バディ! 犬とアイドル、それから事件


 ついに水町さんはボロボロと泣き出した。大粒の涙を流れるままにこぼして、肩を揺らし
てしゃくりあげる。
 ドルーはベンチから立ち上がると、「泣くな」と彼女の頬を伝う涙を手で一生懸命拭った。

「京介、臆病。傷つくの怖いから宮乃から逃げようとしてるだけ。でも宮乃も、やっぱり臆
病。京介に傷つけられたくなくて、逃げてる」
「……そうだよ、わかってるよ。だから離れたんじゃん。一緒にいたらお互い傷つくんだも
ん。馬鹿みたいじゃん、そんなの」

 グズグズと泣き濡れながら話す水町さんは弱々しくて、ドルーはそんな彼女を慰めるよう
に頭を撫でた。

「俺なら逃げない。うんと傷ついても、手や足が動かなくなっても、好きな人のそばから離
れない。逃げて、好きな人と一生会えなくなることの方が死ぬより怖い。だから絶対に逃げ
ないし離れない」
「でも……自分が傷つくのはよくても、相手を傷つけちゃ駄目じゃん。相手が迷惑だって、
そばにいて欲しくないって言ってるのに離れないのは、ドルーさんのわがままじゃん」
「そばにいて欲しくなるように、頑張る。うんと強くなって、賢くなって、いっぱい役に立
つように頑張る。オレは好きな人のためならなんでもする。好きな人が望むオレになる。で
きないことなんかない」

 一切のためらいもなく言いきったドルーの言葉は、俺の胸にも深く響いた。だって、あい
つの言葉には嘘がない。俺と一緒にいたくて、人間にだってなっちゃうんだから。
 ……改めて、ドルーって俺のこと好きだよなあと感じて、鼻の奥がツンと痛くなった。

 そんな真摯な気持ちは水町さんの胸にもなにか響かせたのだろう。彼女は目にいっぱい涙
をためたまま、ドルーを見つめている。その瞳にはもう、怒りや反発は感じられない。

「……は、あはは。ドルーさんヤバいよ、愛が重い。そんなのもう、人生その人に捧げてる
じゃん。その人のために生まれてきたみたい」
「うん。オレはカナタと生きるために、生まれてきたから」

 あ。〝カナタ〟って言っちゃった。
 水町さんは弾かれたように「あははっ!」と笑うと、「やっぱりドルーさんの好きな人っ
て天澤くんだったんだ。そんな気はめっちゃしてた」と、笑顔のまま頬に伝った涙を指で拭
った。

 俺とドルーはあくまで主従というかパートナーなんだけど、明らかに誤解されたな……。
まあ、いい。些細な誤解より、今は水町さんのことだ。
 水町さんはハーッと大きく息を吐きだすと、身を投げ出すようにドスンとベンチに座り直
した。そしてぼんやりと空を眺める彼女の隣に、ドルーも座り直す。

「なんか……気が抜けちゃった。ドルーさんと話してると、ごちゃごちゃ考えてたのが馬鹿
らしくなってくる。……そうだよね。傷つきたくなくて京介さんから逃げたはずなのに、私
ってば今でもメソメソして、やけになってあっちこっちの男の子と遊んで、勝手に傷ついて
る。ばっ……かみたい。あーあ、なにやってんだろ」

 雲がぽっかり浮かぶうららかな空を見上げながら、水町さんはひとりごとのように吐き出
した。そしてククッと笑ってから、「たぶん京介さんも同じだろうなあ。きっとひとりで傷
ついて泣いてる」と、呆れたような苦笑を浮かべた。

 それからふたりはしばらく無言だった。まるで時間が止まってしまったかのようにふたり
は空を眺め続けていて、風に乗って通り過ぎる桜の花びらだけが正常に時を刻んでいるみた
いだった。

 水町さんはバッグからコンパクトミラーを出して「あーあ、ひどい顔」と、すっかりメイ
クの崩れた自分の顔を見て嘆くと、サングラスをかけて目もとを隠した。そしてベンチから
立ち上がると、ドルーを振り返って言う。

「京介さんに会ってくる。もう一回、悪あがきしてみるよ。ドルーさんみたいに人生丸まる
かけられるかはわかんないけど、私、京介さんと生きていきたい。死ぬまでそばにいたい。
今は傷つけ合っても、いつかは『一緒にいてよかった』って言ってもらえるような、そんな
存在になりたい」

 しゃっきりと背筋を伸ばして言った彼女は、いつかのコンサートステージで見た姿とよく
似ていると思った。
 水町さんを見て屈託なく笑うドルーの笑顔が、春の日差しに煌めいている。

「頑張れ、宮乃」
「うん。ありがとうね、ドルーさん」

 吹っ切れたように立ち去った彼女は、一度も振り返らず桜並木の下を歩いていった。途中
で、ペアリングを指に嵌め直しながら。

「おつかれ、ドルー」

 植え込みから立ち上がった俺は、スタジャンにまとわりついた葉っぱを払ってから、ドル
ーの座るベンチに手を掛けた。

「宮乃、京介のところに行った。京介これで元気になるか?」
「んー……どうかなあ。あとは当人同士のことだからなんとも言えないけど……」

 ふたりが絶対にうまくいくなんて保障はない。俺は神様でもなければキューピッドでもな
いんだから。でも。

「たぶん大丈夫じゃないかなあ。水町さん、根性あるし」

 俺はさっきの彼女の姿を思い出していた。まるで紙吹雪のように桜の花びらが舞い散る中
を進んでいく姿は、なんだか春の神様に祝福されているみたいだった。その進む道の先が悲
劇だとは、とても思えない。

「よかった! これでウェンディも元気になる!」

 嬉しそうに笑うドルーの笑顔は、いつものワンコスマイルだ。手を伸ばしてドルーの頭を
なでてやると、そのスマイルがますます屈託なく綻ぶ。

「じゃあ、俺たちもそろそろ帰ろっか」
「うん!」

 勢いよくベンチから立ち上がったドルーは、すぐに俺の隣に並ぶ。犬のときも人のときも
変わらない、一緒に並んで歩くときはここがドルーのポジションだ。

「ところでさ、ドルー的に初デートってどうだった? かわいい女の子と並んで歩くのって、ドルーでもやっぱ嬉しいものなの?」

 遊歩道をのんびりと歩きながら、俺はたわいもないことを口にする。人になっているとき
は異性への関心の対象が人に移るのか犬のままなのか、ちょっと気になっただけだ。
 しかしドルーからは「かわいいって、よくわからない」という想定外の答えが返ってきた。そこからかー。

「かわいいってのは……その子のことを見てるだけでニヤニヤしちゃうとか、ぎゅーって抱
きしめたくなるとか、守ってあげたくなるとか、そういう気持ちになる相手のことだよ」

 それが正解かはわからないけれど、自分なりの解釈で説明してみた。するとドルーは「ふ
ーん」と少し考えた後、俺をじっと見て目を細めた。

「それ、カナタ。オレの〝かわいい〟はカナタだ」
「はぁ!?」

 ニコニコしながら言ったドルーの言葉に、俺は素っ頓狂な声をあげてしまった。
 ……まあ、確かに俺はどちらかというと〝かっこいい〟より〝かわいい〟で売ってるアイ
ドルだけど、でも飼い犬にまで「かわいい」って言われるのは……なんか複雑な気分だな。

「かわいいカナタと一緒に歩くのはすごく嬉しい。だから、これもデートか?」
「いや、これはデートじゃないだろ……」
「なんで? 宮乃と歩くのはデートで、カナタと歩くのはなんで違うんだ?」
「なんでって、デートってのは好きな相手とするもので……」
「カナタのこと大好きだが?」

 歩きながら、俺は考えこむ。ドルーに恋愛感情とそれ以外の愛情の違いを、どう説明すれ
ばいいものかと。
 桜舞い散る、季節は春。換毛期の季節、そして恋の季節。
 いつかドルーも誰かに恋をすれば、〝好き〟の気持ちにいくつもの形があることを知るの
だろうか。そんな彼の成長を見てみたい気持ちと、形は違えどドルーの〝一番好き〟が俺で
はなくなる寂しさが、胸の中でソワソワと同居する。

 ひらひらと舞い落ちてきた桜の花びらが、ドルーの形のいい鼻の先にくっついた。それを
指でつまんで取ってやると、ドルーはくすぐったそうに笑った。

「俺もドルーが一番かわいいし、大好きだよ」

 そう告げた俺を大喜びでぎゅっと抱きしめてきたドルーの体は、春の陽気よりも温かくて、
心地よかった。



 ――ごめん、ドルー。本当にごめん。俺が悪かった。だから死なないでくれ……!

 俺は唇を噛みしめながら何度も心の中で謝った。視界が涙で曇って、ドルーの姿がよく見
えない。
 ドルーは処置室の台の上に力なく横たわり、苦しそうに嘔吐を繰り返している。大嫌いな
注射針を刺されても体がピクリと動くだけで、悲鳴をあげる元気もない。

 泣くばかりでなにもできないまま俺が立ち尽くしていると、処置を終えた院長先生が「天
澤さん」と肩を叩いた。

「やはりぶどう中毒ですね。全部嘔吐させましたが、腎臓がダメージを受けていないか検査
が必要です。吸収してしまった中毒物質は点滴で排泄させることになるので、今日は入院に
なります。よろしいですか?」

 二十四歳にもなって情けなくベソを掻きながら、俺は「お願いします、ドルーを助けてや
ってください……! なんでもしますから、元気なあいつに戻してやってください!」と、
先生に縋りついた。

 ――こんなことになるなら、もっとドルーの言うことを聞いてあげればよかった。
 後悔してももう遅い。過ぎてしまった時間はやり直せない。けれど俺は台の上でぐったり
と横たわっているドルーを見て、心の底から悔やまずにはいられなかった。

 発端は、一ヶ月前のことだった――。


***

「ドルー、こちら飛鳥さんとロミオくん。会ったことあるよな。来週からふたりが散歩に連
れていってくれるから、仲良くするんだぞ」
「よろしくね、ドルー」
「俺は泊まることもあるから。仲良くやろうな、ドルー」

 六月のとある蒸し暑い夜。俺は自宅に招いた飛鳥さんとロミオくんを、ドルーに引き合わ
せていた。
 人好きのドルーは最初こそ訪客にピョンピョン跳ねて喜んでいたが、俺が彼らを「散歩代
理」と紹介した途端、舌を出したままキョトンとした様子で固まった。

「散歩? どういうことだ? 来週からはみんなで散歩?」

 不思議そうに小首を傾げるドルーの質問は、当然俺にしか聞こえない。
 俺は飛鳥さんとロミオくんをリビングに座らせると、「飲み物とってくる」と告げて、ド
ルーと一緒にキッチンの奥へ移動した。

「来週から俺、ドラマの撮影が始まるんだよ。今回出番多いから拘束時間もかなり長くてさ。お前のことしばらく散歩に連れていってあげられる余裕がないんだ。だから俺の代わりに、飛鳥さんとロミオくんがドルーを散歩に連れていってくれるから」
「……なんで?」
「だからー、撮影に入っちゃったら、俺、何時に帰ってこられるかわからないの。深夜どこ
ろか朝方になるかもしれないし、帰ってこられないかもしれない。そうしたらドルーのこと、散歩に連れていってあげられないだろ? だからドラマの撮影が終わるまでの間、俺の代わりに……」
「やだ!」

 ようやく話を理解したドルーは、ワン!とひと吠えして、こちらの言葉を遮った。

「やだ! カナタと散歩行きたい! カナタがいい!」
「だから、それができないから飛鳥さんたちに頼んだの。お前、飛鳥さんとロミオくんのこ
と好きだろ。前に公園で一緒にフリスビーして遊んだとき大喜びしてたじゃん」
「好き! でもカナタのほうがもっと好き! カナタと散歩いきたい!」
「わがまま言うなって。ふたりだって忙しいのに快く引き受けてくれたんだから。それとも
俺の撮影が終わるまで、ペットホテルに預けられた方がいいか?」
「やだやだやだーー!! ペットホテルやだ! カナタに会えなくなるのやだ!」
「じゃあわがまま言わないで。ほんの数ヶ月の辛抱だから、な?」
「やだー! カナタがいい! カナタじゃなきゃダメだー!」

 ついにギャンギャンと鳴きだしたドルーの声に、飛鳥さんが「どうしたー?」とキッチン
まで様子を見にきた。俺は慌てて冷蔵庫から麦茶を出しながら、「なんでもない。ドルーが
おやつ欲しがっちゃって」と適当に濁す。

 飛鳥さんがリビングへ戻っていったのを見届けてから、俺は麦茶をグラスに汲みながら足
もとのドルーに「続きは後でな」と小声で告げた。


 それから二時間後。リードの場所や散歩コース、散歩の際に注意することなどの説明を聞
いて、飛鳥さんとロミオくんは帰っていった。
 こんな面倒な頼みを引き受けてくれて、本当にふたりには頭が上がらない。
 飛鳥さんだってロミオくんだって、もちろん仕事がある。ロミオくんはレギュラーのバラ
エティ番組の収録が曜日固定で入っているし、飛鳥さんは曜日固定のラジオパーソナリティ
ーと舞台の稽古が入っている。それ以外にも単発での取材や、急遽出演依頼が入ることもあ
るだろう。
 それでも、三人でやりくりすれば俺のドラマ収録が済むまで、なんとかホテルやシッター
に頼らなくてもドルーの散歩はこなせるだろうと、ふたりは言ってくれたのだ。……もっと
も、最初は俺が謎の外国人(人間化したドルー)と同棲してると思い込んでいるふたりの誤
解を解く必要があったけど。

 とにもかくにも、ふたりが――特に飛鳥さんがここまで協力してくれるのには、ちょっと
した理由がある。二年前、彼が一時的に仕事と収入がなくなり貯金が底をついたときに、し
ばらくうちへ居候させていたことがあったのだ。それから深夜ドラマがきっかけで人気を取
り戻した飛鳥さんは再び芸能界で食べていけるようになったけれど、彼はそのときの恩を忘
れていない。

 なんとなくその頃から、飛鳥さん、ロミオくん、俺、そして若手俳優やタレントたちの幾
人かは、困ったときは助け合おうという空気になっている。なんたって人気に左右される不
安定な職業だ、いついきなり無収入に陥ったっておかしくはない。飛鳥さんの一件から、俺
たちは助け合いと横との繋がりの大切さを学んだのだ。

 そんなこともあって、今回、飛鳥さんとロミオくんは快くドルーの散歩を引き受けてくれ
たわけだけど……問題はドルー本人が頑として納得しないことだった。

「カナタが仕事忙しいなら、オレも人間になって一緒に仕事行く。それなら散歩しなくてい
い」
「駄目。屋外リポートのロケとは違うんだ。撮影中のスタジオは基本、関係者以外立ち入り
禁止なんだよ。特に今度のドラマの梶監督はなにかと厳しいんだから、友達なんて絶対連れ
ていけないよ」
「じゃあスタジオの外で待ってるから!」
「お前を俺の目の届かない場所で長時間ひとりにさせておくわけにはいかないだろ? な
にかあったらどうするんだよ」
「なにもない! ひとりでも平気だ!」
「怪しまれて警備員に連れていかれちゃったら? もしいきなり犬に戻っちゃったら? 
お腹が減ったりトイレに行きたくなったら?」
「なんとかなる!」
「ならない! 駄目ったら駄目!」

 長い協議の末、ドルーはやりきれない悔しさを遠吠えにして吐き出した。俺は大きくため
息をつき、遠吠えを繰り返すドルーの背中を撫でてやる。

「休みの日にはドッグラン行こう、な? 広場でフリスビーもボール遊びもしよう。それと
も庭にビニールプール出してやろうか。最近暑いから、きっと気持ちいいぞ」

 ぎゅっと抱きしめてやると、ドルーはキューンキューンと悲しそうな鳴き声をあげた。

「……カナタいないと、寂しい。つまんない。悲しい……」
「ごめん。でも俺と一緒に暮らしたいなら、少しだけ我慢して。ね? ドルーはお利口だか
らできるだろ?」
「……我慢、する……」

 しょんぼりとしている体を抱きしめていると、なんだか俺まで悲しくなってきた。これで
も、ドルーには本当に申し訳ないと思っているんだ。けれど現実問題、働かなくてはドルー
を養ってやれない。もっと規則正しい就業時間の仕事に転職することもチラリと頭をかすめ
たけれど、天職だと思っているアイドルを辞めるのも、事務所の社長や四谷さんやお世話に
なった人たちに恩を返せないうちに業界を去るのも、俺は嫌だ。

「大丈夫、寂しくないよ。飛鳥さんもロミオくんもドルーのこといっぱい可愛がってくれる
から。散歩だけじゃなく、時間があればおもちゃでも遊んでくれるってさ」
「うん……」

 とりあえず納得してくれたことに、俺は安堵した。
 たったの四ヶ月だ。ずっと会えないわけでもあるまいし、なんとかなるだろう――そんな
考えは楽観的すぎたことを、このときの俺はまだ知らない。


 連続ドラマ『ファミリーズ』の撮影は、実に難航した。
 血の繋がらない子供と大人がひとつ屋根の下で暮らし、やがて本物の家族になっていくと
いうこのホームドラマは、子供ふたりがメインだ。坊ちゃん刈りがかわいい小学三年生の若
狭琥太郎くんと、サッカーが得意でいかにもわんぱくな小学五年生の薬師丸藍くんのふたり
がW主演で、純真な子供の目を通した家族の絆が見どころになっている。

 琥太郎くんも藍くんも、子供とはいえ芸歴は五年を超えている。いわば、子役のベテラン
だ。だから誰もがふたりの撮影がつまづくとは思っていなかったし、本読みやリハーサルで
もなにも問題はないように見えた。

 しかし、いざ迎えた撮影本番当日。ふたりの芝居はひどいものだった。琥太郎くんは台詞
がまったく入っておらずNG連発、藍くんは気持ちここにあらずといった様子でNG連発。
撮影はまったく進まず、最後には梶監督が怒鳴りつけてふたりが泣き出してしまう事態とな
り、現場の雰囲気は最悪だった。

 そしてメインふたりの撮影が遅れれば、当然そのしわ寄せは他のシーンに来る。子役が撮
影できるのは法律で定められている午後八時までだ。日中は優先して子役の撮影となり、時
間が押せば押すほど大人のシーンは夜にずれ込んでいく。
 琥太郎くんと藍くんと一緒に暮らす兄貴役である俺は、ふたりと撮るシーンも多い。昼に
スタジオ入りして子役とのシーンを撮影、しかしNG連発のため時間ギリギリの夜八時ま
でかかり、その後にようやく大人だけのシーン撮影が始まる。日によって異なるが、撮影が
終わるのは朝方だ。

 つまり俺は正午から翌日の明け方近くまでスタジオに籠っている。休憩時間や待機時間も
もちろんあるけれど、その大体はドラマの宣伝のための撮影や取材にあてられる。

 ――はっきり言って、俺は疲れていた。撮影が始まって二週間。隈を隠すメイクが日々濃
くなっていく。
 今までだって多忙で寝不足になることは何度だってあった。それでも前向きな気持ちでい
られたのは、いい仕事がしたいという思いがあったからだ。けれど今は少し違う。プロとは
言い難い態度の子役ふたりに寄るスケジュールの遅れに、俺は苛立ちを燻らせていた。


「ただいま……」
「おかえり! おかえり、カナタ!」

 午前四時。疲労困憊、テンション最悪で帰ってきた俺に、声を聞きつけて跳び起きたドル
ーが駆け寄ってくる。