小宮さんと対等に仕事をしていながらも、気持ちのうえではまだ新入社員だったから、僕は小宮さんを頼りにしていた。その小宮さんの異動が決まり、数ヶ月先には職場を離れることになった。小宮さんによれば、辞令がだされるのは翌年の一月だった。
 予期していたことではあったが、実際に小宮さんの異動が決まったことに、僕はつよい憤りをおぼえた。その頃になると、野田課長に対する嫌悪感はますます強まっていた。第一開発課を離れたかったが、小宮さんの異動が確定したために、スピーカーシステムの職場に移れる可能性はなくなった。小宮さんが去ったあとの職場を想い、僕は暗澹たる気持ちになった。
 将来が暗いものに思われ、どうしたものだろうと思案にくれていると、池田のことが思いだされた。池田のように大学院へ進学したらどうだろう。開発に関わる仕事に半年ほど取り組んだ結果、意欲を燃やせる対象ならば、スピーカー以外のことにも熱中できそうに思えた。大学院で学ぶうちには、自分が進むべき他の道が見えるのではないか。そして、執念を燃やし得る新たな目標を、そこでの数年間に見つけることができるのではないか。
 大学院に期待する気持ちは徐々に強まり、それが僕をとらえはじめたのだが、そのような自分に対する疑念もあった。課長を嫌って大学院を目指すというのであれば、ささやかな試練からすら逃げることになりはしないか。はたしてそれで良いのだろうか。

 佳子は僕の電話に応じようとしなかっただけでなく、電話もかけてこなかった。そして数日後、佳子からの手紙がとどいた。
〈・・・・・・・・あんなに悲しい思いをしたことはありません。滋郎さんが他の誰かを愛することなど考えたこともありませんでした。駅で滋郎さんと別れてから学校に帰って泣きました。こんなことになるとは今でも信じられない気持です。その人との交際をやめてくれたのですから、滋郎さんが私を愛しているというのは本当だと思っています。それでも私はとても不安です。私が妊娠したと言ったので、滋郎さんは責任を感じてその人との交際をやめたような気がします。ほんとうは私は妊娠していません。滋郎さんをだますつもりはありませんでした。私を愛してくれていることを確かめたかっただけです。滋郎さんが責任を感じて私と結婚するというのなら、私にはとても悲しいことです。滋郎さんと話し合えばわかると思いますが、こんなことになったので私はしばらく会いたくありません。会わないでいる間に滋郎さんにも考えてほしいと思います。滋郎さんが本当に私のことを愛してくれているのなら、私の言うことを聞きいれてください。私には滋郎さんしかありません。だから私は・・・・・・〉
 手紙を読んで僕はぼう然とした。佳子の嘘にどうして気がつかなかったのだろう。こんなことなら、あれほどに急いで絵里との交際をやめることはなかった。絵里の涙が思いだされた。佳子の嘘が腹だたしかった。佳子が嘘をついたりしなければ、あれほどに悩まなくてすんだし、絵里に悲しい想いをさせることもなかったのだ。
 手紙を読んだ直後に生じたそのような気持は、ほんの数分間しか続かなかった。僕には佳子を責める資格などあろうはずがなかった。それどころか、それまでの僕の優柔不断な態度こそ責められるべきだった。佳子の話が嘘だったからといって、佳子と別れて絵里を選ぶことなどできるわけがなかった。佳子をさらに悲しませることなどできるわけがなかった。絵里にしても喜んで僕を受け入れるはずがなかった。
 佳子が嘘をついたことについても、そのことでむしろ佳子をいじらしく思った。佳子は不安におびえながら嘘を口にしたのだ。僕はその嘘にうろたえて絵里のことを露呈し、佳子を悲しみの渦に巻き込んでしまった。しばらく会いたくないというのは、その悲しみから立ち直るための時間がほしいということだろうか。それとも、僕に対する不信感があまりにも強いため、会おうという気持ちになれないのだろうか。そうだとすれば、僕の誠意が通じるまでは会ってくれないのかも知れない。
 手紙を封筒に戻そうとしたとき、封筒の中の写真に気がついた。
 写真の中で、佳子と僕は肩を組み、片手にスキーを持っている。学生時代最後の正月休みを利用して、佳子と新潟を訪れたときに写したものだった。写真を裏返してみると、〈私たちの幸せな未来のために〉と記されていた。その文字を見ながら、僕が同じ写真を持っていることを知っていながら、どういうつもりで佳子はこの写真を入れたのだろうか、と思った。僕を信頼しきっていた頃の状態に戻りたい、という気持ちを表したつもりだろうか。
 僕はたたんだ手紙をもういちど開いて、ボールペンで書かれた文字をあらためて眺めた。悲しい想いを綴った手紙にしては、文字に少しも乱れたところがないばかりか、訂正したり書きなおしたりした部分も見られなかった。佳子は下書きをして文案を練り、それを清書したのに違いなかった。議論をすれば僕をやりこめるような佳子が、素朴と言えるような文章で想いを綴っていた。その端正な文字を眺めながら、佳子は今ごろどんな気持ちでいるのだろうと思った。僕が絵里との交際をやめたのは、あの嘘のせいだと思っているだろうから、僕の気持ちをまだ疑っていることだろう。佳子の嘘を知った僕が、佳子にどんな感情を抱いているかということも、佳子にとっては気がかりなことだろう。そのような不安を一刻も早く取りのぞいてやらねばならない。
 僕は佳子の家に電話をかけた。受話器をとった佳子の妹が伝言を伝えた。「手紙を出したからそれを読んでください、と姉は言っています」
 その翌日にも電話をかけたが、佳子の妹が前日と同じ伝言を伝えた。佳子の手紙には僕とはしばらく会いたくないとあったが、会いたくないだけでなく、電話でも話をしたくないということらしかった。僕は佳子と話し合うことをあきらめた。それだけでなく、僕はしばらく佳子と会わないことにした。佳子の真意がどのようなものであれ、さし当りは佳子の言い分を受け入れざるを得なかった。たとえ佳子と話し合ったところで、良い結果を期待できるとは限らなかったし、むしろ気まずい思いをしたあげくに、それが尾を引くことにもなりかねなかった。なによりもまず、佳子に会うまでに、僕自身の気持を整理しておかねばならなかった。

 スピーカー部では、毎年恒例の慰安旅行が計画されていた。土曜日から日曜日にかけての一泊旅行で、その行き先はよく知られた温泉だった。
 土曜日の朝、集合場所に指定されたグラウンドに行くと、ほとんどの参加者がすでに集まっていた。
 目的地へは貸切バスで向った。隣りの席の女子社員はよくしゃべったが、一時間も話しているとさすがに話題がつきた。
 眠っているふりをしていると、佳子の手紙のことが思いだされた。
 あの手紙を読むまで、僕は学校の屋上で佳子が話したことを少しも疑わず、それを確かめることさえしなかった。絵里のことを知られたショックはあまりにも大きく、すぐにも決断をせまられる状況でもあったから、佳子の話を詮索するゆとりなどなかった。絵里との交際をやめることにしたとき、佳子の妊娠は都合のよい口実になったのだから、それと意識することはなかったけれど、僕にはそれを詮索する気持ちがなかったのかもしれない。
バスが止まったので眼を開けると、休憩時間は15分間だと伝えるバスガイドの声が聞こえた。僕はふたたび眼を閉じて、その2週間のできごとを思った。結果的には佳子の嘘に気づかないままに、絵里との交際をやめることになったが、嘘に気づいていても、僕は同じ決断をしたような気がする。結局のところは、これが最良の答えだったのだ。佳子にうながされる形で決断することになったが、もとはといえば、決着をつけようと決意して、伯父に助言を求めたことがこのような結果に導いたのだ。
 午後遅くバスは目的地に着いた。
 夜の宴会までには時間があった。ホテルの割り当てられた部屋に荷物を置いてから、職場の仲間とつれだって街にくりだした。みやげもの屋をいくつか覗いてみたが、僕にはほしい物がなかった。
 僕は自然のいぶきに触れてみたくなった。そのための時間は充分にありそうだった。仲間に声をかけたが誘いにのる者がいなかったので、僕はひとりで街はずれに向かった。
 しばらく行くと街並がとぎれた。ゆくてに雑木林が拡がり、その向こうには、中腹から上を紅葉で飾られた山並があった。
 雑木林の中を歩いてゆくと、道がふたつに分かれていた。舗装されていない方の道を選んで坂道を登ると、いきなり視界がひらけ、秋の日ざしをあびた山並が遠くまで見通せた。雑木林のかなたに、山を背にした温泉街が細長く連なっていた。あちこちに散らばる切り株のひとつに腰をおろして、思いがけなく出会えた眺望を楽しむことにした。
 街並を見おろしながら、人はなぜこのような所まで来たがるのだろうと思った。景色を眺めるのが目的ならば、東京の奥多摩を訪れても、似たような眺めに出会えるはずだ。温泉を楽しみたいというのであれば、もっと近いところで間に合うはずだ。このような場所が慰安旅行のために選ばれるのは、ふだんとは異なる環境に身を置いてみたいからにちがいない。どうして人はそれを望むのだろうか。慰安旅行が終われば自分にもその意味がわかるかも知れない。そのとき、ふいに山陰旅行のことが思いだされた。
 あの旅行には最初から不安があった。自分の心の不確かさに気がついていながら、絵里といっしょに旅行した。山陰旅行に参加していなかったら、佳子や絵里に対してどのように向き合うことになっただろうか。佳子と絵里を傷つけることなく、おれ自身もそれほど苦しまずに決着し得たかも知れない。それとも、結局は優柔不断な自分を嘆く結果になっただろうか。これほどまでに未熟なおれだから、いずれはこんな結果になったことだろう。
 烏の鳴声が聞こえた。声がしたあたりに眼をやると、どこかを目指して飛んでゆく烏の群が見えた。夕日が峰に近づいていた。山ふところの街並はすでに夕暮の中だった。僕は切り株から腰をあげて帰り道についた。
 雑木林にはさまれた道はうす暗かった。温泉にゆっくりと身をひたすことができなくなりそうだった。林の中を走りぬけ、街並を目指してけんめいに歩いた。ホテルまでは思ったよりも時間がかかった。
 ホテルに帰り着くとすぐに浴場に向かった。宴会の時間がせまっていたので、湯の感触をゆっくりと楽しむことはできなかった。
 浴場からそのまま会場の大広間へ行き、湯上がりの汗がひかないままに席についた。参加者のほとんどが集まり、宴会が始まろうとしていた。
 全員での宴会が終わったあと、宿泊のために割り当てられた部屋のいくつかで、ふたたび小さな宴会が始まった。飲み物は持ちこんだウイスキーや日本酒だった。僕はうしろのほうで先輩たちの話を聞いていた。
 いつのまにか傍にきていた鈴木が、もつれる舌で話しかけてきた。座を移したほうがよさそうだと思っていると、鈴木が僕にからみはじめた。仕事を熱心にやっているのは認めるけれど、まわりの者とのつき合い方に問題がある。おれの誘いに一度も応じないのは無礼ではないか。
 鈴木の言動には不快を感じることが多く、新入社員どうしとはいえ避けるようにしていたので、鈴木の言い分はわからなくもなかった。