相手をするのがいやになり、場所を変えようと思ったそのとき、鈴木が気になる言葉を口にした。
「小宮さんが移ることになっただろ。小宮さんがいなくても、一人でやれるんかよ。どうするつもりだ、松井さんよ」
 小宮さんのことはまだ公にされていないはずだった。
「小宮さんのこと、誰に聞いたんだ」
 質問には答えないまま、鈴木は肘で僕の脇腹をこづきながら言った。「一人でやるのがいやだったらな、おれ達のグループに入れよ。だいじょうぶだよ、おれが野田さんに頼んでやるから」
 聞き取りにくい鈴木の言葉を耳にしながら、小宮さんについての情報源は、野田課長か斎藤係長に違いないと思った。
 鈴木にしつこくからまれて、僕はがまんできなくなった。場所を変えることにして立ちあがろうとしたとき、鈴木に腕をつかまれて引き戻された。僕の紙コップからこぼれたウィスキーの水割りが、鈴木の顔にまともにかかった。鈴木は血相を変え、わけのわからない声を出しながら僕になぐりかかってきた。僕はその手をはらいのけ、鈴木のわめき声を背に聞きながら隣の部屋へ移った。誰かに引き止められたのか、鈴木が追ってくることはなかった。
 しばらくすると、先ほどの部屋に戻るようにとの報せがあった。その報せを聞いて僕はいやな予感がした。
 その部屋には野田課長が来ていた。部屋に入った僕を見るなり、鈴木が大きな声でののしりだした。
 野田課長は僕に向かって、すぐにも鈴木にあやまるようにと命じた。からんできた鈴木のほうこそ僕に謝るべきだと思い、僕はいそいで事情を話した。野田課長は僕の話をうなづきながら聞いていたが、口をひらくと信じられないようなことを言った。
「君が水割をかけたのは確かなんだからな、そんなことを言ってないで、鈴木くんにすぐにあやまるんだ」
 いったいどういうことだ、と僕は思った。野田課長は僕の弁明をまともに聞こうとはしないのか。
 僕は鈴木とのことを説明しなおそうとしたが、野田課長の眼を見たとたんに、そのような努力をするのがいやになった。僕は野田課長に背をむけて部屋をでた。呼びとめようとする野田課長の声が聞こえていたが、それを無視してとなりの部屋にうつった。
 憤りに駆られるまま、先輩の一人に野田課長に対する不満をぶちまけていると、日頃の反感がいっきに吹きだしてきた。僕はついに口にした、野田課長のもとで仕事を続けるよりは、会社をやめて他に道を求める方がましだ、と。そのとき、僕はほんとうに会社をやめたいと思った。先輩になだめられても、僕は自分の言葉に興奮してしゃべり続けた。深く酔っていながらも、僕は明確に意識していた。自分は実際に会社をやめることになるだろう。
 それからしばらくすると、斎藤係長が僕を呼びにきた。野田課長を見習うかのようにして、後輩の僕たちに威圧的な態度で接する係長だった。
 係長について入った部屋には野田課長がいた。他には誰もいなかった。部屋に入るなり係長が言った。
「だめじゃないか松井くん。冗談にしてもだな、言っちゃならんことがあるぞ。ぼさっとしてないで、課長にあやまるんだ」
 僕が野田課長を批判したり、会社をやめるといきまいたりしたことを、誰かが野田課長か斎藤係長に報せたにちがいなかった。野田課長は無言のまま、いつもと変わらぬ冷ややかな眼で僕を見ていた。
「冗談なんか言ってないです。本気ですよ。僕は会社をやめます」
 野田課長に向かってその言葉を投げつけたとたんに、僕は晴れがましいような気分になった。
 僕を見あげていた野田課長がゆっくりと口をひらいた。
「ずいぶん飲んだようだな。まあいいから、そこへ座れ」
 僕がそのまま黙っていると、野田課長はさらに続けた。
「僕はな、君に期待してるんだよ、松井くん。君にはな、うちの会社を背負ってもらわなくちゃならないんだ。君にちょっと話したいことがある。立ってないでとにかく座れ」
 日ごろの反感に加えて先ほどからのいきさつもあり、野田課長の前に座る気にはなれなかった。斎藤係長がふん然とした面もちで立ちあがり、僕の両肩を押さえて座らせようとした。係長を払いのけようとした僕は、床の上の何かを踏みつけてバランスをうしない、野田課長のうえに倒れた。
 僕は起き上がるとすぐに部屋を出ようとしたが、斎藤係長に腕をつかまれて強引に引き戻された。課長にあやまれと大きな声を出した斎藤係長に、僕はどなるようにして言った。
「僕がころんだのは斎藤さんのせいだから、斎藤さんがあやまるべきですよ。僕は野田さんにあやまる気はないですよ」
 野田課長が立ちあがり、僕の両肩に手を置いて話しかけようとした。僕は急いでその手を払いのけたが、肩をつかんでいる手は離れなかった。僕は力まかせに野田課長を突き放し、斎藤係長のどなり声を背中に聞きながらその部屋をでた。
 誰とも話をしたくなかった。どの部屋にも入る気がしないままに廊下を歩いて行くと、大浴場の方向を示す矢印が眼にはいった。ふいに温泉につかりたくなった。タオルを持たないまま僕は浴場へ向かった。
 浴場にはまだかなりの人がいたけれども、スピーカー部の者は誰もいなかった。
 酔った体をぬるめの湯に沈めて、先ほどからのことを思い返した。深く酔っていながらも、それまでのできごとがはっきりと思いだされた。野田課長に向かって会社をやめると言った自分の声と、それを口にしたときの気持ちが、必ずそれを実行しなければならないのだとけしかけるように甦った。
 僕のなかで野田課長や斎藤係長に対する怒りが渦まいていた。すっかり酔っていたうえに感情も激していたが、それでもやはり、湯はここちよかった。そのまま浴槽にひたっていると、少しづつ気持ちがおちついてきた。
 眼をつむっていると水の落ちる音が聞こえた。眼をあけて音のする方へ首をまわしてみると、滝を模した仕掛けを通して湯が落ちていた。僕はふたたび眼をつむり、流れ落ちる湯の音に耳をかたむけた。いつのまにか怒りの感情がうすらいでいた。浴槽のふちに首をもたせかけると体が浮いた。そのまま湯のうえに寝そべっていると、体も心も陶然としてきた。体を包む湯の感触に、いつまでもひたっていたい気分になった。

 慰安旅行から帰った翌日の朝、小宮さんにうながされて実験室に入った。
「だめじゃないか、酔っぱらって変なことを言っちゃ」と小宮さんが言った。「うっかりしたことを言うと、えらく損をするからな、会社というところは」
 僕が会社をやめるといきまいたことを、誰かが小宮さんに報せたらしい。
「小宮さん、わるいけど、ほんとです。ほんとにやめようと思ってる」
「ほんとかよ」小宮さんは驚きの声をあげた。「どうしてそんな話になるんだよ。馬鹿げたことをしちゃだめだぞ」
「やめることにしたけど、すぐじゃないですよ。仕事が片付くまでは居るつもりです」
 僕は慰安旅行での野田課長との経緯を話した。その程度のことで会社をやめる必要はない、というのが小宮さんの意見だったが、僕は退職の決意を変えるつもりはなかった。
野田課長に向って退職宣言したことに、悔を感じることはなかった。むしろそれによって、もやもやとしていた気分に決着がつくことになった。それまでは漠然とした対象にすぎなかった大学院が、いきなり現実的な目標になった。
「会社をやめて、どうするつもりなんだ。あてはあるのか」
「大学院に行くつもりだけど、入学試験のこともあるから、運がわるければ、入学するのは再来年です」
 僕の希望が大学院への進学だと聞いて、小宮さんはまたもや驚きの表情を見せた。
「気持ちはわかるけど、そんなに急いで結論をださないほうがいいと思うぞ。大学院へ進む準備をするといっても、いまからじゃ大変だろう。じっくり考えてから決めた方がいいんじゃないのか」
 いきなり大学院のことを聞かされて、小宮さんが驚くのは当然だったし、僕に自重をうながすのも無理はなかった。大学院に関心を抱いていることを、僕は坂田にしか話していなかった。それとても、自分の中に芽生えた気持ちを口にしただけのことであり、その頃はまだ、会社をやめようと真剣に考えていたわけではなかった。
 事務室にもどった僕は、野田課長の指示でいっしょに会議室に入った。
 野田課長は笑顔を見せて言った。「君にはときどき驚かされるけど、あのときはほんとに驚いたよ。いきなり会社をやめると言われたんだからな」
「ほんとです、僕はやめます」僕は決意を声に表して言った。
 野田課長は表情を一瞬こわばらせたが、すぐに穏やかな表情にもどって口を開いた。
「じつはな、あの後で僕も反省したんだよ。君が鈴木くんに謝ってくれたら、荒れている鈴木くんを抑えられると思ったんだが、君には申し訳ないことをしたと思ってるよ。だから、あのときのことは君も気にしないでほしいんだ。鈴木くんのこと以外にも僕に不満があるようだが、そのことについても、君とじっくり話し合ってみたいと思ってるんだ。とにかく、君にはこれからも、スピーカー部でがんばってもらいたいんだ。僕がこうして頼んでるわけだが、君を必要としているのは僕じゃなくて会社なんだよ」
僕は野田課長の言葉を黙ったまま聞いた。野田課長は僕を慰留する言葉を残すと、緊張した面持ちのまま会議室を出ていった。
 小宮さんと僕がともに第一開発課を去ったなら、野田課長は困った事態に追い込まれるはずだった。野田課長が僕を慰留するのは、野田課長自身のためにちがいないと思った。野田課長を救うために会社に残ることなど考えたくもなかった。