迷い犬と思われるそいつを放置して去るのは少々気がかりだったが、今の俺に保護してや
る余裕はない。人懐っこいし、お利口そうだし、たぶんまあ、そのうち誰かが助けてくれる
と思う。
 ……というか、正直、こいつから逃げたいと思った。幻聴だとは分かってるけど、喋る犬
みたいでなんか不気味だ。一緒にいると頭おかしくなりそう。
 ところが。歩きだした俺の後を、当たり前のように犬がついてくる。

「カナ、どこ行くんだ? 遠くか? 歩く? 走る?」
「……」

 背中を向けていてもやっぱり聞こえてくる、犬の声。ゾッと腕に鳥肌が立つ。本当に俺、
どうかしてる。
 ――気のせい、気のせい。これは俺が勝手に聞こえると思い込んでる心の声。そう自分に
言い聞かせ、歩く速度を徐々に上げていく。

「カナと一緒に歩くの嬉しい! オレ、カナと一緒に歩くの大好き!」

 けれど犬はぴったりと後ろについてきて、俺は再びダッシュする羽目になった。

「走るの楽しい! 走るの大好き!」
「あー! あー! 聞こえなーい!」

 耳を両手で塞ぎながら全力で走り、ようやく見えてきたレンガ塀とボーダーフェンスの一
軒家に向かってまっすぐ駆け抜ける。
 そしてぶつかる勢いで門扉を開けると、すぐ後ろをついてきていた犬が入り込まないうち
に慌てて閉めた。

 よし、逃げ切れた!とホッとしたのも束の間、犬は門扉に前足を掛けてガシャンガシャン
と揺すり、清閑な深夜の住宅街にワンワンという大きな鳴き声を響かせる。

「もっと走る! もっと遊ぶ! カナ、もっと遊べ!」
「うるさいって! 近所迷惑だから静かにしろ!」

 あまりの騒音ぶりに俺は思わず門扉の上から顔を出し、犬に向かって叱咤した。すると。

「分かった。静かにする」

 なんと犬は吠えるのをやめただけでなく、門扉から前足を下ろしておとなしく〝おすわり
〟の体勢になった。まるで――俺の言葉を理解したみたいに。

「……まさかね。偶然だって」

 ジッとこちらを見つめておすわりしている犬を、俺は瞬きを繰り返して見つめ返した。
 犬が喋るなんてありえないし、こちらの言葉を理解するのもありえない。疲れた俺の妄想
だってわかってる。
 ……けど。もしも、そうじゃないとしたら?

「ワンコ……お前、俺の言ってること分かるのか?」
「ワンコじゃない! ドルー!」