吉野さんとさらに話しているうちに、僕の知らなかった野田課長の姿が見えてきた。それを話したのが吉野さんでなかったならば、僕がそれを信じることはなかっただろう。とはいえ、それによって野田課長に対する感情がただちに変わるわけがなかった。だが、僕が積み上げてきた野田課長に対する反感と憎しみの感情は、土台のところで既にぐらついていた。
吉野さんに来客があるとの呼びだしがあり、僕たちの話し合いは終わることになった。
「野田君からの頼みを伝えるより先に、君の決意を聞かされたわけだが、さっきも言ったように、君にとっては大学院への進学は良いことだろうという気がするんだ。だけど、今の僕の話を聞いて君の考えが変わるようだったら、すぐに知らせてくれないか。野田君とのことがうまく行くように相談にのるから」
その言葉を残して、吉野さんはあわただしく会議室を出て行った。
僕は誰もいない会議室に残って、吉野さんから聞かされたことを思い返した。僕には疎ましい野田課長だが、吉野さんにとってはそうでもないらしい。それどころか、野田課長に反発している僕に対して、吉野さんは批判的ですらあった。もしかすると、野田課長に対する自分の対応には、反省すべきところがあるのかも知れない。
僕は自分の職場がある建物に帰ると、事務室には入らないで実験室へ向かった。混乱している心境のまま、野田課長と顔を合わせたくはなかった。何よりもまず、吉野さんから聞かされたことを、もう一度じっくりと考えてみなければならなかった。
実験室に入るとすぐに、装置の清掃作業に取りかかった。考えごとをしながらでもできる作業だった。
僕は作業を続けながら、野田課長を憎むに至ったいきさつをふり返ってみた。
野田課長の感情的な言動に僕は嫌悪感を抱いた。部下の感情には意を用いない野田課長を、上司として尊敬することができず、その下では働きたくないと思うに至った。そして今では、 野田課長に対して不満を抱くどころか、反感や憎しみすら覚えている。このような僕に対して、吉野さんは明らかに批判的だった。
もしかすると、吉野さんのような見方をしなければ、野田課長の本当の姿は見えないのかもしれない。僕は野田課長の短所だけに眼をむけたことで、そして、野田課長の言動に対して感情的に反発したことで、野田課長の一面だけを見るようになったのかも知れない。野田課長の短所を許せないと感じている僕自身にも、他人から指摘されるような欠点がいくらでもありそうな気がする。課長の立場に思いを致すことなくその言動にこだわり、さらには憎しみをつのらせているということは、僕が野田課長におとらず狭量だということではなかろうか。もしかしたら、僕は狭量であるのみならず、人を見る視野も狭いということではないのか。人並みの判断力を備えていると自負していたが、もしかすると、人を見る眼には問題があるのかもしれない。
吉野さんには様々な指導を受けてきたのに、野田課長とのことでは一度も相談しなかった。もしも吉野さんに相談していたなら、野田課長に対してどのように向き合うことになっていたのだろうか。
いつの間にか装置の清掃作業を終えていた。装置の蓋を閉じ、内部を真空にする操作をしてから、実験室を出て事務室へ向かった。
事務室に入ったとたんに野田課長と眼が合った。いつもなら、その瞬間に不愉快な感情がわきあがるところだったが、そのとき、僕はどうしたらよいのか戸惑って、そのまま野田課長をぼんやりと見ていた。野田課長は何ごともなかったかのように、机の書類に眼をもどした。
僕は自分の席につき、測定データの分析をはじめた。隣の席では小宮さんがレポートを書いていた。吉野さんから聞かされたことを、小宮さんにも伝えなければならないと思った。昼休みに小宮さんを屋上へ誘い、そこで話し合うことにした。
吉野さんの話にショックを受けたからといって、大学院へ進む方針を変えるわけにはいかなかった。野田課長には旅行の後で退職の意志をあらためて伝えたし、家族の者や会社で親しくしている人に対しても、大学院への意志を明確に伝えてあった。いきさつはともかくとして、僕は大学院への進学を自分の目標としてすでに強く意識していた。
入学試験のことを相談するために、卒業した大学の専任講師に電話をかけた。僕の卒業研究を指導してくれたひとだった。
専任講師によれば、多くの大学院が入学試験をすでに終えているらしかった。新宿で池田と話し合ったとき、大学院の入学試験が話題になっていたので、それは既に予想していたことだった。それはそれとして、僕が卒業した大学では、翌年の春に2次募集があることがわかった。受験の準備をしていなかった僕にとっては、数か月先の試験は厳しい難関といえたが、あきらめずに準備を進めることにした。
退職してから大学院に入るまでの期間を、僕は研究室の研究助手ということにしてもらいたかった。すでに卒業している身で受験の準備を進めるためには、研究室に出入りできる資格があったほうが良さそうだった。講師は僕の希望を教授に伝え、協力すると約束してくれた。
その数日後、卒業してからはじめて大学を訪れ、卒業研究のために在籍していた研究室の教授に会った。その結果、僕の希望は受けいれられて、研究助手ということにしてもらえた。研究助手とはいっても名目だけのものであり、給料がないかわりに出勤する義務もないというものだった。僕が望む場合には、図書館を利用することも可能になった。
僕が辞表をさしだすと、無言で受け取った野田課長は、封筒の表書にしばらく眼をとめていた。その表情が、辞表の提出を予期していたことを表していた。
野田課長は僕を来客用の応接室につれて入った。
「君にはずいぶん期待していたんだが、残念だな、こんな結果になって。結局は僕の不徳の致すところだと思ってあきらめるよ。大学院にゆくそうだが、大学院を修了したらこの会社にもどってこないか。そのときには君を大歓迎するつもりだ。忘れないでいてくれよな。それから、君にはお礼を言わなくちゃな。これまで随分がんばってくれたことだし、仕事がかたづくまで残ってくれるんだから。もうひとふんばりして、小宮くんといっしょに仕事をまとめてくれ、悔いを残さないようにな」
野田課長の表情と口調に、いつもと変わらぬ冷たい印象を受けたが、そのような野田課長と向き合っていても、僕の心に反発心がわきあがることはなかった。
野田課長との話し合いが終ったあとで、僕は坂田に社内電話をかけて、辞表を提出したことを伝えた。その翌日、坂田とふたりで飲みながら話し合うことになった。坂田と飲みにでかけるのはそれが二度目だった。
「うちの会社にも困ったもんだよ、お前に見かぎられるようじゃな」と坂田が言った。
「だいじょうぶだろ、お前が見かぎらなきゃ」
「お前みたいに優秀なやつが、上役との関係で会社をやめることになるんだからな、サラリーマンにとってはやっぱり運みたいなものも大事だよな」
「それは言えるよな、たしかに」僕は箸を使いながら言った。
僕たちが食事をとりながら飲んでいたのは、坂田が先輩たちと入ったことがあるという店だった。その大衆酒場のざわついた雰囲気がよかった。あたりに遠慮しないで坂田と議論することができそうな店だった。
「仕事が自分に向いているかどうかということも、サラリーマンの運という意味では重要なことだよな。仕事がおもしろくて、しかも成果がだせるわけだからさ」と坂田が言った。「適材適所というけど、ほんとの意味でそうなっていたら、誰もがやる気を出せるはずだよ。会社はもっと考えるべきだよ、そういうことを」
僕が口をはさむ前に、坂田はさらに続けた。「ほんとに優秀で、才能を発揮してもらいたい人がだよ、仕事の面では必ずしも恵まれているとは言えないんだよな」
坂田が吉野さんのことを言っているように聞こえた。
吉野さんに来客があるとの呼びだしがあり、僕たちの話し合いは終わることになった。
「野田君からの頼みを伝えるより先に、君の決意を聞かされたわけだが、さっきも言ったように、君にとっては大学院への進学は良いことだろうという気がするんだ。だけど、今の僕の話を聞いて君の考えが変わるようだったら、すぐに知らせてくれないか。野田君とのことがうまく行くように相談にのるから」
その言葉を残して、吉野さんはあわただしく会議室を出て行った。
僕は誰もいない会議室に残って、吉野さんから聞かされたことを思い返した。僕には疎ましい野田課長だが、吉野さんにとってはそうでもないらしい。それどころか、野田課長に反発している僕に対して、吉野さんは批判的ですらあった。もしかすると、野田課長に対する自分の対応には、反省すべきところがあるのかも知れない。
僕は自分の職場がある建物に帰ると、事務室には入らないで実験室へ向かった。混乱している心境のまま、野田課長と顔を合わせたくはなかった。何よりもまず、吉野さんから聞かされたことを、もう一度じっくりと考えてみなければならなかった。
実験室に入るとすぐに、装置の清掃作業に取りかかった。考えごとをしながらでもできる作業だった。
僕は作業を続けながら、野田課長を憎むに至ったいきさつをふり返ってみた。
野田課長の感情的な言動に僕は嫌悪感を抱いた。部下の感情には意を用いない野田課長を、上司として尊敬することができず、その下では働きたくないと思うに至った。そして今では、 野田課長に対して不満を抱くどころか、反感や憎しみすら覚えている。このような僕に対して、吉野さんは明らかに批判的だった。
もしかすると、吉野さんのような見方をしなければ、野田課長の本当の姿は見えないのかもしれない。僕は野田課長の短所だけに眼をむけたことで、そして、野田課長の言動に対して感情的に反発したことで、野田課長の一面だけを見るようになったのかも知れない。野田課長の短所を許せないと感じている僕自身にも、他人から指摘されるような欠点がいくらでもありそうな気がする。課長の立場に思いを致すことなくその言動にこだわり、さらには憎しみをつのらせているということは、僕が野田課長におとらず狭量だということではなかろうか。もしかしたら、僕は狭量であるのみならず、人を見る視野も狭いということではないのか。人並みの判断力を備えていると自負していたが、もしかすると、人を見る眼には問題があるのかもしれない。
吉野さんには様々な指導を受けてきたのに、野田課長とのことでは一度も相談しなかった。もしも吉野さんに相談していたなら、野田課長に対してどのように向き合うことになっていたのだろうか。
いつの間にか装置の清掃作業を終えていた。装置の蓋を閉じ、内部を真空にする操作をしてから、実験室を出て事務室へ向かった。
事務室に入ったとたんに野田課長と眼が合った。いつもなら、その瞬間に不愉快な感情がわきあがるところだったが、そのとき、僕はどうしたらよいのか戸惑って、そのまま野田課長をぼんやりと見ていた。野田課長は何ごともなかったかのように、机の書類に眼をもどした。
僕は自分の席につき、測定データの分析をはじめた。隣の席では小宮さんがレポートを書いていた。吉野さんから聞かされたことを、小宮さんにも伝えなければならないと思った。昼休みに小宮さんを屋上へ誘い、そこで話し合うことにした。
吉野さんの話にショックを受けたからといって、大学院へ進む方針を変えるわけにはいかなかった。野田課長には旅行の後で退職の意志をあらためて伝えたし、家族の者や会社で親しくしている人に対しても、大学院への意志を明確に伝えてあった。いきさつはともかくとして、僕は大学院への進学を自分の目標としてすでに強く意識していた。
入学試験のことを相談するために、卒業した大学の専任講師に電話をかけた。僕の卒業研究を指導してくれたひとだった。
専任講師によれば、多くの大学院が入学試験をすでに終えているらしかった。新宿で池田と話し合ったとき、大学院の入学試験が話題になっていたので、それは既に予想していたことだった。それはそれとして、僕が卒業した大学では、翌年の春に2次募集があることがわかった。受験の準備をしていなかった僕にとっては、数か月先の試験は厳しい難関といえたが、あきらめずに準備を進めることにした。
退職してから大学院に入るまでの期間を、僕は研究室の研究助手ということにしてもらいたかった。すでに卒業している身で受験の準備を進めるためには、研究室に出入りできる資格があったほうが良さそうだった。講師は僕の希望を教授に伝え、協力すると約束してくれた。
その数日後、卒業してからはじめて大学を訪れ、卒業研究のために在籍していた研究室の教授に会った。その結果、僕の希望は受けいれられて、研究助手ということにしてもらえた。研究助手とはいっても名目だけのものであり、給料がないかわりに出勤する義務もないというものだった。僕が望む場合には、図書館を利用することも可能になった。
僕が辞表をさしだすと、無言で受け取った野田課長は、封筒の表書にしばらく眼をとめていた。その表情が、辞表の提出を予期していたことを表していた。
野田課長は僕を来客用の応接室につれて入った。
「君にはずいぶん期待していたんだが、残念だな、こんな結果になって。結局は僕の不徳の致すところだと思ってあきらめるよ。大学院にゆくそうだが、大学院を修了したらこの会社にもどってこないか。そのときには君を大歓迎するつもりだ。忘れないでいてくれよな。それから、君にはお礼を言わなくちゃな。これまで随分がんばってくれたことだし、仕事がかたづくまで残ってくれるんだから。もうひとふんばりして、小宮くんといっしょに仕事をまとめてくれ、悔いを残さないようにな」
野田課長の表情と口調に、いつもと変わらぬ冷たい印象を受けたが、そのような野田課長と向き合っていても、僕の心に反発心がわきあがることはなかった。
野田課長との話し合いが終ったあとで、僕は坂田に社内電話をかけて、辞表を提出したことを伝えた。その翌日、坂田とふたりで飲みながら話し合うことになった。坂田と飲みにでかけるのはそれが二度目だった。
「うちの会社にも困ったもんだよ、お前に見かぎられるようじゃな」と坂田が言った。
「だいじょうぶだろ、お前が見かぎらなきゃ」
「お前みたいに優秀なやつが、上役との関係で会社をやめることになるんだからな、サラリーマンにとってはやっぱり運みたいなものも大事だよな」
「それは言えるよな、たしかに」僕は箸を使いながら言った。
僕たちが食事をとりながら飲んでいたのは、坂田が先輩たちと入ったことがあるという店だった。その大衆酒場のざわついた雰囲気がよかった。あたりに遠慮しないで坂田と議論することができそうな店だった。
「仕事が自分に向いているかどうかということも、サラリーマンの運という意味では重要なことだよな。仕事がおもしろくて、しかも成果がだせるわけだからさ」と坂田が言った。「適材適所というけど、ほんとの意味でそうなっていたら、誰もがやる気を出せるはずだよ。会社はもっと考えるべきだよ、そういうことを」
僕が口をはさむ前に、坂田はさらに続けた。「ほんとに優秀で、才能を発揮してもらいたい人がだよ、仕事の面では必ずしも恵まれているとは言えないんだよな」
坂田が吉野さんのことを言っているように聞こえた。