配属された職場で3ヵ月が過ぎた頃には、試作を進めるうえでの相棒として、僕は小宮さんから対等に扱われるようになっていた。僕は夢中で仕事にとりくみ、自宅に帰ってからも試作のことを考え続けるような日々をおくっていた。
 仕事に熱中する一方で、それまでと変わることなく、週に一度は佳子に会った。それだけでなく、僕は絵里ともつき合っていた。
 残業さえしなければ、絵里とは平日にも会うことができた。絵里が電話で相談を持ちかけてくると、僕は喜んでそれに応じた。絵里がヘッドホンを買う際には、いっしょに幾つもの店をまわって、喜んでもらえる結果になった。カセットテープを選ぶようなときにも、絵里は僕の意見を聞こうとした。絵里の求めに進んで応えようとする僕に対して、僕の理性らしきものが警告しはじめた、佳子を悲しませるようなことをしてはならないぞ、と。
 うしろめたさはあったけれども、佳子に隠れて絵里とつき合うことが、おまけのような楽しみを僕にもたらした。佳子に対するうしろめたさとともに、それから先の成り行きに対する漠然とした不安があったけれども、僕は絵里との交際をやめようとはしなかった。僕は自分に向かって言いわけをした、佳子を愛する気持ちに変わりはないのだから、少しくらいの移り気は許されるだろう、と。

 会議の席で野田課長が小宮さんをどなりつけたとき、僕は怒りを抑えることができなかった。課長の態度が理不尽なものに思えたので、僕は強い口調で小宮さんを弁護した。野田課長は無言のまま僕を見つめていたが、僕が話し終えると軽くうなずき、穏やかな口調で「わかった」と言った。そのあと野田課長は何ごともなかったかのように会議を進めていった。野田課長は小宮さんのプライドを傷つけながら、それを全く意に介していないかのようだった。僕の胸には怒りの感情が強く残った。
 その夕方、野田課長は来客用の応接室に僕をつれて入った。会議での自分の態度をきびしく叱責されるにちがいない、と僕は覚悟した。
「ちょっと聞きたいが」と野田課長がきりだした。「君は僕を批判しているそうだな」
「僕は、やっぱりあの実験をやった方がいいと思います。小宮さんの考えていることをわかって欲しいです」
 野田課長の質問に対しては的はずれの回答だったが、その日の会議でのやりとりを思いだしながら僕はそのように答えた。
「小宮くんのことはわかったから、もういいよ。そんなことより、君に言っておきたいことがある」と野田課長が言った。「君には僕の立場も考えてもらいたいんだがな」
「わかっているつもりですけど」
「わかってるんなら、課の雰囲気を乱すようなことはしないでくれ」
 野田課長の意図するところがつかめないまま、僕は黙って次の言葉を待った。
「陰で僕を批判するのはやめてくれ。課の雰囲気を悪くするからな」
 不安な想いと警戒心がわきあがってきた。へたな対応をすれば、課長との間がまずくなりそうな気がした。
 僕が野田課長に対する不満をもらしたことは、それまでに幾度となくあった。その相手は小宮さんだったが、それを耳にした誰かが野田課長にそれを伝えたに違いなかった。僕は同期入社の鈴木を疑った。新入社員どうしということもあって、しばらく前まで親しくつき合っていたが、陰険でずる賢いところを見せられてからは、なるべく近よらないようにしていた。
 野田課長はだまって僕を見ていた。うかつなことは言えないと心しながら僕は口をひらいた。
「誰ですか、僕が課長を批判していると言ったのは」
 野田課長が話す内容によっては、釈明することもできたであろうが、その質問に答えてはもらえなかった。さらに言葉を交わしたあとで、釈然としないまま、批判的な言動をつつしむようにと約束させられた。険しい成り行きになりそうだと覚悟をしていたのだが、結局のところはその程度でおさまった。
 野田課長は僕の仕事ぶりをほめ、期待しているからさらに努力するようにと、言い置くような言葉を残して応接室を出ていった。野田課長の足音を追うようにして僕はドアに向かった。

 企業の夏期休暇が集中する8月中旬に、大学の同期生会が設定されていた。同じ学科の同期の者が、卒業してから初めて集まる会合だった。
 渋谷で開かれた同期生会には、思っていたより多くの仲間たちが集まってきた。数か月ぶりに会った仲間たちは、身なりがすっかり変わり、話題もずいぶん豊富になっていた。むろん彼等の眼には、僕自身もそのように映ったにちがいなかった。
 仲間の就職先は電気にかかわる分野とはかぎらず、出版社や建設会社など、さまざまな業種にわたっていた。担当する仕事がすでに決まっている者もいれば、まだ社内研修を受けている者もいた。
「数学にしろ電子工学にしろ、苦労して勉強したわりには役に立たないよな」と池田が言った。「役にたつのは英語に国語、それと数学。数学というよりも加減乗除の算数だよ、実際に使っているのは」
 池田とは学生時代に親しくつき合っていた。僕とちがって池田はめったに講義をさぼらなかったので、僕はしばしば彼からノートを借りた。
「英語と国語に算数か。確かにそんなとこだな」
 僕は安易に同意してみせたが、それもあながち間違っているとは言えなかった。小宮さんと取り組んでいる仕事では、英語で書かれた文献を読んだり、測定したデータの計算をするなど、高校で学んだ知識で間に合うことが多かった。とはいえ、試作計画の立案や試作結果の分析に際して、大学で学んだ知識は大いに役立っていた。
「おれの職場に高卒で入社した社員がいるんだよ。同じような仕事をしていながら、大学を出ているおれの給料がいいっていうのは、なんとなく居ごこちが悪いんだよな。おれだけかも知れないけどな、こんな気持ちになるのは」と池田が言った。
「仕事ができさえすれば、高卒の者が大卒と同じような仕事をやるのは当然だし、給料だって同じでいいわけだよな、たしかに」
「おれに向いた仕事をさせてくれない会社にも困るけど、単純に学歴で差別することにも疑問があるよな、会社というところには」
「ほんらいならばだ、誰もがそんな疑問をもたなきゃならないんだよ、形式的な学歴偏重と人事管理のご都合主義については。なにしろ」と僕は言った。「まともに勉強しないまま大学を卒業する者だっているんだからな」
 それからひとしきり、僕は池田と議論した。大学で学ぶことの意義はどこにあるのか。
 大学で学んだ物理や電子工学などの知識は、僕の仕事に必要なものだったが、それらの多くは適切な参考書があれば充分に独習できるものであり、必ずしも大学で学ばなければならないというものではなかった。
 僕は一時限目の講義をほとんどさぼったのだが、それらの科目の成績が悪いということはなかった。大学で学んだ経験から言えるのは、知識の多くは独学で修得できるということだ。学歴を得る目的で大学へ進み、まともな努力をしないままに卒業する者よりも、独学に励んだ者のほうがはるかに大きな力を持つにちがいない。とはいえ独修の場合には、特別に興味をおぼえることや、さし当たり必要となる知識だけを修得することになり、無駄のように見えても実際には有用な知識をなおざりにする、ということも起こり得る。そのような問題点を解決できれば良いのだから、通信教育などで力を蓄えた者に対しては、一般の学卒者と同等以上の評価が与えられてしかるべきではないのか。大学で学ぶことの意義や卒業資格の意味については、もっと議論されるべきではないのか。
 池田としばらくそのような議論をして、ようやく僕は気がついた。彼とは学生時代にもよく話し合ったが、何かについて真剣に議論をしたということはなかった。
「こういうことは、学生時代に議論しておきたかったな」と僕は言った。
「そうだよな。単位をよぶんに取って苦労するより、こんな議論をいっぱいやっておいた方が良かったかも知れんな」と池田が言った。「お前みたいに、ぎりぎりの単位しか取らなかったうえに、講義をあれほどさぼっていても、自分のやりたかった仕事をやることができるんだから」
「講義はさぼったけども、勉強をさぼっていたわけじゃないからな」と僕は答えた。
 仲間たちとの語らいはおもしろく、時が経つのを忘れていたが、幹事の大きな声が聞こえて、解散の時刻になったことがわかった。
 池田がもっと話したいというので、池田と親しかった佐藤を加えた3人で会場を出て、話し合うための場所をさがした。
 僕たちは大きな店構えの焼鳥屋にはいった。店の中の一部に畳を敷いた場所があったので、僕たちはそこに座りこんだ。
 池田が仕事上の悩みについて語った。総合電機会社に就職した池田の悩みは、配属された検査部の仕事になじめないということだった。
「だからさ、職場を変えてほしいと頼んでみたんだよ、おもいきって」
「すげーな、ほんとかよ」佐藤が感心したような声をだした。
「社員が希望するままに職場を変えたりしたら、会社が成り立たなくなると課長は言うんだ。部長に直接相談したところで、たぶん同じ回答しかもらえないだろうな。夢を実現したくて入社したのに、そんな社員の希望に応えようとしないんだから、こんな会社じゃ将来性はないとおれは思ってるんだ」
「日本の会社なんて、みんなそんなもんだぞ」串で歯をつつきながら佐藤が言った。
 大学の三学年が終わる頃、将来の仕事について池田と語り合ったことがあった。僕がスピーカーの仕事を望んでいたのに対して、池田の希望は光素子の開発だった。
「お前はたしか、光素子の仕事をやりたかったんだよな」と僕は言った。
「卒業研究のテーマもレーザーだったし、それをやりたくてあの会社に就職したんだ」
 僕は池田に同情しながら聞いた。「それでどうするつもりだ」
「思いきって大学院を受けようと思ってるんだ。がんばれば何とかなりそうだから」
「へー、仕事が面白くねえってんで大学院か」佐藤が池田の顔をのぞきこみ、あきれたような声をだした。「今からでも間にあうのか」
「太田に聞いてみたけど、何とかなりそうだな」
 大学院に進んだ同級生にも相談しているという池田は、すでに進学を決意して準備を進めているに違いなかった。
 焼き鳥屋を出るときには身体がふらついた。池田と佐藤はさらにどこかに立ち寄るつもりらしかったが、僕はつき合えそうになかったので、ふたりと別れて駅に向かった。
 電車に揺られていると、池田と話したことが不意に思いだされた。仕事に不満を抱いている池田とくらべるならば、自分は恵まれている。いまのような仕事に関わっているかぎりは、どんなに課長がいやな奴であろうと耐えられる。もしも池田のように不本意な仕事をさせられることになったら、自分ははたしてどうするのだろうか。それにしても、池田はずいぶん思いきったことをするものだ。あの池田は大学院をでて、いずれは執念を燃やせる仕事にとりかかるに違いない。