕組まれたものだったと知って驚いたこと。自分たちにとっては事件といえるそのできごとを、僕たちはデートの話題にして楽しんだ。
 静かに流れていた音楽がトロイメライに変わった。僕たちはチェロで演奏されるトロイメライに送られながらレストランを出て、店の駐車場で佳子の車に乗った。
 その日は佳子の車でホテルに入った。大学を卒業した直後にはじめて入って以来すでに幾度か経験していたものの、かんたんな手続きをするにも多少の緊張をおぼえた。佳子はすでに慣れたのか、僕よりも落ちついているように見えた。
 とくに約束したわけではなかったが、僕たちは結婚を前提にしたつき合いをしていた。とはいえ、大学を卒業したばかりであって、しかも日常の慣れの中に浸っていたので、僕は結婚を近い将来のこととは考えていなかった。
 佳子とは武蔵野線の沿線で待ち合わせることが多く、駅まで僕が車ででかけ、そこで佳子とおち合うのがいつものやり方だった。僕が電車を利用したその日は、佳子が駅まで送ってくれた。
 電車に揺すられながら、レストランで佳子と話したことを思いかえした。佳子は見合いのことを話したとき、自分たちの結婚のことを話題にしたかったのだろうか。佳子に結婚を急ぎたい気持ちがあれば黙っているはずはないから、見合いの話はたんなる話題にすぎなかったのかもしれない。それはともかく、と僕は思った、もしも佳子が望むなら、早めに結婚するのも悪くはない。