佳子は僕を駅まで送ると言った。今の佳子にまともな運転ができるだろうかと不安だったが、そのことを口にすることはできなかった。ほとんど口をきかない佳子といっしょに、体育館の裏がわにある駐車場へ向かった。
佳子が運転する車で武蔵野線の駅に向かった。佳子の運転には不安を感じさせるところがなかった。佳子が無事に自宅へ帰れそうだとわかって、僕はひとまずほっとした。
言いわけと慰めをかねた言葉を佳子に残し、僕は助手席のドアを開けた。いつもとはずいぶん違う別れかただった。
どのようにして電車とバスを乗り継いできたのか、気がついたときには自宅に近い道を歩いていた。
母は僕を見るなり具合でもわるいのかと聞いた。僕はひどく疲れていることに気がついた。母にお茶をすすめられて、ずいぶんのどが渇いていることがわかった。お茶を飲むとすぐに自分の部屋に入り、机の前にこしかけた。
僕はいくども自分に問うた、自分はこれからどうしたらよいのか。どうしなければならないのか。そして思った、絵里を悲しませたくないし、自分もこのまま絵里と別れるのはつらいけれども、やはり、絵里との交際はやめるべきだろう。
夕食のしたくができたと母が声をかけてきたとき、ようやく僕は椅子を離れて、灯りをつけないままの暗い部屋から居間へ移った。
夕食をとっていると、屋上で泣いた佳子の姿が思い出された。佳子につかまれたときの腕の感触がよみがえり、佳子の悲しみが想われた。
「どうしたの、滋郎。元気がないみたいだけど」母が心配そうな声をだした。
「心配ないよ、ちょっと疲れてるけど」と僕は答えた。
母がお茶の準備をしていたが、食事を終えるとすぐに自分の部屋へ移った。父と兄は帰宅が遅くなるということで、家にいたのは母とふたりだけだった。母のお茶につきあえればよかったのだが、そのようなゆとりはなかった。
どんなに時間をかけて考えようが、選ぶべき道は最初から決まっていた。自分を納得させるための儀式を終えることにして、僕は自分に言って聞かせた。佳子との結婚を急ぐことにする。絵里には事情をつたえ、これ以降はつきあわないことにする。そのように自分を説得してみたものの、絵里に対する想いが胸中を行ったり来たりしていた。
僕は思った。自分がほんとうに望んでいたのはどんな結末だったのだろうか。もしも佳子が妊娠するようなことにならなかったら、絵里を選んだのかも知れないではないか。心の中で絵里に言い訳でもするかのように、そのような感慨が胸の底を流れた。
なるべく早く絵里に事情を伝えようと思った。どんなやり方をしたところで、絵里を悲しませることに変わりはなかったが、できるかぎり絵里を傷つけないようにしなければならなかった。佳子と別れることができないのであれば、いずれは絵里を悲しませる結果になったはず。ということは、こうなることを承知のうえで、絵里と付き合ったことになりはしないだろうか。もしもこのことを絵里が知ったら、絵里はどんなに傷つくことだろう。佳子が妊娠したために、止むを得ず絵里と別れることになったのだと、絵里には思わせねばならない。佳子が妊娠したことは、絵里にとって、そして僕にとっても救いになった。優柔不断な態度をとりつづけた僕に対して、何者かが僕に決着のための手段を与えてくれたのだ。僕自身は自業自得の痛苦に耐えるしかないが、佳子と絵里はその悲しみをどのように受けとめることだろう。絵里と佳子に与えた悲しみをやわらげるため、とにもかくにも心を砕かねばならない。
あの高原で絵里は幸せそうだった。あの日の絵里は、このような結果になろうとは予想もしていなかったはず。絵里の父親が病気にならなかったなら、ふたりはあのままホテルで一夜を過ごすことになり、結果としては、さらに大きな悲しみを絵里に与えることになったであろう。絵里の父親が病気になったのは、単なる偶然のできことではなかったような気がする。もしかすると、僕たちふたりのために、絵里の父親は病気になってくれたのではなかろうか。僕が絵里を抱こうとしたとき、それを拒んで絵里は電話をかけようとした。絵里が電話をかけることにこだわったのは、父親の想いに応えようとしたからではなかったろうか。会ったこともない絵里の父親に、僕は感謝したい気持ちになった。
みじめな気持ちを抱えて僕は椅子をはなれた。時計を見ると零時二十分になっていた。絵里は眠っていると思われた。絵里はあの日のことを夢に見ることがあるのだろうか。もしも夢に見るのであれば、嬉々として草原をかけまわる夢であってほしい。八ケ岳の高原を訪れた日から、まだ一週間しかたっていなかった。そのことが僕には信じがたいことに思われた。
夕方に降りやんだ雨が、アスファルトのくぼみに大きな水たまりを残していた。工場の通用門から出てゆく社員たちは、水たまりを避けてふたつに別れ、そこを通り過ぎるとひとつの流れに合流していった。
坂田が姿を見せた。僕は坂田に合図をしてから、バス停や駐車場に向かう退出者たちとは反対の方向へ歩きだした。
坂田には絵里を介すことなく直に事情を伝えたかった。そしてまた、坂田の助言を得てから絵里に会いたいという気持もあった。坂田に社内電話をかけて、定時になったら通用門で会いたいと伝えてあった。
追いついてくるなり坂田が言った。「なんだよ、相談というのは」
坂田とならんで歩きながら、僕は重い口をひらいた。
「困ったことがあってな、絵里さんとはつき合えなくなったんだ」
「どうしたんだよいきなり。何があったんだ」坂田が驚きの声を出した。
坂田は僕が事情を話しはじめるより先に、「例の、前からつき合っていた人のためなんだな」と言った。
僕はうなづいた。
「絵里のことを好きだったんだろ、松井。絵里はそう思ってるんだぞ。どうしてそんなことになるんだ」
坂田の声には僕を責める響きがあった。
「じつはな、前からつき合っていたほうに子供ができたんだ」
まわりに他の者はいなかったが、僕は声をひそめて言った。
坂田は何も言わずに歩みを止めた。僕が立ちどまると、坂田は「そうか」と言って歩きだし、問いただすように「お前、ほんとに好きなのか、そのひとのこと」と言った。
このような自分を坂田は軽蔑するだろうと思いながら、僕は「信じないかもしれないけどな、おれは、ふたりとも好きなんだ。絵里さんとはあの演奏会からのつき合いだけど、おれは絵里さんのことがほんとに好きだ」と言った。
絵里に対する気持ちに偽りがなかったことを、坂田にはなんとしてでも知って欲しかった。そのための言葉をさがしていると、坂田が口を開いた。
「わるかったかな、絵里に会わせて」
「いや、ちがうんだ。おれがいけないんだよ。おれがいいかげんだったんだ」
「でもな、絵里にはかわいそうなことになるよな」
坂田の声がまたもや僕を責めているように聞こえた。
坂田はその日のうちに絵里に事情を伝えると言った。僕は感謝して坂田にそれを頼んだ。僕がいきなり絵里に話すよりも、坂田を介して伝えたほうが良さそうに思えた。絵里に会うつもりだと言い残し、坂田は寮の方へと歩いていった。
坂田のうしろ姿を見送りながら、絵里とホテルに入ったことを、坂田には知られたくないと思った。そのことをふくめて、これまでの優柔不断な自分の態度を、坂田としては許せないことだろう。足早に遠ざかってゆく坂田を見ていると、坂田の信頼をすでに失ったのではないかと不安になった。
僕は急いでバス停に向った。坂田と同じバスに乗り合わせることは避けたかった。
次の日の朝、坂田は絵里に事情を話したことを伝えてきた。そのときの絵里の様子にはふれないままに、坂田は社内電話を切った。
坂田のおかげで絵里に電話をかけやすくなった。とはいえ、電話をかけるには、絵里の都合を考えなければならなかった。絵里がまわりを気にしないで話せるのは、職場がざわつく昼休みにはいったばかりの時刻だろうと考え、12時になったらすぐに電話をかけることにした。公衆電話のボックスは、工場の通用門を出てすぐのところにあった。
試作した材料の特性を調べながら、絵里にかける電話のことを考えた。絵里に語りかける言葉を考えているうちに、測定器の設定をまちがえてしまい、最初からやり直さねばならなくなった。
昼休みの時刻が近づいていた。電話ボックスまで急いで行かなければならなかった。測定作業のあとしまつをしていると、事務室から電話が転送されてきた。受話器から絵里の声が聞こえた。
絵里の沈んだ声に胸をしめつけられた。さいわいなことに近くには誰もいなかったが、僕は声をひそめて、あらかじめ考えておいた言葉を口にした。絵里が受け入れてくれたので、その夜ふたりで会うことになった。
僕は昼食をおえると屋上にあがった。よく晴れていたけれども風があり、手すりにもたれていると肌寒かった。テニスコートの辺りでときおり歓声があがった。女子社員のかん高い声がもの悲しく聞えた。
佳子が運転する車で武蔵野線の駅に向かった。佳子の運転には不安を感じさせるところがなかった。佳子が無事に自宅へ帰れそうだとわかって、僕はひとまずほっとした。
言いわけと慰めをかねた言葉を佳子に残し、僕は助手席のドアを開けた。いつもとはずいぶん違う別れかただった。
どのようにして電車とバスを乗り継いできたのか、気がついたときには自宅に近い道を歩いていた。
母は僕を見るなり具合でもわるいのかと聞いた。僕はひどく疲れていることに気がついた。母にお茶をすすめられて、ずいぶんのどが渇いていることがわかった。お茶を飲むとすぐに自分の部屋に入り、机の前にこしかけた。
僕はいくども自分に問うた、自分はこれからどうしたらよいのか。どうしなければならないのか。そして思った、絵里を悲しませたくないし、自分もこのまま絵里と別れるのはつらいけれども、やはり、絵里との交際はやめるべきだろう。
夕食のしたくができたと母が声をかけてきたとき、ようやく僕は椅子を離れて、灯りをつけないままの暗い部屋から居間へ移った。
夕食をとっていると、屋上で泣いた佳子の姿が思い出された。佳子につかまれたときの腕の感触がよみがえり、佳子の悲しみが想われた。
「どうしたの、滋郎。元気がないみたいだけど」母が心配そうな声をだした。
「心配ないよ、ちょっと疲れてるけど」と僕は答えた。
母がお茶の準備をしていたが、食事を終えるとすぐに自分の部屋へ移った。父と兄は帰宅が遅くなるということで、家にいたのは母とふたりだけだった。母のお茶につきあえればよかったのだが、そのようなゆとりはなかった。
どんなに時間をかけて考えようが、選ぶべき道は最初から決まっていた。自分を納得させるための儀式を終えることにして、僕は自分に言って聞かせた。佳子との結婚を急ぐことにする。絵里には事情をつたえ、これ以降はつきあわないことにする。そのように自分を説得してみたものの、絵里に対する想いが胸中を行ったり来たりしていた。
僕は思った。自分がほんとうに望んでいたのはどんな結末だったのだろうか。もしも佳子が妊娠するようなことにならなかったら、絵里を選んだのかも知れないではないか。心の中で絵里に言い訳でもするかのように、そのような感慨が胸の底を流れた。
なるべく早く絵里に事情を伝えようと思った。どんなやり方をしたところで、絵里を悲しませることに変わりはなかったが、できるかぎり絵里を傷つけないようにしなければならなかった。佳子と別れることができないのであれば、いずれは絵里を悲しませる結果になったはず。ということは、こうなることを承知のうえで、絵里と付き合ったことになりはしないだろうか。もしもこのことを絵里が知ったら、絵里はどんなに傷つくことだろう。佳子が妊娠したために、止むを得ず絵里と別れることになったのだと、絵里には思わせねばならない。佳子が妊娠したことは、絵里にとって、そして僕にとっても救いになった。優柔不断な態度をとりつづけた僕に対して、何者かが僕に決着のための手段を与えてくれたのだ。僕自身は自業自得の痛苦に耐えるしかないが、佳子と絵里はその悲しみをどのように受けとめることだろう。絵里と佳子に与えた悲しみをやわらげるため、とにもかくにも心を砕かねばならない。
あの高原で絵里は幸せそうだった。あの日の絵里は、このような結果になろうとは予想もしていなかったはず。絵里の父親が病気にならなかったなら、ふたりはあのままホテルで一夜を過ごすことになり、結果としては、さらに大きな悲しみを絵里に与えることになったであろう。絵里の父親が病気になったのは、単なる偶然のできことではなかったような気がする。もしかすると、僕たちふたりのために、絵里の父親は病気になってくれたのではなかろうか。僕が絵里を抱こうとしたとき、それを拒んで絵里は電話をかけようとした。絵里が電話をかけることにこだわったのは、父親の想いに応えようとしたからではなかったろうか。会ったこともない絵里の父親に、僕は感謝したい気持ちになった。
みじめな気持ちを抱えて僕は椅子をはなれた。時計を見ると零時二十分になっていた。絵里は眠っていると思われた。絵里はあの日のことを夢に見ることがあるのだろうか。もしも夢に見るのであれば、嬉々として草原をかけまわる夢であってほしい。八ケ岳の高原を訪れた日から、まだ一週間しかたっていなかった。そのことが僕には信じがたいことに思われた。
夕方に降りやんだ雨が、アスファルトのくぼみに大きな水たまりを残していた。工場の通用門から出てゆく社員たちは、水たまりを避けてふたつに別れ、そこを通り過ぎるとひとつの流れに合流していった。
坂田が姿を見せた。僕は坂田に合図をしてから、バス停や駐車場に向かう退出者たちとは反対の方向へ歩きだした。
坂田には絵里を介すことなく直に事情を伝えたかった。そしてまた、坂田の助言を得てから絵里に会いたいという気持もあった。坂田に社内電話をかけて、定時になったら通用門で会いたいと伝えてあった。
追いついてくるなり坂田が言った。「なんだよ、相談というのは」
坂田とならんで歩きながら、僕は重い口をひらいた。
「困ったことがあってな、絵里さんとはつき合えなくなったんだ」
「どうしたんだよいきなり。何があったんだ」坂田が驚きの声を出した。
坂田は僕が事情を話しはじめるより先に、「例の、前からつき合っていた人のためなんだな」と言った。
僕はうなづいた。
「絵里のことを好きだったんだろ、松井。絵里はそう思ってるんだぞ。どうしてそんなことになるんだ」
坂田の声には僕を責める響きがあった。
「じつはな、前からつき合っていたほうに子供ができたんだ」
まわりに他の者はいなかったが、僕は声をひそめて言った。
坂田は何も言わずに歩みを止めた。僕が立ちどまると、坂田は「そうか」と言って歩きだし、問いただすように「お前、ほんとに好きなのか、そのひとのこと」と言った。
このような自分を坂田は軽蔑するだろうと思いながら、僕は「信じないかもしれないけどな、おれは、ふたりとも好きなんだ。絵里さんとはあの演奏会からのつき合いだけど、おれは絵里さんのことがほんとに好きだ」と言った。
絵里に対する気持ちに偽りがなかったことを、坂田にはなんとしてでも知って欲しかった。そのための言葉をさがしていると、坂田が口を開いた。
「わるかったかな、絵里に会わせて」
「いや、ちがうんだ。おれがいけないんだよ。おれがいいかげんだったんだ」
「でもな、絵里にはかわいそうなことになるよな」
坂田の声がまたもや僕を責めているように聞こえた。
坂田はその日のうちに絵里に事情を伝えると言った。僕は感謝して坂田にそれを頼んだ。僕がいきなり絵里に話すよりも、坂田を介して伝えたほうが良さそうに思えた。絵里に会うつもりだと言い残し、坂田は寮の方へと歩いていった。
坂田のうしろ姿を見送りながら、絵里とホテルに入ったことを、坂田には知られたくないと思った。そのことをふくめて、これまでの優柔不断な自分の態度を、坂田としては許せないことだろう。足早に遠ざかってゆく坂田を見ていると、坂田の信頼をすでに失ったのではないかと不安になった。
僕は急いでバス停に向った。坂田と同じバスに乗り合わせることは避けたかった。
次の日の朝、坂田は絵里に事情を話したことを伝えてきた。そのときの絵里の様子にはふれないままに、坂田は社内電話を切った。
坂田のおかげで絵里に電話をかけやすくなった。とはいえ、電話をかけるには、絵里の都合を考えなければならなかった。絵里がまわりを気にしないで話せるのは、職場がざわつく昼休みにはいったばかりの時刻だろうと考え、12時になったらすぐに電話をかけることにした。公衆電話のボックスは、工場の通用門を出てすぐのところにあった。
試作した材料の特性を調べながら、絵里にかける電話のことを考えた。絵里に語りかける言葉を考えているうちに、測定器の設定をまちがえてしまい、最初からやり直さねばならなくなった。
昼休みの時刻が近づいていた。電話ボックスまで急いで行かなければならなかった。測定作業のあとしまつをしていると、事務室から電話が転送されてきた。受話器から絵里の声が聞こえた。
絵里の沈んだ声に胸をしめつけられた。さいわいなことに近くには誰もいなかったが、僕は声をひそめて、あらかじめ考えておいた言葉を口にした。絵里が受け入れてくれたので、その夜ふたりで会うことになった。
僕は昼食をおえると屋上にあがった。よく晴れていたけれども風があり、手すりにもたれていると肌寒かった。テニスコートの辺りでときおり歓声があがった。女子社員のかん高い声がもの悲しく聞えた。