数日経つと、僕の心に迷いが現れた。これから先の人生で、野田課長よりもいやな人間とつき合わざるをえない場合もあるだろう。そのたびに職場や会社を替えるわけにはいかないではないか。野田課長を嫌って大学院に進むというのであれば、野田課長のために人生のまわり道を選ぶということになりはしないか。その疑問に対しては、大学院への進学は執念を燃やすべき目標を見いだすためであり、野田課長から逃げるためではないのだ、と自分を納得させた。だが、すぐに次の疑問がわいてきた。吉野さんが課長であっても、自分は大学院への進学を希望するのだろうか。その場合には、会社に残って仕事を続けるはずだ。もしかすると、自分は短慮なことをしようとしてはいないか。
そのような想いが僕を惑わせたが、やはり思いきって会社をやめることにした。野田課長に向かって日頃の憎しみを投げつけ、会社をやめると宣言してしまっていたし、会社に残った場合には、小宮さんがいなくなった職場が、これまで以上に居ごこちが悪くなりそうだった。僕はあらためて決意した。大学院での数年間を充分に意義あるものにして、そこでの数年間を決して人生の回り道にしてはならない。
野田課長とはできるだけ顔を合わせたくなかったが、すぐに会社をやめるわけにはいかなかった。数か月にわたって情熱をかたむけ、技術者としての生き方に大きな影響を与えてくれた仕事に、思いを残すようなことはしたくなかった。そのことは、小宮さんに迷惑をかけないためにも必要なことだった。その頃の状況から判断すれば、数週間で仕事に決着がつくはずだった。
会社をやめることを、家族のうちでは最初に兄に知らせた。
兄が大きな驚きを見せたのも無理はなかった。大学院に興味を持っていることを、家族の誰にも話したことがなかったし、大学院のことを話題にしたことさえもなかった。
いきさつはともかくとして、僕はすでに大学院へ進みたいと強く願っていたので、どうしても兄を説得しなければならなかった。驚いている兄に対して、僕は懸命に話した。熱中できる対象であれば、困難な目標であろうと挑戦できるという確信を得たこと。執念を燃やして取り組むべき目標を見つけることと、そのために必要な能力を養うことが、大学院を目指す目的であること。兄は僕の話を聞くと、もう少し慎重に考えてから結論をだすように、そして、父と母にはまだ話さないほうがよいと言った。
家族の全員に反対されたとしても、決意を変えるわけにはいかなかった。兄に続いて両親にも大学院への進学希望とその理由について説明し、了解を求めた。そのようにして家族の者を説得しているうちに、会社をやめる理由は大学院へ進学するためであり、野田課長とのことは会社をやめるきっかけに過ぎないのだ、という意識が僕の中でしだいに強まった。
父の同意を得るためには多少の苦労をした。父は説明を求めた。スピーカーを開発する夢を抱いて入社した会社を、一年にも満たないうちにやめるとはどうしたことか。あれほど熱中していた仕事に未練はないのか。それでもやめるというからには、会社に居られないよほどの事情でもあるのではないか。同じような疑問を、父だけでなく母や兄もむろん抱いていた。
家族の者を説得するためには数日を要したが、結局は、父と母、そして兄も僕の決意に賛成してくれた。
大学院に関心があることを、坂田にはすでに伝えていたが、大学院がまだ漠然とした対象に過ぎない頃だったから、坂田にもそのようにしか聞こえなかったはずだ。僕が会社をやめる決意をしたことは、むろん坂田に大きな驚きを与えた。小宮さんと同様に坂田も僕に忠告してくれた。辞表の提出を急いだりせずに、慎重に時間をかけて考えろ。このままやめたら後悔するかも知れないではないか。
それからまもなく、僕は吉野さんを職場に訪ね、それまでの事情を話したうえで会社をやめることを伝えた。
吉野さんは僕を会議室につれて入り、いつものように穏やかに話しかけてきた。
「この会社では目標が限られるし、社内に君のやりたいことがあったとしても、その希望がかなえられるとは限らないからな。だから、大学院にいる間にじっくり考えて、執念を燃やして取り組める目標を見つけたいというのは、確かにひとつの考え方だと思うよ。君の決意に対して意見がましいことを言う立場にはないから、それは遠慮しておくけどな」
そこまで話した吉野さんは、改まった口調で「ところでな」ときりだした。
「昨日の夕方、野田君が、相談したいと言ってここに来たんだ。君のことで話したいと言ってな。僕が君や小宮君と親しくしていることを、だいぶ前から知っていたそうだ」
意外なことが話しだされた。吉野さんが野田課長と話し合ったというのも意外なことであったが、こともあろうにその目的が僕にかかわることだったと聞いて、僕は身がまえるような気持ちになった。
「慰安旅行で君に会社をやめると言われてあわてたそうだよ、野田君は。君が本気らしいとわかってえらく気にしていたぞ。君が野田君に反発していることにも、彼はかなり前から気がついていたそうだよ。だから君とじっくり話し合いたいと思っていたら、そのやさきに変なことになったと残念がっていた。君が野田君に対して反感を持っていることを知っていたら、僕にも君のためにしてやれることがあっただろうけど、いまとなっては仕方ないことだよな。それはそれとしてだよ、このことは知っておいてほしいな。君が会社をやめることが、野田君にはえらいショックだということを。君には彼の立場も考えてやってほしいんだよ」
吉野さんの話を聞きながら、僕はぼうぜんとしていた。野田課長が吉野さんにそのような相談をするとは、まったく予想もできないことだった。さらに意外だったのは、吉野さんが野田課長に対して好意的な言葉を口にしたことだった。
野田課長に対する感情を理解してもらいたかったので、僕は野田課長の考え方や言動を、いくつかの例をあげて批判した。
黙って聞いていた吉野さんは、椅子から身をのりだすようにして言った。
「野田君には強引なところがあるし、感情的になりやすいところもあるんだが、それだけ仕事に熱心だとも言えるわけだよ。相手の気持ちを考えずにしゃべったりするのは、確かに野田君の欠点だと思うけど、そんな欠点ばかりに眼を向けると、ほんとの姿が見えなくなるぞ。君には野田君に対する不満がたくさんあるようだけど、彼の立場を考えてみたり、彼のいいところにも眼を向けてみたりしたら、もっとちがった見かたができるんじゃないのかな。彼にもいいところがたくさんあるんだから」
吉野さんには野田課長の本当の姿が見えていないと思った。部下にしか見えない野田課長の短所もあるはずだった。野田課長の部下への接し方や、課長に批判的な小宮さんを異動させたことなど、不満に思っていることを僕はむきになって話した。
僕が言葉を切ると、吉野さんは穏やかな口調で言った。
「野田君は、自分の考えていることに自信を持ち過ぎるんだ。そのことでは彼に忠告しておくよ、みんなの意見をもっと聞くようにとな。それから、小宮君のことだけど、気が短かくて感情的になりやすいところはあっても、自分の感情で部下の人生を左右するようなことはしないはずだよ、野田君は。スピーカーの仕事を続けたいという小宮君の気持はわかるけど、僕から見ても、今度の異動は会社だけでなく、小宮君にとってもプラスになると思うんだ。それから、野田君は君のことではこんなことも言ったぞ。松井君なら、ほんとの意味での画期的なスピーカーを、いつかは作ってくれるんじゃないかと期待しているって。君の課長だから当然だろうけど、彼も君の才能や努力を買っているわけだよ」
野田課長に対する反感の根拠を否定されたばかりでなく、野田課長が僕に対して好意ある発言をしていたと知らされて、僕はすっかり混乱し、意見も反論も口にできないような気分になった。
そのような想いが僕を惑わせたが、やはり思いきって会社をやめることにした。野田課長に向かって日頃の憎しみを投げつけ、会社をやめると宣言してしまっていたし、会社に残った場合には、小宮さんがいなくなった職場が、これまで以上に居ごこちが悪くなりそうだった。僕はあらためて決意した。大学院での数年間を充分に意義あるものにして、そこでの数年間を決して人生の回り道にしてはならない。
野田課長とはできるだけ顔を合わせたくなかったが、すぐに会社をやめるわけにはいかなかった。数か月にわたって情熱をかたむけ、技術者としての生き方に大きな影響を与えてくれた仕事に、思いを残すようなことはしたくなかった。そのことは、小宮さんに迷惑をかけないためにも必要なことだった。その頃の状況から判断すれば、数週間で仕事に決着がつくはずだった。
会社をやめることを、家族のうちでは最初に兄に知らせた。
兄が大きな驚きを見せたのも無理はなかった。大学院に興味を持っていることを、家族の誰にも話したことがなかったし、大学院のことを話題にしたことさえもなかった。
いきさつはともかくとして、僕はすでに大学院へ進みたいと強く願っていたので、どうしても兄を説得しなければならなかった。驚いている兄に対して、僕は懸命に話した。熱中できる対象であれば、困難な目標であろうと挑戦できるという確信を得たこと。執念を燃やして取り組むべき目標を見つけることと、そのために必要な能力を養うことが、大学院を目指す目的であること。兄は僕の話を聞くと、もう少し慎重に考えてから結論をだすように、そして、父と母にはまだ話さないほうがよいと言った。
家族の全員に反対されたとしても、決意を変えるわけにはいかなかった。兄に続いて両親にも大学院への進学希望とその理由について説明し、了解を求めた。そのようにして家族の者を説得しているうちに、会社をやめる理由は大学院へ進学するためであり、野田課長とのことは会社をやめるきっかけに過ぎないのだ、という意識が僕の中でしだいに強まった。
父の同意を得るためには多少の苦労をした。父は説明を求めた。スピーカーを開発する夢を抱いて入社した会社を、一年にも満たないうちにやめるとはどうしたことか。あれほど熱中していた仕事に未練はないのか。それでもやめるというからには、会社に居られないよほどの事情でもあるのではないか。同じような疑問を、父だけでなく母や兄もむろん抱いていた。
家族の者を説得するためには数日を要したが、結局は、父と母、そして兄も僕の決意に賛成してくれた。
大学院に関心があることを、坂田にはすでに伝えていたが、大学院がまだ漠然とした対象に過ぎない頃だったから、坂田にもそのようにしか聞こえなかったはずだ。僕が会社をやめる決意をしたことは、むろん坂田に大きな驚きを与えた。小宮さんと同様に坂田も僕に忠告してくれた。辞表の提出を急いだりせずに、慎重に時間をかけて考えろ。このままやめたら後悔するかも知れないではないか。
それからまもなく、僕は吉野さんを職場に訪ね、それまでの事情を話したうえで会社をやめることを伝えた。
吉野さんは僕を会議室につれて入り、いつものように穏やかに話しかけてきた。
「この会社では目標が限られるし、社内に君のやりたいことがあったとしても、その希望がかなえられるとは限らないからな。だから、大学院にいる間にじっくり考えて、執念を燃やして取り組める目標を見つけたいというのは、確かにひとつの考え方だと思うよ。君の決意に対して意見がましいことを言う立場にはないから、それは遠慮しておくけどな」
そこまで話した吉野さんは、改まった口調で「ところでな」ときりだした。
「昨日の夕方、野田君が、相談したいと言ってここに来たんだ。君のことで話したいと言ってな。僕が君や小宮君と親しくしていることを、だいぶ前から知っていたそうだ」
意外なことが話しだされた。吉野さんが野田課長と話し合ったというのも意外なことであったが、こともあろうにその目的が僕にかかわることだったと聞いて、僕は身がまえるような気持ちになった。
「慰安旅行で君に会社をやめると言われてあわてたそうだよ、野田君は。君が本気らしいとわかってえらく気にしていたぞ。君が野田君に反発していることにも、彼はかなり前から気がついていたそうだよ。だから君とじっくり話し合いたいと思っていたら、そのやさきに変なことになったと残念がっていた。君が野田君に対して反感を持っていることを知っていたら、僕にも君のためにしてやれることがあっただろうけど、いまとなっては仕方ないことだよな。それはそれとしてだよ、このことは知っておいてほしいな。君が会社をやめることが、野田君にはえらいショックだということを。君には彼の立場も考えてやってほしいんだよ」
吉野さんの話を聞きながら、僕はぼうぜんとしていた。野田課長が吉野さんにそのような相談をするとは、まったく予想もできないことだった。さらに意外だったのは、吉野さんが野田課長に対して好意的な言葉を口にしたことだった。
野田課長に対する感情を理解してもらいたかったので、僕は野田課長の考え方や言動を、いくつかの例をあげて批判した。
黙って聞いていた吉野さんは、椅子から身をのりだすようにして言った。
「野田君には強引なところがあるし、感情的になりやすいところもあるんだが、それだけ仕事に熱心だとも言えるわけだよ。相手の気持ちを考えずにしゃべったりするのは、確かに野田君の欠点だと思うけど、そんな欠点ばかりに眼を向けると、ほんとの姿が見えなくなるぞ。君には野田君に対する不満がたくさんあるようだけど、彼の立場を考えてみたり、彼のいいところにも眼を向けてみたりしたら、もっとちがった見かたができるんじゃないのかな。彼にもいいところがたくさんあるんだから」
吉野さんには野田課長の本当の姿が見えていないと思った。部下にしか見えない野田課長の短所もあるはずだった。野田課長の部下への接し方や、課長に批判的な小宮さんを異動させたことなど、不満に思っていることを僕はむきになって話した。
僕が言葉を切ると、吉野さんは穏やかな口調で言った。
「野田君は、自分の考えていることに自信を持ち過ぎるんだ。そのことでは彼に忠告しておくよ、みんなの意見をもっと聞くようにとな。それから、小宮君のことだけど、気が短かくて感情的になりやすいところはあっても、自分の感情で部下の人生を左右するようなことはしないはずだよ、野田君は。スピーカーの仕事を続けたいという小宮君の気持はわかるけど、僕から見ても、今度の異動は会社だけでなく、小宮君にとってもプラスになると思うんだ。それから、野田君は君のことではこんなことも言ったぞ。松井君なら、ほんとの意味での画期的なスピーカーを、いつかは作ってくれるんじゃないかと期待しているって。君の課長だから当然だろうけど、彼も君の才能や努力を買っているわけだよ」
野田課長に対する反感の根拠を否定されたばかりでなく、野田課長が僕に対して好意ある発言をしていたと知らされて、僕はすっかり混乱し、意見も反論も口にできないような気分になった。