「……それで、別れてしまったんですね?」
京介さんは唇を噛みしめて頷き、そのまま顔を上げなかった。ウェンディが足もとでキュ
~ンと小さく鳴いた。
こんなとき俺は、自分が無力なことを痛感する。きっと今、どんな言葉をかけたところで、それは薄っぺらい慰めにしかならないだろう。
ある日突然、目に映る世界をすべて奪われたショックは、当人にしかわからない。たとえ
優しい手が差し伸べられても、その手を取ることが新たな苦しみを生むこともある。きっと
京介さんは視力を失くした日から今日まで、俺の想像もつかないような苦しみを幾つも抱え
てきたんだろうと思うと言葉が出なかった。
「……すみません。急にこんな話しちゃって」
ゆっくりと顔を上げた京介さんは、湿っぽくなってしまった雰囲気を払しょくするように、作った笑みを浮かべていた。俺が「いえ、そんな……」と戸惑いながら口を開いたとき、玄関の開く音が聞こえて「ただいまあ、お待たせ」と蓮美さんが帰ってきた。
それから京介さんはいつもどおり穏やかで落ち着いた様子で、感情的に胸の内を吐露する
ことはなく、時間は過ぎていった。
「今日は押しかけちゃってすみませんでした。でも、ガレット・ブルトンヌ本当においしか
ったです! ごちそうさまでした!」
蓮美さんご自慢のお菓子をたんといただいた俺は、お土産に持たされた柚子のジャムと犬
用おやつを手に、玄関まで見送ってくれた蓮美さんと京介さんとウェンディに挨拶をした。
「いいのよお、またいつでも来てちょうだい」と喜色満面の蓮美さんの手には、さっき俺が
サインした色紙が。ささやかなお礼だ。蓮美さんの後ろに立つ京介さんの顔には、まだ作っ
た笑みが張りついている。
「あら、そうだわ! 今朝とったデコポンもあるのよ、忘れてた! ちょっと待ってね、今
取ってくるからそれも持っていって!」
蓮美さんは手を打ってそう言うと、俺が「おかまいなく」と止める間もなく廊下をパタパ
タと駆けていってしまった。
ふいに静かになってしまった玄関で、俺はウェンディを見つめる。垂れ目に見えるゴールデンレトリバーのウェンディは、とっても優しそうな顔をしている。家にいてハーネスを外しているときはリラックスしているからか、普通の犬と変わらない甘えん坊さんに、俺の目には映った。