つぎの日の夕方、僕は工場を出るとすぐに電話ボックスに入り、佳子の家に電話をかけた。
 絵里との交際をやめたことを伝えると、ややあってから、つぶやくような佳子の声が聞えた。
「そう・・・・・・ありがとう」
 元気のないその声を聞いて、あてがはずれたような気がした。
 佳子の沈んだ声が続いた。「でも・・・・滋郎さん、無理していないかなって」
「そんなわけないだろ。俺がほんとに好きなのは佳子だし、佳子には責任だってあることだし」
「私に責任を感じて・・・・滋郎さんがその人とのつき合いをやめたのは、私に対して責任を感じているためなの?」
 佳子は声を低めて言った。その声の調子が僕をせきたてた。
「子供ができたんだぞ。おれが責任を感じるのは当たり前だろ」
 佳子はしばらく間をおいてから言った。「わかったわ。わるいけど、あとで私のほうから電話するから」
 僕はあわてて、「相談したいことがあるんだ」と言ったが、佳子はそのまま電話をきってしまった。僕は電話をかけなおそうとしたが、すぐに思いとどまって百円硬貨をポケットにもどした。佳子には電話を続けたくない事情があるに違いなかった。
 家に帰って新聞を見ていると、佳子からの電話があった。佳子の声の背後に車の走る音がきこえた。公衆電話からかけているのに違いなかった。台所にいる母に聞かれることが気になって、僕は声を低めて話さねばならなかった。
「さっきはごめんね。家の者が近くにいると気になって。滋郎さんのほうはかまわないかしら、この電話」
「今はだいじょうぶだ」
「相談って、どんなことなの」
「これからのことだよ。子供ができたんだからさ、結婚のことをどうするかとか、いろいろ考えなきゃならないだろ」
「さっき滋郎さんが言った責任のことだけど・・・・責任だけじゃなくて、愛してくれてるわよね、私のこと」
 佳子はいきなり話を変えた。僕はとまどいながらも、その問いかけには急いで答えなければならないと思った。
「あたりまえだろ。だから、結婚しようと言ってるんだぜ」
「もう一人の人には責任を感じないの」
 僕は急いで答えた。「つき合ってからいくらも経ってないんだぞ。つき合ったとは言っても、佳子とはまったく違ってたんだ」
「その人には私ほどには責任を感じないですむわけね」
 僕はひと言「うん」と答えてから、あわててつけたした。「ほんとに、ちょっとの間つき合っただけなんだよ、相談ごとにのってやったりとかさ」
「今度のこと、滋郎さん・・・・・・その人のことも・・・・ほんとは好きだったんじゃないの」
「佳子のためにつき合うのをやめたんだぞ。その程度のつき合いだったんだからさ、もう気にするなよ」
「それにしちゃ、あのときの滋郎さん・・・・ずいぶん深刻だったじゃない」佳子は決めつけるような言い方をした。
 低いけれども力のこもった声が、僕を強くなじっていた。佳子の悲しみと怒りを想わせる声だった。
 絵里が僕の心に深く入っていることを、佳子には中学校の屋上で見ぬかれていた。それだけに、僕は佳子に示さねばならなかった、本当に愛しているのは佳子なのだと。
 絵里との交際をやめたからといっても、そして、佳子の気持ちをほぐすための努力をしたところで、佳子との間にできたわだかまりを消すには時間がかかりそうだった。そのことを、僕はようやくにして強く意識した。
 土曜日には佳子と会いたかったが、佳子は約束することを拒んだ。土曜日の午後に僕の方から電話をかけるということにして、その夜の気まずい会話を終えた。
 従妹の幸子に聞きたいことがあった。幸子はどのようにして絵里のことを知り、佳子にそれをどのように伝えたのだろうか。それを知ったところで事態が変わるわけもなかったし、学校で佳子に会ってからの数日はそのことを確かめる余裕もなかったので、僕はまだ幸子に確認していなかった。佳子との会話をおえた後、幸子に電話をかけて事情を聞いた。
 幸子は絵里のことを母親から聞いたのだった。伯父が僕のことを伯母に話したのは、伯母の意見を聞いてみたかったからに違いない。幸子にそのことを報せないようにと僕が注意したことを、伯父は伯母に伝えなかったのだろうか。そうだとすれば、注意ぶかい伯父にしてはめずらしい不覚だったということになる。それにしても、幸子はどういうつもりで佳子にそのことを話したのだろうか。
「どうして杉本に話したんだ」と僕は言った。
「だって杉本さんにジロちゃんを紹介したのは私なんだもの、気になるのは当たり前じゃない。だから、杉本さんに言ったのよ。ジロちゃんには他にもつき合っている人がいるみたいだから、確かめたほうがいいんじゃないかって」
「それで・・・・それだけか、話したのは」
「それだけかって、どういうことよ。杉本さんと何かあったの」
「日曜日にだいぶとっちめられたよ、杉本に。だから、ノンちゃんがいろいろ言ったんじゃないかと思ってさ」
「そんなこと言ったって、私だって詳しいことを知ってるわけじゃないし。だから、さっき言ったように話しただけ。念のためにジロちゃんに聞いてみたほうがいいんじゃないかって」と幸子は言った。
 電話をおえるとすぐに自分の部屋に入り、佳子は幸子の話を聞いてどんな気持になっただろうか、と思った。幸子が伝えたことを深刻に受けとめた佳子は、僕を学校に呼びだして確かめようとしたのだ。不意をつかれて僕は動転し、絵里のことを露呈して佳子を悲しませることになった。
 慌ただしかったその数日をふり返っていると、夕食の支度ができたことを伝える母の声が聞こえた。

 土曜日の午後、佳子が家に帰りつく頃をみはからって電話をかけた。
「ごめんね、今日はだめなのよ」と佳子が言った。
「会わないって、どうしたんだよ。急いで相談しなきゃならないことがたくさんあるぞ、わかってるだろうに」
「わるいけど、今日はちょっと他に用事ができたから。あとで連絡するから」
 ほんの少し言葉をかわしただけで、佳子は僕との会話を終えてしまった。僕と話すことを佳子が避けているような気がした。重要な相談ごとがあるというのに、佳子は僕と会おうとしないばかりか、電話でも話をしないつもりらしい、と腹だたしく思っていると、ふいに絵里が心の中に現われた。暗い助手席でうつむいていた絵里が、そして、三鷹駅で別れた絵里のうしろ姿が思いだされた。絵里が佳子のように勝ち気な性格だったら、車の中での話し合いはどんなものになっただろうか。そんな想いが不意に湧いたが、強気な絵里を想像することすらできないままに、僕は束の間の空想からはなれた。
 佳子の態度はふにおちなかったが、その言葉をあてにして連絡を待つことにした。
 自分の部屋に入ってベッドの上に仰向けになり、佳子はどうして会おうとしないのだろうと思った。結婚のことなどを急いで相談しなければならないというのに、佳子にはそれよりも重要なことがあるのだろうか。
 天井を小さな虫がはいまわっていた。虫は少しだけ進むと立ち止まるように停止し、向きを変えて再び動きだした。そのような行動をくり返している虫を見ているうちに、その虫を部屋の外へ助けだしてやりたくなった。
 僕は新聞紙の上に虫を移すと、窓から外へ逃がしてやった。地面の上で一瞬とまどったような動きをみせたあと、虫は何ごともなかったかのように一直線に進みはじめた。植木のかげに入ってゆく虫を見ながら、虫にも心があるのだろうかと考えてみた。虫を観察していると意志を持って行動しているように見える。虫にも心のようなものがあるのかも知れない。僕が虫を外に出したのは、その虫が外界への道を求めて、けんめいに努力しているように見えたからだが、そんな事情を知ることもなく、もちろん僕への感謝の念など持つはずもなく、虫は植木のかげに姿を消した。