第5章 迷路

 坂田が入っている寮は工場と隣接していたけれども、そこへ行くには工場の門を出なければならなかった。僕は工場を出て、会社のグラウンドに沿った道を寮に向った。坂田はひと足さきに自分の部屋へ帰っているはずだった。
旅行中に写したたくさんの写真は、現像と焼増の依頼を母に頼んでおいたので、旅行から帰って二日目にはできあがっていた。絵里と綾子には坂田から渡してもらうことにして、3人ぶんの写真を持って坂田の部屋を訪ねたのだが、ついでに会社の寮を見たいという気持ちもあった。
 坂田の部屋は4畳ほどの広さで、ベッドと机が大半を占めていた。机の上には小さなテレビとミニコンポが置かれ、書き物をするには窮屈そうだった。
 坂田にすすめられた椅子に腰をおろして、僕はあらためて部屋を見まわした。ベッドの上には衣類や雑誌が置かれ、大急ぎでかたづけたらしいあとが歴然としていた。
「お前がつき合っている人のことだけど、どんな具合なんだ」
 インスタントコーヒーの準備をしていた坂田が、うしろ向きのままで言った。
 その問いかけにたじろぎながら、僕は「どんな具合って、ただつき合っているだけだよ」と答えた。
「いつからだ」
「去年から」
「それで、どんなつき合いなんだ」
 すぐにも話題を変えたかったが、その質問には答えなければならなかった。
「去年、いとこに紹介されたんだ。今でも、たまには会ってるよ」
 坂田は向き直ると、「あのな、絵里のやつだけど、じつはな、お前のことを好きみたいだぞ」と言った。
 僕が絵里の気持ちを知っていることに、坂田はすでに気づいていたはずだ。それどころか、絵里に対する僕の感情を見ぬいているに違いなかった。
 僕は坂田の言葉に黙ってうなづいたが、それだけでは足りないような気がした。僕はあわただしく言葉をさがし、さりげない口調で言った。
「おれだって、初めて会ったときから絵里さんを好きになったよ、とても感じがよかったから」
 坂田は湯をつぎながら、「お前がそう言っていたと、絵里に伝えておくよ」と言った。
 僕は黙って机の上のコーヒーカップに手をのばした。坂田が砂糖を入れようとしたが、それをことわってコーヒーを口に運んだ。
 つき合い始めてからまだ日は浅かったけれども、絵里を失いたくない気持ちはすでに強かった。佳子との仲がどのようなものかを、絵里だけでなく坂田にも隠したかった。コーヒーカップに眼を落としていると、不安な想いがわいてきた。絵里はもとより坂田にも、ずいぶん不誠実なことをしているような気がした。不安を胸にしながら、僕にとってはにがすぎるコーヒーをすすった。

 佳子と電話で話したのは、それより二日ほど前の夜だった。旅行から帰った翌日の月曜日に、佳子の方から電話をかけてきた。
 聞きなれた佳子の声はいつもと同じで、どこにも変わったところがなかった。当然ともいえるそのことに、僕はほっとするような気持になった。
「どうだった、旅行。天気が良かったでしょう」
「ずっと晴れてた。ついてたよ。でもよく知ってるな天気のこと」
「テレビの天気予報を見たら、全国の天気がわかるでしょ。いつも見てたんだからね、山陰地方の天気のことも」
 たとえ一緒にくらしていなくても、佳子には僕がそれほどまでに身近な存在なのだ。佳子のその言葉が、あらためて僕にそのような想いをいだかせた。佳子がいじらしかった。絵里とのことをうしろめたく思った。
 佳子とは土曜日に会うことになった。佳子にはいつも通りのことであっても、僕には心のあり方を試されるデートになりそうだった。

 土曜日の午後、僕は佳子に会うために、いつもの場所へ向かって車を走らせた。
それまでの一週間というもの、佳子と絵里にどのように向き合うべきかと考え続けたのだが、答はまったく得られなかった。自分のとるべき態度を決め得ないまま、僕は佳子と会うことになった。
 いつもと変わらぬ佳子の笑顔と声が僕をむかえた。いつも通りに身ぶりで挨拶を交わし合ったら、ほっとするような気持ちになった。佳子の笑顔を眼にして嬉しかったのは、自分がまだ佳子を愛していることを実感できたことだった。
 僕たちはいつものように早めの夕食をとった。食事をしながら写真を見せて、鳥取の砂丘や出雲での訪問先のことを話した。佳子には絵里のことをいっさい隠しておきたかったので、僕だけか、あるいは僕と坂田のふたりしか写っていない写真をえらんでおいた。友人とふたりで山陰地方へ出かけると伝えておいた僕の言葉に、佳子が疑いを持つことはなかったはずだ。
 佳子とホテルに入るような気分にはなかったので、それを避けるための口実を用意しておいたが、きげんのよい佳子を相手にしているうちに気持ちが変わり、結局のところは、いつものデートと同じようにことが運んだ。絵里は僕の心の奥に姿をひそめ、佳子にその存在を覚られることはなかった。
 駅の前に車をとめて、助手席を出てゆく佳子を見送った。佳子はきげんよく帰って行ったが、僕には自己嫌悪に似た感情が残った。僕が持っていたはずの良心や誠意というものも、本当はまやかしではなかったのかと、心のどこかが自分を責めていた。
その夜、僕は自室にこもって絵里との行く末を思った。佳子と別れないかぎり、絵里との将来はあり得ない。それならば、絵里のために佳子と別れることができるのか。できるはずがない。結婚するつもりで一年半も付き合ってきたのだ。あの佳子を悲しませ、苦しめることはできない。そうであるなら、付き合って間もない絵里とは別れることになる。絵里を悲しませたくないし、別れたくもない。ということは、今の自分は絵里をより深く愛しているということか。佳子を愛していることに疑いはないのに。
僕は佳子と知り合った頃を思い返した。そして思った。もしかすると、こんなことになったのは、俺自身の性格的なくせに問題があるのかも知れない。子供の頃から新しいことに夢中になる傾向がある。仮に絵里を選んだにしても、いつかまた、別の女に夢中にならないとは限らない。いや、それは考え過ぎというものだろう。女に対する感情は、遊びや趣味あるいは知識欲に対するものとは異質なものだ。
 なおしばらく考えたあげくに、僕は答を見つけることをあきらめた。僕は机を離れて居間へ移った。

絵里が電話をかけてきたのは、次の日の午前中だった。
 絵里は「たくさんの写真、ありがとうございます。兄さんから昨日受け取りました」と言った。快活な口調でありながら、話しぶりにはぎこちなさが感じられた。
 絵里はいくつかの写真について感想を語った。
 絵里が言った。「松井さんといっしょに写っている写真を見てるとね、そのときの気持ちが思いだされるのよね。楽しかったし・・・・ほんとに幸せだったなって。松井さんと一緒だったから」
 その声には震えがあった。気持をふるい立たせながら話している絵里を想った。僕は絵里をいとおしく思った。
 僕は浜辺での絵里を思い出しながら、「僕も楽しかったよ、絵里さんや坂田と一緒だったから」と言った。
「兄さんからも写真をもらったのよ、松井さんと写っている写真をたくさん」
 言葉を交わしているうちに、絵里の心の内が気になった。電話をかけてきた目的が、写真について語り合うことだけとは思えなかった。
 絵里は電話機のそばに写真を並べているらしく、次からつぎへと写真にかかわる話題を出してきた。どんな話題に対しても、僕は意識して楽しそうに応じた。特急列車での気まずい雰囲気が尾をひいており、会話に笑い声が混じることはあっても、ぎこちない笑い声はすぐにとぎれた。快活に声を交わしながらも、以前のように言葉が踊ることはなかった。
 会話が終わりそうな雰囲気になったとき、絵里が意を決したような口ぶりで、「もし、できればだけど……会ってもらえたらと思って。きょうの午後に会ってもらえたら嬉しいけど」と言った。
 その声が僕の気持ちを伺っていた。それに応じなければ、絵里との間に垣根ができてしまいそうだった。僕のささやかな理性は、すぐにも垣根を作れと命じていたが、感情はそれを望まなかった。それどころか、絵里のその言葉がうれしかった。そして結局は、その日の午後に絵里と会うことになった。
 前日の土曜日に佳子と会ってから、自分の優柔不断さを責める意識が強まっていた。早く答を出さなければ、事態は困難になるばかりだぞ。感情に流されて行く先には苦しみが待っているのだ。ところが、絵里と会う約束をしたら、そのような意識は心の奥に押しやられてしまった。僕は思った。デートをするからには、絵里に気まずい想いをさせてはならない。絵里を楽しい気持ちにしてやらねばならない。
 気持ちの整理がつかないままに、それ以来、絵里とのデートを繰り返すことになった。絵里と過ごすひと時が、以前にまして歓びをもたらすようになったが、絵里と別れた後は、いつも迷路の中にとり残された。僕は途方にくれているばかりで、出口を求める努力をしなかった。佳子とのつき合いはそれまで通りに続いており、会えばホテルに入るという習慣も変わることがなかった。
 僕は佳子と絵里の間で揺れていたわけではなかった。僕の心の中で、佳子と絵里はそれぞれの座を占めていた。
 佳子の前ではそれまでと変わることなく振る舞えた。佳子が絵里の存在に気づくはずはなかった。絵里は僕とのデートを重ねるうちに、佳子の存在をそれほど気にしなくなったに違いない。不安定で落ち着かない気持ちを抱えながらも、僕は佳子と絵里の間で奇妙な安定状態を保っていた。いずれはやってくるはずの破綻から遠ざかろうとして、僕は優柔不断という隠れ家に身をひそませていた。そのようにしてひと月あまりを過ごすうちに、暑かった9月も終わりになった。