左側に宍道湖が見えてきたので、絵里をうながして右側の座席から左側の空席に移ることにした。
 厚みを増した雲が宍道湖を覆っていた。にぶい光の帯が湖面を走り、風が流れる向きを教えていた。対岸の景色がかすんで見えた。雨つぶが窓について、外の景色がにじみはじめた。
 僕の気持ちの揺れには気がつかないらしく、絵里は明るい声で天候に恵まれたことに感謝した。好天に恵まれて本当に良かったと、僕は絵里と同じことを口にした。
「今度の旅行のこと、松井さんは何が一番良かったの」
 その言葉が夜の砂浜を思い出させた。絵里の問いに答えるかわりに、僕は「絵里さんが良かったのは、やっぱり鳥取の砂丘か」と聞いた。
「わたしはあの夕日ね」と絵里が答えた。「いろんな夕焼けの詩や歌があるわけがわかったような気がする」
「荘厳っていうか、厳粛っていうか、そんな感じの夕日だったけど、おれは鳥取の砂丘だよ、いちばんよかったのは」
 出雲大社の浜辺を話題にしていれば、のっぴきならない所に追い込まれそうな気がした。僕はいそいで話題を移したが、しばらくたつと、絵里はふたたび浜辺のことを口にした。
「星もよかったわね」小さな声で絵里が言った。「天の川も見えたし」
 絵里の口調の陰りを気にしながら、僕は「東京にはないんだよな、あんな星空は」と言った。
 自分でも気になるほどに、僕の声には元気がなかった。
 沈黙が数秒つづいたあとで、絵里が「いい思い出になるのに、星空は記念写真にできないのよね」と言った。
 声がさびしげに聞こえた。僕はあせった。
「いい思い出になるよな、今度の旅行。良かったよ、こんな旅行ができて」
「私も・・・・ほんとに良かった。とても楽しかったし・・・・」
 絵里はつぶやくような言いかたをした。僕が不安な想いにとらわれているかぎり、絵里の気持ちを曇らせるおそれがあった。会話をはずませるためにも、そこまでの自分の態度を取りつくろうためにも、適切な言葉を見つけなければならなかった。言葉を探しながら窓の外に眼を向けると、ぬれた窓の向こうで松江の街がにじんでいた。
 松江の駅では多くの乗客が乗りこんできて、いきなり車内がにぎやかになった。僕と絵里が右側の元の座席にもどると、若い男がやってきて、問いかけるようなまなざしを向けてきた。
 学生風のその男は、並んでいる僕たちを見て、座席の交換を申し出てくれた。絵里とふたりでいることには苦痛を感じていたが、その男に感謝の言葉をつたえて席を替わってもらった。岡山に着くまでの数時間を、僕は絵里と並んで過ごすことになった。
 僕がどんなにうまく取りつくろったところで、前夜からの想いにひたり続けていたはずの絵里には、僕の態度が不可解なものに映ったことだろう。数時間を僕とふたりで過ごすことになったとき、さぞかし絵里は期待したことだろう、さらに大きな喜びが得られることを。期待をうらぎられた絵里はそのわけを察したに違いなかった。僕と佳子の仲がどの程度のものか、絵里がそれを知るはずはなかったけれど、そのとき、絵里は佳子の存在を強く意識したにちがいない。絵里は口数が減り、声と口調が重くなった。
 絵里は僕たちふたりに係わることを口にしなくなった。絵里が意識してそのような話題を避けているのだと思うと、僕の気分はさらに重くなった。そんな僕たちに話題を提供してくれたのは、車内販売から求めた週刊誌だった。そこから話題が得られることを期待して、僕は二冊の雑誌を買い求め、そのうちの一冊を絵里に渡した。ふたりともそれをほとんど読まなかったけれども、記事の見出しを眺めるだけで話題のタネが見つかった。絵里は少しづつ明るさを取りもどしたが、嬉々とした表情はもどらなかった。絵里は意識して明るくふるまって見せたのかもしれない。声にだして笑うことがあっても、体を寄せてくることはなかった。
 岡山駅で新幹線に乗りかえた。自由席の車内で僕たちはそれぞれに空席をさがした。名古屋で多くの乗客が降りるまで、僕たちは離ればなれに座っていた。
 東京に着いたのは8時過ぎだった。新幹線の改札口から少し歩いたところで、僕たちはにぎやかに別れの言葉を交わした。笑顔で手をふる絵里にむかって、同じように僕も手をあげて応えた。絵里の笑顔がやどしていた寂しさに、そして、つらい想いでそれを見ていた僕の気持ちに、坂田と綾子はおそらく気づかなかっただろう。
 坂田は絵里といっしょに両親の住む家に向かった。綾子が乗るのは地下鉄だった。僕はひとりで中央線のプラットホームへ向かい、高尾行きの電車に乗った。
 ひとりになったとたんに、僕は想いの世界にひき寄せられた。
 浜辺での絵里とのことを思いかえした。あのとき、絵里はほとんど動かなかった。その控えめなしぐさの一つひとつに、歓びに震えている絵里を感じた。おずおずとしたその動きに、嬉しさの中にも緊張している絵里の気持が表れていた。
 甘美な想いにひたっていると、いきなり心の中に佳子が現れた。たちまち僕は不安におそわれた。絵里のことを知ったら佳子はどんな気持ちになるだろう。何も知らない佳子が哀れだった。僕は心の中で佳子をなぐさめた。まだ愛しているんだ、悲しまないでくれ。佳子がとてもいとおしく、そして、ふびんに思われた。
 先夜からの不安がふたたび僕を強くとらえた。僕は途方にくれながら思った。どうしてこんなことになったのだろうか。
 絵里とつき合い始めてからほどなく、僕に対する絵里の気持ちに気がついた。佳子との仲を絵里に伝えなければならなかったのに、僕はむしろそれを隠そうとした。自分の心の不確かさを意識していながら、絵里からの誘いに僕は喜んで応じた。そして今では、絵里がこれ程までにいとおしい存在になってしまった。
 僕は思った。今のうちなら絵里から離れることができるだろう。絵里のためにもそうすべきだ。だが、そのように考えている僕の中には、絵里の笑顔に応えたがっているもうひとりの僕がいた。
 僕はさらに思った。佳子以外の女を愛することなど考えられなかったのに、今の自分はたしかに絵里を愛している。このような自分には、さらに新しい出会いが待っているかも知れないではないか。僕はもの悲しい気分になった。そのとき不意に、伯父のことが思いうかんだ。母が話してくれたところによれば、母の兄には離婚した経歴があり、再婚して現在の家庭を築いているということだ。僕が生まれるよりも以前のそのできごとについて、詳しいことを伯父からは無論のこと母からも聞いたことがなかった。
 温厚で誠実なあの伯父が、どうして離婚する結果になったのだろうか。人生の過程で互いに深く関わりあった男と女が、その関わり合い方を根底から変えてしまったのだ。その過程では別の男か女が関わっていたのかもしれない。縁という言葉で説明するにしろ、運命だと受け入れるにしろ、そこには人の責任に帰すべきところが多かったに違いない。その人生を振り返るとき、伯父自身はどのような想いを抱くのだろうか。そんな伯父に相談すれば、自分が抱えこんだこの問題を解決するうえで、手がかりになるものが見つかるかも知れない。
 日野市に住んでいる伯父とはいつでも会えるのだが、その半年ほどは会っていなかった。僕は伯父に会いたくなった。伯父と話し合うことで、僕が必要とする何かを得られそうな気がした。