第3章 生きがい

 試作はいっこうに進まず、実験データだけが増えていった。会議のたびに、野田課長は小宮さんを責めた。小宮さんと僕は叱責に耐えるしかなかった。
 月曜日の会議が終わってから、僕と小宮さんは会議室に残って、実験の進め方について議論した。会議室の白板は、小宮さんと僕が書いた文字や図でうめつくされていた。
 パネルで仕切られただけの会議室だったので、ときおり野田課長の大きな声が聞こえた。そのたびに僕は不快な気持ちになった。
「僕たちの仕事はこれでも進んでますよね。これまでの実験の結果を知ってるんだから」と僕は言った。
 小宮さんは白板に書かれた文字を消しながら、「そうだよ、もちろん。やってしまったことは、もうやる必要がないからな」と答えた。
「昨日の続きを今日やって、今日の続きを明日やるというような毎日だけど、それでも進歩はしているわけだ」
「そりゃそうだよ。試作にしても、俺たち自身にしても、毎日のように少しづつ進歩しているんだ。経験を積み重ねるということには、そういう意味があるわけだよ」と小宮さんは言った。
 会議室を出て事務室に向かいながら、小宮さんが言ったことについて考えた。仕事に関わる僕の知識は、努力と経験を通して確かに進歩し続けていた。それならば、僕自身は人間的にも成長し続けているのだろうか。知識を積むうえでの糧が経験と努力なら、人間的に成長するうえでの主要な糧は何だろう。考えながら歩いている内に、自分の机の前に来ていた。

 梅雨が明けて間もない金曜日の夕方、僕と小宮さんは吉野さんからビールに誘われ、いっしょに工場を出てバス停に向かった。
 僕たちが入ったのは、スーパーストアの屋上にあるビアガーデンだった。時刻が早かったので空席が多かった。僕たちは東の端に置かれているテーブルについた。
 空はまだ明るく、その屋上からは、小さなビルや民家がつらなる光景が遠くまで見えた。風はほとんどなく、夕方とはいえまだ暑かった。
 僕たちはとりとめのない話題に興じていたが、やがて吉野さんが熱心に語りはじめた。いつもは寡黙な吉野さんが、その日はむしろ饒舌なほどにしゃべった。製品開発のあり方や技術者の生き方。吉野さんのその言葉に、僕と小宮さんは神妙に耳を傾けた。
「小宮さんはボーナスでオーディオ装置を買い替えたでしょ」と僕は言った。「よく考えて買ったつもりでも、使っているうちに不満なところがでてきたり、新しいのを欲しくなったりするんですよね。オーディオに限らないとは思うけど、何年かたったら買い替えたくなるような商品には、どこかに問題があるということですよね」
「高いのを無理して買ったのに、たった5年で買い替えたんだぜ。俺の貯金が減って、古いのをもらう弟が得をするっていうのがいつものパターンなんだよな、俺の場合には」
「良かったじゃないか、いい音が手に入ったうえに、弟を喜ばせることになったんだから」と言って吉野さんはジョッキを取りあげた。
「オーディオだけじゃなくてさ、家庭用の電気製品はなんでも次々に新製品が出るでしょう。なんだか早く買った者が損をするみたいだよね。もうちょっと待てばもっといいものがでてきそうだから」小宮さんがぼやくような言い方をした。
「ボーナスをもらってから、小宮さんはいろんなものを買ったみたいだけど、いいものがでるのを待ってたわけだ」
「俺は待たないよ。待たないで、さっさと楽しむのが俺の主義だからな」
「さっさと、たっぷり楽しんだのなら、その後でもっといいものが出てきても損はしてないはずだけど」
「そういうつもりなんだけどさ、俺の貯金はいつまでたっても増えないんだよな」
 僕たちを笑わせるような口調で言うと、小宮さんは手をのばして枝豆をつかんだ。
「小宮さんの貯金が増えるように、みんなでがんばって、究極の製品を作らなきゃならないね。小宮さんが買い替えなくてもいいように」
「それじゃ松井、さんざん頑張ったあげくに、俺たちは失業することになるぞ」
「究極というのはともかくとして、品物にしろ芸術作品にしろ、何かを作りあげようという人間は、いいものを作ろうと努力してきたんだよ、昔から。進歩とか向上を目指すということは、人間の本質的な性質のひとつじゃないのかな。だから、進歩するのは何も技術製品だけとは限らないだろ。人間は自分たちの文化を向上させ続けるわけだよ」と吉野さんが言った。「さっきの話、技術者の執念のことにしたって、それに通ずることなんだ。執念をもやしている技術者というのは、それをやり遂げたら世の中の役にたつはずだと信じて、身をけづるような努力しているわけだよ」
 その少し前まで、僕たちは技術者の生き方について話し合っていた。そのとき、吉野さんは技術者の執念について語った。大きな価値があるけれども、その実現には困難を伴う課題があった場合に、目的を達成できるかどうかのカギは、それに関わる技術者や研究者の執念にある、というのがその内容だった。
 吉野さんがさらに続けた。「技術者としては嬉しいことだぜ、仕事に執念を燃やせるということは。執念を燃やしながら苦労するわけだけど、それをやってる技術者にとっては、その苦労も生きがいのひとつだろうな。生きがいというのは人それぞれだし、技術者としての生きがいというのも様々のはずだけど」
 吉野さんが話を中断してジョッキを取りあげたので、その間に僕は口をはさんだ。
「発明とか開発とかいっても、組織の中で仕事をする場合が多いでしょう。技術者の執念ということを会社にあてはめると、その開発に会社が執念をもやすということになるんじゃないですか」
「トランジスタもCDも、サラリーマンとしての技術者が、執念をもやして発明したわけだが、開発に対する執念がその会社にあったから、技術者たちがそういう成果をあげることができた、ということは言えるだろうな。だけど、そんなふうに組織の中で開発が進められるにしても、目標に向けて執念を燃やすのは、結局のところは個人だよ」
「創造性の育成も学校教育の重要な役割と、新聞か何かに出ていたけど」と小宮さんが言った。「会社の場合には、創造性を発揮しやすい環境をつくるべきだよね。これからは、品質の良さだけで他の国と競争するのは、あまり得策じゃないらしいから」
「その通りだよ。日本はこれまで以上に、ほんとに独創的な製品をつくりださねばならんわけだよ」
「工業技術や製品にも、日本人が発明したものが随分ありますよね」と僕は言った。
「もちろん、日本人もいろんな物を発明しているけど、これまでのやり方でいいなんて思っていると、大変なことになるかも知れんよ。執念を燃やしている技術者は、世界中にいるんだからな。日本の入学試験は、独創性や研究能力よりも、試験問題を解く能力を重視しているわけだが、いつまでもこんなことをしていたら、日本の将来は困ったことになると思うな」
「どうして、もっと真剣に考えないんだろう。日本の将来を考えなくちゃならない政治家とか、教育者たちは」
「今まではそんなことを考えなくても、輸出できて儲かったからだろ」枝豆を食いながら小宮さんが言った。「会社がいくら儲かっても、俺たち奴隷の生活は良くならんけどな」
「このあいだ小宮さんと話したんだけど、日本人奴隷論というのがあるそうですよ。日本人はアメリカ人などの豊かな生活をささえるために、まるで奴隷みたいに働いている、ということらしいです」
「それは一面的なとらえ方じゃないかな。日本は輸入した原料でいろんな物を作って、それを輸出しているわけだが、輸出先の人達に快適な生活を提供できてこそ、日本から輸出する意味があるんじゃないのかな。だから、日本人を安易に奴隷呼ばわりするのはおかしいと思うよ。日本人ががんばって働いているのに、それが正当に報われていないというのだったら、それはそれとして議論すべきだと思うけどな」
「だからね、松井がリンカーン待望論を言いだしたんですよ」
「なるほどな、リンカーンか」と言って吉野さんは笑顔を見せた。「だけどな、一人のリンカーンをあてにするより、どうしたらいいのか、みんながもっと考えた方が良いと思うな」
「その通り。みんながリンカーンになるべきですよ。このあいだの、おれ達の結論もそうだったよな、松井」
 もともと声量のある小宮さんの声が、ビールのせいで一段と大きくなっていた。
 ふだんは寡黙な吉野さんが饒舌になり、小宮さんは離れた席まで届くような声でしゃべっていた。僕は飲み始めた時から、すでに浮かれた気分になっていた。風はほとんどなかったけれども、すでに暑さは消えていた。西の空にはまだ夕焼けが残した色が漂っていた。
 話題がつきないままに語りあったが、やがて、これでしめ括ろうとでもいうように、吉野さんが僕と小宮さんを励ます言葉を口にした。
 吉野さんの激励に答えるようにして、小宮さんが「あしたは今日の続きだとしてもだ、明日は今日よりも進歩しているんだよな、松井。明日からはほんものの執念を燃やしてがんばろう」と言った。
「何だい、今日と明日って」
「このあいだ松井と話し合ったことの続きです、いまのは」
 小宮さんの言葉をどう受け取ったのか、吉野さんは笑顔でうなずいた。

 長い時間を語り合ったような気がしていたが、スーパーの屋上で過ごした時間は2時間ほどだった。
 笑いながら話に興じたことで、心はすっかりときほぐされていた。酔いに乗じた議論が満足感を残していた。僕の心に強く残っていたのは、吉野さんが熱をこめて語った言葉だった。会社という組織で行動するうえで注意すべきこと。新製品開発のあり方。そして、目標の達成に必要な技術者の執念。
 吉野さんが語った技術者の執念。たしかに、どんなことであれ、夢や願望は、それを成し遂げるまで努力してこそ実現できる。執念がその努力をささえる原動力になるのだろう。自明の理だと言えなくもない言葉だったが、僕にはそれが新鮮なものに聞こえた。僕は思った。このことをしっかりと心にとどめておくことにしよう。そうすれば、どんな目標であれ、それを安易にあきらめるようなことはしないだろう。そしてまた、僕が困難な課題に取り組むような場合には、それをやり遂げる力を引き出してくれることだろう。