会社の食堂で坂田を吉野さんに紹介したのは、僕が吉野さんと親しくなってから間もない頃のことだった。坂田と吉野さんの部門は協力しつつ業務をこなす関係にあったので、それ以来、坂田も吉野さんから指導を受けるようになっていた。
「それって、吉野さんのことか」
「吉野さんにかぎらず、一般的に言えることだよな、このことは」
「そうだろうけど、仕事で成果をあげるためには、執念を燃やすことも必要なんだよ。吉野さんが話してくれたことだけど、案外これは重要なことだと思えるんだよな、おれには」
「おれも聞いたよ、執念の話」と坂田が言った。
 それからしばし、目標の達成に向けて燃やす執念について議論した。
「会社で働く技術者はサラリーマンだから」と坂田が言った。「仕事に執念を燃やしている技術者というのは、仕事をやり遂げるために執念を燃やしているサラリーマンということだよな」
「言いかえれば、執念を燃やしてがんばるのは技術者に限らないということだよ。責任を果たすためにも、自分の業績を上げるためにも努力なしではできないからな。仕事によって執念のもやし方には違いがあるだろうけど」
 坂田が彼の伯父のことを話しだした。福島県で農業技術の改良に情熱をかたむけている伯父の姿に、ふたりで議論している執念の話が当てはまりそうだ、と坂田は言った。
 たしかに、と僕は思った。執念を燃やしながら努力をしている人は、さまざまな分野で見られるに違いない。
 僕が箸を使っていると、坂田が言った。「おれの伯父はだいぶ年をとってるんだが、あい変わらずはりきって田や畑に出ているそうだよ。はっきりした目標があれば、いくつになっても人間は努力できるのかもしれないな」
「目標があればこそ努力することができる、というわけか。どんなに苦労していても、当人はわくわくしながらやってるわけだ」
「わくわくできるような仕事か」と坂田は言って、ビールをいっきに空けた。「たしかに伯父にとっては農業が生きがいみたいだな」
「おれもな、なるべく早く目標を決めるつもりだ。あわてるわけじゃないけど」
「お前ならやれるさ。もとは成績劣等生の落ちこぼれだったんだからな、長岡半太郎や本多光太郎みたいに。あんがい世界的な業績をあげるかもしれないぞ」
「せっかくのありがたいお言葉だ、真に受けることにするよ」僕はおどけて言った。「おれが将来やる仕事はまだ決まっていないけど、とにかく執念を燃やしてがんばるよ。お前もがんばれよな」
「もちろん、おれもがんばるさ。だけど、おれの場合には、吉野さんの言う執念とは、ちょっと違うがんばり方をするかも知れんな」
「要は生きがいだよ。お前の伯父さんみたいな生き方もあるんだからさ」
 坂田は僕のコップにビールをつぎながら言った。「生きがいと言えばな、吉野さんに言わせると、これからの日本人は、生きがいということをもっと考えるべきだってさ。物質的にはどんなに豊かになっても、それだけではむなしいだろう、と吉野さんは言った」
「吉野さんのことだからもっと話しただろう、生きがいのこと」
「明日を今日よりも良くしたいという気持ちがあって、そのために何かをしている人には生きがいがあるはずだ、と吉野さんは言ったよ。たぶん、気持ちの持ちようがだいじだということだろうけど」
 坂田は続けた。「だけどな、どんな生き方をするにしても、努力が報いられる社会でなければだめだよな。新聞や雑誌によると、日本の貿易黒字は膨大なものらしいが、問題は、汗水たらしてがんばっているおれたちに、その分け前がきちんと渡されているかどうかということだよ」
 坂田がいきなり話の向きを変えた。いかにも坂田らしいその言葉で、吉野さんや小宮さんといっしょに議論した、日本人奴隷論のことを思いだした。僕がそのことを話すと坂田は言った。
「たしかに、いまの日本人の多くは奴隷みたいなもんだぞ。貴重な時間を犠牲にしてまで残業したり、働くこと自体が目的みたいな生き方をしたり……自分で自分を奴隷にしているようなものじゃないか。苦労しているわりには報われない社会だといっても、自分たちがそんな社会にしているんだよ。社会の仕組みに問題があれば、それを変えるために努力すべきだし、政治をもっと良くすることも必要だけど、そんな努力が日本では不足しているとおれは思うな」
「何のために働いているのか、おれたち自身がもっと考えるべきだな。まずは政治を良くしなくちゃならんけど、お前がいつか言ったように、政治のありようは、政治家よりもむしろ国民にかかってるんだ。政治に満足している者など、今の日本にはいくらもいないはずだけど、選挙では半分近くの者が棄権するんだから、日本という国はまったくおかしな国だと思うよ」
 僕の言葉にうなずいた坂田は、コップに半分ほど残っていたビールを空けた。
 あのことがあって以来、僕たちの間で絵里にかかわる話題がでたことはなかった。絵里のことがどんなに気にかかっていても、僕はそのことを口にしなかったが、そのときは、そうすることが坂田に対する礼儀だという気がしたので、その後の絵里の様子を訊くことにした。坂田は週末に両親の家に帰ることがあるので、絵里の近況をよく知っているはずだった。
 坂田が話してくれたところによれば、絵里は元気をなくしているものの、心配する程のことはなく、表面的には以前と変わりのない生活をしているということだった。僕を安堵させようとの配慮があるには違いなかったけれども、それを聞いてほっとするような気持ちになった。
「絵里さんには、ほんとにすまないと思ってる」と僕は言った。
「大丈夫だよ、絵里は。おとなしいやつだけど、そのわりには積極的にやってゆけそうだからな。お前のおかげで男ともつき合えるようになっただろうから、これからも何とかやっていくだろう。だから、心配するなよ、絵里のことは」
「絵里さんなら、おれなんかよりもましな男を見つけるよ」
「おまえのおかげでコンプレックスも消えたようだしな」と坂田が言った。「おれの眼にはけっこう可愛い奴に見えるんだけど、本人にすればそうではなかったみたいだな。よくはわからないんだが、女というのは、おれたちとは違ったふうに見るのかもしれないな、自分のことを」
 絵里の笑顔ときれいな瞳を思いうかべながら、絵里にコンプレックスがあるとはどういうことだろうと思った。
「おれにはわからないけど、絵里さんのコンプレックスってどういうことだ」
「おまえの前では絵里も明るく振る舞えたようだから、おまえは気がつかなかったんじゃないかな、絵里が気にしていることに。お前のおかげで、今では気にしていないだろうけど」
 僕を魅了した絵里の瞳が思いだされた。あの絵里にどんな自画像があったのだろう、と思ったとき、オードリー・ヘプバーンについて書かれた週刊誌の記事を思いだした。
「オードリー・ヘプバーンという女優がいるだろう。ヘプバーンの自伝を紹介した記事に出ていたんだけど、あのヘプバーンには、自分がみにくいというコンプレックスがあったらしいよ。信じられないような話だけど、自分自身についての思い込みを、心理的な自画像とか言って、案外だれでもそういうのを持っているらしいよ。もしかすると、絵里さんも変な自画像を抱えているのかな」
 坂田は手にしていたコップを見ながら言った。「いつだったか、おまえは話したよな、お前は小学生のころ、自分は頭が悪いと思い込んでいたって。人間というのは、そんなふうにして自分に催眠術をかけるんだよ。自分は優れていると思いこんだ者は得をするけど、運がわるいとその逆になるわけだ。おまえは電子回路を勉強したおかげで成績が良くなったそうだが、絵里の場合には、おまえのおかげで催眠から醒めたんじゃないのかな。だから、お前に絵里を会わせてよかったと思ってるんだ」
 坂田は絵里が抱いていたというコンプレックスについて話した。絵里がそのようなことを気にしていたのかと思うと、「僕には今の絵里さんが充分に魅力的だよ」と絵里を励ましてやりたかった。とはいえ、坂田が言ったように、絵里はそのようなコンプレックスからすでに抜け出しているような気がした。そのことで絵里の手助けができたのだと思うと嬉しかった。絵里に対する自分の罪が、少しは軽くなったような気がしたけれども、そうとは言えないことにすぐ気がついた。絵里はいつの日か、幸せになれる誰かと巡り合うに違いない。僕と出会うことがなかったとしても、それどころか、むしろ僕と出会わなかったほうが、絵里は本当の自信を得ることになったかも知れないではないか。いずれにしても、絵里には自信をもって生きてもらいたい、と僕は思った。絵里には本当に幸せになってほしいと強く願った。
「絵里さんにはほんとに幸せになってもらいたいよ」と僕は言った。
 坂田はうなづくと、僕のコップにビールを注いだ。
 佳子からの手紙のことは、もちろん坂田に知らせなかった。絵里と坂田のふたりには、佳子の妊娠が嘘だったことを知られたくなかった。そのことを知ったら、絵里は気持ちを乱すにちがいなかった。絵里には心穏やかに新しい道を歩んでもらいたかった。
 佳子と絵里の間で悩んだこと、そして大学院への進学のこと、そのいずれに対しても、僕は何者かになかば強いられるようにして道を選んだ。その経緯はともかくとして、僕は自分の意志で選んだ道を歩き出そうとしていた。