食堂で昼食をとっていると、同期入社の鈴木が近よってきた。きげんのよさそうな鈴木の様子にいやな予感がした。
 鈴木は僕の横に腰をおろすと、自動販売機で買ったらしいタバコを手にしたまま、音をたててテーブルに肘をついた。
 鈴木はタバコの封を切りながら、「小宮さんのことで助命嘆願したそうだな」と声をひそめて言った。
 野田課長と話し合ったことを、どういうわけで鈴木が知っているのだろうか、という疑念とともに、鈴木が話しかけてきた目的に対する警戒心が湧いてきた。
「なんのことだ」と僕は言った。「小宮さんがどうしたんだ」
 鈴木は黙ったままタバコをくわえ、ポケットから取り出したライターで火をつけた。僕はじらされているような気がした。
 ゆっくりと煙をはきだしてから鈴木が言った。
「君は本気で小宮さんに残ってもらいたいと思ってるのか」
「どうして知ってるんだ、小宮さんのこと」
 鈴木はもういちど煙をはきだしてから、手をのばして灰皿をひきよせた。
「野田さんが斎藤さんに相談してたぞ。君は小宮さんのことで野田さんに文句を言ったそうだな」
 用心しなければならないと思った。斎藤係長はいつも野田課長のきげんをとっているような男だったし、鈴木はどういうわけか斎藤係長に気に入られていた。
「僕はべつに文句をつけようなんて思っちゃいない」
「君がしゃべったことなど、野田さんは気にしちゃいないよ。心配するな。それよりもな、うまくやれば、小宮さんに残ってもらえるかも知れないぞ」
「うまくやるって、どういう意味だ」
「斎藤さんに相談するくらいだから、もしかすると、君の話を聞いて野田さんも迷ってるんじゃないのかな。CVDの装置に詳しいのは、君と小宮さんだけだから」
 野田課長が決断を迷うなどとは思えなかった。僕がだまっていると、鈴木は灰皿にタバコをこすりつけ、「がんばってみるんだな、野田さんが迷っているうちに」と言って立ちあがった。
 僕は定食の残りをたいらげながら、僕と話したことを、どうして野田課長は他の者に漏らしたのだろうか、と思った。課長が係長に相談するようなことだろうか。悪意に解釈すれば、単なる笑い話の材料にされただけかも知れなかった。そう思えば、野田課長に迷いがあるという鈴木の言葉にも、悪意が潜んでいそうな気がした。鈴木の言葉を真に受けてうかつなことをしたら、野田課長の反感を買うことになりかねないと思った。
 午後の実験室で、小宮さんに食堂でのことを話した。
「鈴木のことだから、野田さんに対して松井の印象を悪くするつもりかも知れないぞ。どうしたって、君にはかなわんことを知ってるわけだからな、あいつは。だからな、おれのことで野田さんに二度と相談なんかするな。そんなことをすれば、野田さんに憎まれることになるぞ、おれみたいに」と小宮さんは言った。
 実験室にほかの課員が入ってきたので、僕たちはしゃべることをやめて実験にとりかかった。

木曜日の夜、絵里が電話をかけてきた。
「だからね、友だちはついでに野辺山まで行ったんだって。ドライブも楽しそうだけど、秋の高原というのも素敵な感じよね」
 受話器から聞える絵里の声が心地よかった。電話の先の絵里の笑顔が想像できた。
 電話をかけてきた絵里はいきなり話しはじめた。友人が車で清里高原を訪れたこと。友人から聞かされた秋の中央自動車道と高原のこと。その声を聞いているうちに、絵里の期待に応えていっしょにドライブをしたくなった。
 ドライブをもちかけると、絵里は嬉しさを声に表して同意した。声をはずませている絵里と話し合い、ふつか先の土曜日に中央自動車道を走ることにした。その日は夕方から雨になっていたので、土曜日には好天になりそうだった。
 絵里との会話を終えるとすぐに、僕は道路地図をとりだして山梨県のページを開いた。僕が走ったことのある中央自動車道は、調布と河口湖の区間だけだった。
 土曜日の朝、三鷹駅の近くに停めた車の中で、絵里が現れるはずの場所を見ていた。
 絵里の姿が見えるとすぐに、僕は車からでて手をふった。絵里はすぐに気づいて、バッグを揺らしながら駆けよってきた。そんな絵里の気持ちに応えたくなり、僕はもう一度大きく手をふった。
 秋晴れの中央自動車道を西に向かった。双葉サービスエリアで飲み物をとり、ついでにゆっくり食事をとった。
 小淵沢インターチェンジで中央自動車道をおり、八ケ岳へ向かう道に入った。
 すでに葉を染めた樹が、草原の所どころに小さな林を作っていた。秋の日ざしが高原にそそいで、草原や木々の秋色をきわだたせていた。その光景に誘いだされて、僕たちは車をおりて草原を歩いた。
 草むらをぬって歩いてゆくと、二人が並んで腰をおろすのに格好の場所があった。草や枯草を足でふみならしてから、絵里と並んで腰をおろした。
 草原は南側の低地へむかってゆるやかな斜面をつくり、その先は落ちこむようにとぎれていた。低地を越えたかなたには、甲斐駒ケ岳やその他の峰が、そしてそれらの稜線が、巨大なびょうぶを拡げたように連なっていた。あたりの草を揺るがせて、ときおり風が吹きすぎた。草原にふりそそぐ日ざしは優しかったが、かすめる風は高原の秋の深さを思わせた。
 言葉をかわしながら空を見あげると、白い雲の群れがいくつか輝いていた。わづかばかりのその雲が、紺碧の秋空からにじみ出てくるものをおしとどめていた。空の奥を見つめていると、モーツァルトのピアノ協奏曲を評した文章が思い出された。〈この楽章は青空のような悲しみをたたえている〉 と記されていた言葉の意味が、ようやくわかったような気がした。
 雲の配列を眺めていると、心の中でモーツァルトのメヌエット楽章が鳴った。交響曲四十番のそれをハミングすると、絵里がそっと僕の手にふれた。絵里は僕を見ながらほほえんでいた。
「何を考えてるの」と絵里が言った。
「この空を見て、どんな感じがする?」
「空って、空の色のこと?」絵里は空を見あげた。「見ていると、なんだか吸い込まれそうに感じるわね。・・・・あのときの空・・・・あの星空もほんとに素敵だったけど」
 僕たちはデートを繰りかえしながらも、出雲の夜を話題にしたことはなかった。僕は意識してそれを避けていた。夜の浜辺のことを話題にすれば、絵里との仲が急速に進展するきっかけになりそうな気がした。そうなれば、どうにか保たれている状態がくづれる恐れがあった。絵里がその話題を避けていたのは、特急やくも号での気まずい雰囲気を、心のどこかで意識していたからだろう。そのような気まずさに立ち向かい、それを取り除こうとする努力が、内気な絵里にはできなかったにちがいない。夏の日のあの旅行から、まだ2ヵ月あまりしか経っていなかった。
 そのとき、僕たちはふたりだけの世界にいた。秋空のもとでふたりを見ているのは、南アルプスの山々だけだった。僕たちを束縛するものはなかった。ふたりを束縛していた感情は、東京を離れるにつれて薄まり、草原をわたる風のなかで消えようとしていた。流れ出ようとする言葉を、そのとき絵里はそのまま口にできたのだ。僕はその言葉にさそわれるまま、絵里の肩に腕をまわした。
 ゆっくりと首をまわした絵里が、そのまま僕を見つめるようにした。僕は想いをこめたその瞳をひきよせた。絵里はおずおずと、そしてぎこちなく応えた。ひかえめな絵里のしぐさのなかに、僕に対する絵里の気持ちがにじみでていた。にわかに僕の奥から衝動がわきおこり、それが僕をつき動かした。僕は絵里を抱いたまま体をたおし、絵里を草のうえに仰向けにして唇をむさぼった。
 絵里が顔を離すと、「松井さん」と声を発した。思わず僕は腕をゆるめた。絵里が体を起こそうとしたので、それに応えて絵里を抱きおこしてやった。つかの間の激情の余韻にとまどいながら、僕は絵里の体から手をはなした。絵里は驚きの表情を見せながらも、意外なほどに落ち着いていた。僕はとまどいとともに気はずかしさをおぼえた。
 僕が言葉を探しているあいだに、絵里はシャツの乱れをなおし、乱れた髪を両手でととのえた。絵里の髪や背中には、たくさんの枯葉の破片がついていた。それを取りのぞいてやると、絵里は小さな声で「ありがとう」と言った。その声が出雲の夜の砂浜を思いださせた。背中の砂をはらい落としてやったとき、絵里は同じような口調で「ありがとう」と言ったのだった。僕はあのとき、絵里の背中をなでながら、絵里の心の内の歓びに、シャツを通して触れているような気がした。暑かった出雲の夏から2ヵ月が過ぎ、僕に肩を抱かれている絵里は、白いシャツの上に茶色のセーターを重ねていた。えりもとを高原の冷たい風が流れた。
 南アルプスの山並が、先ほどよりも大きくせまって見えた。紺碧の空に散らばる雲は、先ほどと変わらずに輝いていた。
 僕たちは手をつないだまま立ちあがり、潅木をよけながら草むらを歩いて、車を停めておいた場所へ向った。10月が終わろうとする季節だったが、草原や辺りの木々の眺めはすでに晩秋だった。風が斜面を這いのぼり、絵里に口実を与えて僕に身を寄せさせた。風は少し冷たかったけれども、むしろそれが快かった。絵里は数メートル先まで小走りに走ると、にこやかな笑顔を見せてふり向いた。絵里は嬉々とした笑顔を浮かべたまま、僕にむかって写真をとるまねをした。そんな絵里に応えるために、僕はおどけた形でポーズをとった。
 僕たちは高原の道をドライブして、長坂のインターチェンジへ向かった。その途中で見かけた店に立ち寄り、記念になる土産物をさがしたのだが、ふたりが買い求めたのは、それぞれ数枚づつの絵はがきだけだった。
 帰りの中央自動車道は下りの勾配が続いた。速度のわりに車の中は静かで、ラジオからの音楽も快適だった。絵里の声がとぎれることはなかった。僕にもたれかかってくる声の響きが快かった。いつにも増して絵里にいとおしさを覚えた。