第4章 出雲大社

 坂田から旅行の相談を持ちかけられたのは、8月に入ってすぐのことだった。絵里とその友人が計画している旅行で、行き先は鳥取の砂丘と出雲地方だった。
 出雲は母の生まれ故郷だから、子供の頃からしばしばそこを訪れていた。母の実家を訪ねるたびに、出雲大社などに案内してもらったのだが、母の故郷を充分に知ることができたという実感はなかった。おそらくその原因は、出雲のどこを訪れるにも、案内してくれる誰かについて行っただけであり、自分の意志で行動したことがなかったからだろう。
 坂田からその計画を聞かされて、僕は胸をおどらせながら思った。坂田や絵里といっしょに旅行を楽しめるのだ。僕はその場でその計画に賛成し、実現させるようにと坂田をけしかけた。
「どういうわけだろう、行き先が山陰地方というのは」
「絵里から相談を受けたとき、いつかお前が話してくれた出雲の縁結びの神様や、鳥取の砂丘のことを話してやったんだ。おれがいちばん見たいのは、鳥取の砂丘だけどな」
 旅行を思いついたのは絵里だったとしても、行き先については坂田の希望が影響しているらしかった。
 坂田からの誘いにとびつくように応じたものの、心の隅には不安があった。時間がたつにつれ、その不安は次第に強まった。
 いつも受け身で応じるようなデートだったが、僕は絵里とのそれを楽しみにしていた。そんな自分に多少の危惧をおぼえはしたが、それを無視して絵里との交際を続けた。危惧の念が無視できないほどに強まると、僕は自分をごまかしてそれを弱めようとした。絵里とつきあっても佳子に対する気持は変わっていない。ということは、絵里との交際に問題はないということだ。そんな言い訳をしたところで、佳子に対するうしろめたさは抑えきれなかった。佳子は僕の心の中にどっしりと腰をおろしていたものの、僕の心はさほどに確かなものではなさそうだった。僕はおそれた、絵里とすごす数日の旅行が、佳子に対する気持ちを変えるかもしれない、と。
 そのような迷いがある一方で、旅行に参加しなければ後悔するような気がした。友人たちと出雲を動きまわれば、母の故郷がもっと身近なものになるだろう。せっかくの機会を逃すことはないではないか。そんなことを考えているうちに、次の日ふたたび坂田が僕の職場にやってきて、絵里と相談した結果を伝えた。僕が迷っているうちに、山陰旅行の計画は進められていた。
 会社の夏季休暇を利用できればよかったのだが、僕には大学の同期生会などいくつかの予定があった。坂田をまとめ役にして四人の都合を調整した結果、夏季休暇が終わった後の木曜日に、寝台特急列車で出発することになった。僕と坂田は金曜日に年休をとることになったが、絵里は夏季休暇の日程をずらしてとることができた。

 木曜日の夕方、僕は定時になるとすぐに工場をとびだした。いったん自宅に帰って食事をすませ、身仕度をととのえて東京駅に向った。旅先でレンタカーを利用する可能性があったので、バッグには運転免許証といっしょに道路地図を入れておいた。
 集合場所で3人が待っていた。絵里が友人を紹介してくれた。
「いっしょに仕事をしているヤマノウチアヤコさん。銀行に入るのも一緒だったの」
 僕が山之内綾子と初対面の挨拶を交わすと、絵里が僕に向かって「私はアヤちゃんと呼んでるけど、松井さんと兄さんには綾子さんと呼んでもらうことになったの。長くて呼びにくいでしょ、山之内って」と言った。
 僕たちはそれからすぐにプラットホームへ移動した。歩きながら話しているうちに、綾子のことがいくらか判ってきた。浜松が故郷だという綾子は、東京の伯父の家に寄宿して短大に通い、卒業して銀行に勤めるようになったいまも、伯父の家族といっしょに住んでいるということだった。
「もしかすると、ずっと東京に居るかも知れないわね、アヤちゃん」と絵里が言った。
「浜松には帰らないってわけか」坂田が綾子に聞いた。
 綾子が口をひらく前に、絵里がからかうような口調で言った。「もしもよ、アヤちゃんが兄さんと結婚すればそうなるんだから」
「おいおい、お前は出雲の神様の代理人のつもりか」
 缶コーヒーを持った手を絵里にむけてつきだしながら言った坂田は、綾子に向き直るとおどけたような口調で「せっかくだからさ、そうなるように出雲の神様にこっそりとお願いするよ」と言った。
 急行出雲はすでにホームに入っていた。僕たちは切符に記されている指定車両に乗り込んだ。
 4人とも寝台列車に乗るのは初めてであり、異性の友人をまじえての旅行も初めてだった。珍しい体験に気持ちをたかぶらせ、僕たちは車内の通路で声高にしゃべっていたが、気がついてみると、他の乗客たちはほとんどベッドに入っていた。
 狭いベッドの中で僕は週刊誌を読んだ。ふだんなら読まないような記事まで読んでいたので、眠りに入るのがずいぶん遅くなった。つぎの朝は坂田に揺り起こされて、どうにか目覚めることができた。10分ほどで鳥取駅に到着する時刻になっていた。
 鳥取駅の自動販売機で買ったパンとジュースが、僕たちのささやかな朝食だった。
 荷物になるものをコインロッカーに入れてから、僕たちはタクシーで砂丘に向かった。僕が手にしていたのはカメラだけだった。
 タクシーを降りて砂丘の入口に立ち、眼の前に拡がる光景を見た瞬間に、ここを訪れてよかったと思った。空と海しか背景に持たないことで、砂丘はその姿をいちだんと雄大なものにしていた。
 砂に足をとられながら、僕たちは海辺に向かってひたすらに歩いた。その日は朝から暑かった。歩きはじめるとすぐに汗がでてきた。
 僕は仲間たちの姿を写真に撮った。坂田が砂の上を走って行き、近づいてゆく僕たちにカメラを向けた。絵里が僕に寄りそいながら、坂田に撮りなおしを求めた。絵里のはしゃぐ声が僕をうわついた気分にした。
 僕たちは砂の丘を上って、その頂上に腰をおろした。ふもとの波うちぎわと遥かな水平線が、単純な色彩とあいまってのびやかな景観をつくりあげていた。どこを見ようとするわけでなく、眼に映るままに眺めているだけでよかった。砂丘をはいあがってきた風が、体とシャツの汗をうばった。
 のびやかな眺めと優しい風を楽しみながら、僕たちはとりとめのない話題に興じた。1時間に近い時間を砂丘で過ごしてから、僕たちはそこを引きあげることにした。
「ここを見たかったんだろ、坂田。どうなんだ、感想は」
「感想か・・・・多分お前と同じだよ。ここへ来て良かったじゃないか。暑いけど、その方が似合うよな、ここには」
「そうね、砂漠を歩いたみたいで、私はとてもおもしろかった」と綾子が言った。
「こんな海の見える砂漠。日本にもこんな所があっていいわね」
「冬だったら雪の砂漠から海を見ることができるな」僕が絵里の言葉をひきつぐと、「おもしろそう、雪の砂漠も。スキーができるかもしれないわね砂漠で」と絵里が応じた。
 鳥取駅へ帰るためのバスを待っていると、タクシーがきて人をおろした。僕たちは客を降ろしたばかりのタクシーに乗りこんで鳥取駅へ向かった。
 駅に着いて時刻表を見ると、松江に向かう快速列車があって、発車時刻は1時間後だった。それまでに昼食を終えることにして、僕たちは駅の食堂に入った。
 食後のコーヒーをゆっくり楽しんでから、真昼の日ざしの中を快速列車で松江に向かった。僕たちには初めての路線だったが、車窓からの風景は流れるにまかせて、雑談に興じながらの時を過ごした。
 僕たちは松江に着くと、街を見物しながら松江城まで歩き、天守閣に向かう坂を登った。
 その日は金曜日だったが、天守閣にはかなりの人が入っていた。階段を登ってゆく途中の階に、たくさんの武具や甲冑が展示されていた。
 最上階まで登ると、木々のかなたに宍道湖が見えた。周りの景色をしばらく眺めただけで、僕たちは階段の降り口に向かった。
 天守閣の近くに店があったので、そこでしばらく休むことにした。
 お茶と菓子を味わいながら、僕たちは観光案内に見入った。
「すみません」坂田が店員に声をかけた。「ラフカディオ・ハーンの旧居へ行きたいんだけど。道を教えてくれないですか」
「そげですたら早くいきなさいましぇ。あんまり時間があーすぃましぇんですけんね」
 女性店員が教えてくれた道をハーンの旧居へ急いだが、入館の締切時間を過ぎていた。僕たちは係員にたのんで庭先まで入れてもらい、庭の一部と建物の外観だけを無料で見せてもらった。
 電話帳を頼りにホテルを確保しておいてから、武家屋敷の名ごりをとどめている家並の街を歩いた。宍道湖のほとりまで歩いた僕たちは、岸辺のベンチで休息することにした。
 西の空が夕焼けに染まろうとしていた。夕日にきらめく湖の眺めに引きとめられて、僕たちはしばらくベンチを離れなかった。