第6章 道

 佳子がその電話をかけてきたのは、伯父と話し合ってから数日後のことだった。佳子の固い声と不自然な口調が、僕に強い不安をもたらした。
 僕たちは2週間近く会っていなかったから、どうしても会いたいという佳子の気持ちは理解できたが、佳子が望んだのはいつものようなデートではなかった。佳子は彼女の勤めている学校で会うことを望んだ。そのような場所にこだわる理由を聞いても、佳子は答えてくれなかった。佳子の意図がわからないまま、二日ほど先の日曜日に学校で会うことになった。
 僕はようやくにして決意し、佳子と絵里に向き合う態度を決めようとしていた。絵里を選ぶことに決めたわけではなかったけれども、佳子に対する負い目が強まって、心の負担を大きくしていた。そのような心境で佳子に会うのはつらかった。さらに僕の不安を強めたのは、佳子の声と口調が明らかにふつうではなかったことだ。学校で会うことに固執するのも不自然だった。日曜日までの二日間、僕は不安な気持ちを抱きながら過ごした。
 その日曜日は車を使えなかったので、早めの昼食をすませてから昼前には家を出て、バスで三鷹駅に向かった。電車を降りる武蔵野線の駅と、学校に近いバス停の名前は佳子から聞かされていたけれども、初めて訪れる場所だったので余裕をみておいた。
 佳子が教えてくれたバス停で降りると、すぐ近くに校門があった。約束の時刻には早過ぎたけれども、校庭で佳子を待つことにして校門を入った。
 校庭の奥には2階建の校舎と体育館らしい建物があった。樹木が校庭をとりまくように植えられ、それが建物のすぐ脇までつらなっていた。校舎に近いあたりだけが常緑樹で、校庭のまわりの樹はすべて桜だった。日曜日のその午後、校庭には誰もいなかった。はずれの方にベンチが見えたので、そこで佳子を待つことにした。
 ベンチの前に光るものが落ちていた。拾いあげようとして腕をのばすと日がかげり、眼にするどかった輝きがやわらいだ。
 落ちていたのはペンダントだった。拾いあげたペンダントを眺めていると、再び日がさしてきた。日ざしが雲の影を追って足ばやに校庭をよこぎり、校舎が日に照らされて一瞬のうちに明るくなった。日ざしをあびた校舎の近くに人がいた。校舎まではかなり離れていたが、こちらに向かっているのが佳子だとすぐにわかった。ペンダントをベンチに置いて僕は立ちあがった。
「ありがとう滋郎さん、こんなとこまで来てくれて」
 佳子は笑顔で声をかけてきたけれども、その声には固さがあった。2週間ぶりというのに、それほど嬉しそうな笑顔ではなかった。
 佳子の表情や話しぶりから、僕に対して重要な用件をきりだそうとしていることがわかった。用件をきいても答えないまま、佳子は校舎に向かって歩き出した。
 佳子が漂わせている雰囲気や態度に不安を抱いたまま、僕は佳子について校舎の中に入った。
 外来者用のサンダルに履きかえ、佳子とならんで廊下を進んだ。ふたつの階段を続けてのぼり、僕たちは屋上に出た。
 佳子はあたりを見まわしながら、その町や学校のことを話したが、僕の興味を引くようなものはなかった。民家にまじって小さなビルが散らばり、立ちならぶ建物の間で木々が枝をのばしていた。日本のどこにでもありそうな風景だった。そのような屋上で話しこむ人がいるのか、木製のベンチがひとつ置かれていた。
 用件をきりだそうとしないまま、佳子は学校やその町のことを語り続けた。僕はますます不安になった。
 佳子がベンチに腰をおろした。僕もその横に腰をおろして、身構えるような気持ちで佳子がきりだす言葉を待った。
「滋郎さん」佳子がこわばった声をだした。「私ね、妊娠しちゃった」
 思いもしなかった言葉に僕はぼうぜんとした。どうしたことだろう。気をつけていたのに、どこでまちがったのだろうか。それではいったい、自分はどうしたらよいのだ。佳子の横顔を見ながら、逃げ場のないところに追いつめられたような気持ちになった。佳子は膝に両手を置いて、うつむくように足もとを見ていた。
「ねえ、滋郎さん。どうしよう」
 佳子に問いかけられて、急いで答えなければならないと思った。僕が言葉を探していると、佳子が泣きだしそうにして言った。
「ねえ、滋郎さん。どうして黙っているのよ」
「びっくりしたよ。だって、そうだろ」
 言うべきことがまだあるはずだったが、適切な言葉が見つからなかった。
「どうしたの滋郎さん」佳子の声が泣いていた。「何か言ってよ」
「それで、どうしたいんだよ、佳子」
「私は・・・・産みたい」佳子が声をふるわせながら言った。
 うろたえていた僕を、その言葉がさらに追いつめた。どのように対応したらよいのかわからなかった。
 佳子が僕の左腕を両手でつかみ、顔を僕の肩に押しつけるようにして泣きだした。僕ははげしい不安におそわれた。佳子に大きな悲しみをもたらす何かが起こったのだ。泣いている佳子がいたわしかった。僕は佳子を抱きしめるようにしながら、悲しむわけを話すように求めた。
 佳子は泣きながらわけを話した。僕は愕然とした。僕が絵里とつき合っていることを、なぜか佳子は知っていたのだ。
 絵里のことを従妹の幸子が知って、それを佳子に報せたことがわかった。佳子と親しい幸子には、伯父に相談したことを知られたくなかったので、充分に気をつけるようにと伯父には念を押したつもりだった。それを守れなかった伯父をうらめしく思った。
 問われるままに僕は絵里のことを話した。同僚の妹と交際しているのは事実であり、その兄をまじえて演奏会に行くようなこともあるが、その人を愛しているわけではないのだと、僕は釈明し、そしてごまかそうとした。その人は本当に単なる知人かと聞かれて、僕はさらに嘘をかさねた。
「いいんでしょ、滋郎さん。産んでも」と佳子が言った。
 佳子と結婚しなければならないと思った。そのことを口に出そうとしたとき、絵里の面影がうかんだ。僕は急いで代わりの言葉をさがした。
「とにかく、身体に気をつけなくちゃな」
 うなずいた佳子の頬には新たな涙があった。佳子に心の中を見透かされているような気がした。
 僕は釈明の言葉を繰りかえしたが、佳子が抱いた疑念は消えそうになかった。悲しむ佳子の肩を抱いたまま、僕は途方にくれていた。悔恨の想いが胸で渦まいていた。佳子を悲しませている自分が情けなかった。
 近くで鋭い鳥の声がした。その鳴声に心の奥まで突き刺されたような気がした。僕をきびしく叱った鳥はテレビのアンテナにいた。風にゆれるアンテナで、鳥もいっしょに揺れていた。いつの間にか風がでていた。
 鳥の声をきっかけのようにして、僕はベンチから立ちあがった。とぎれがちの会話を続けることが苦痛であったし、ずいぶん疲れてもいた。佳子に対して釈明すべき言葉も、すでに尽きたような気がした。
 佳子の腕をささえながら、階段のおり口に向かった。階段をおりるときも、廊下を歩いているあいだも、僕は佳子をささえ続けた。校舎の横の出入口を出るまで、ふたりとも口をきかなかった。
 暗い校舎から外に出たとき、僕は戸惑いをおぼえた。自分たちはいま、何をするために、どこに向かえばよいのだろうか。そう思いながら佳子に顔を向けたとき、ふたりで話し合うべきことが、まだ残っていることに気がついた。
 校庭のはずれにベンチが見えたので、そこで佳子と相談することにした。僕たちはベンチへ向って校庭をよこぎった。人けのない校庭に白い猫がいた。僕たちを先導するかのように、猫もまっすぐベンチの方へ歩いていった。風がつちぼこりを巻きあげながら校庭をわたった。季節には早い枯葉が舞っていた。
 校庭に場所を変えてからも、佳子はうちのめされたように力なくうなだれ、ほとんど口をきかなかった。屋上での僕の狼狽ぶりを見て、佳子は絵里に対する僕の気持ちを見抜いたに違いなかった。僕自身も大きなショックを受けたばかりだったが、何をおいても佳子をいたわらねばならなかった。僕は佳子の肩を抱きながら、ほんとうに愛しているのは佳子なのだとくりかえした。自責の念にさいなまれつつ口にしたその言葉には、嘘や偽りは少しもなかった。そのとき、僕には佳子がこのうえなくいとおしかった。
 佳子の表情から険しさがうすれた。そんな様子にひと息つくと、絵里のことが気にかかってきた。絵里とはこれでつき合えなくなるのだろうか。これから絵里とはどうなることだろう。
 佳子がどうにか落ち着いたのを見て、そこでの話し合いを終えることにした。佳子と相談したいことがあったけれども、夕刻がせまっていたし、ふたりとも疲れていた。それだけが理由ではなかった。気持ちを整理しないままに、将来のことを佳子と相談するわけにはいかなかった。