「ドルー、お菊だ」

 そう言って振り向いたとき、俺の目に映ったのは今まで見たこともない表情を浮かべるド
ルーだった。膝の上で手を硬く握りしめ、震えをこらえるようにギュッと唇を噛みしめてい
る。

「だ……大丈夫か? 具合悪い? 別の部屋で休んでくるか?」

 尋常じゃない様子のドルーにそう声をかけるが、彼は首を横に振ってここから動こうとは
しなかった。いったいなにが起きているのか、俺にはさっぱりわからない。ドルーの感情が
伝染したのか、なんだか俺まで不安な気持ちになってくる。
 たまらない気持ちになって、もう一度声をかけようとしたときだった。

「あらあ……、大きなワンちゃんねえ……」

 寝ていたと思っていた久宝さんがこちらに首を動かし、柔らかな口調で言った。

「え?」

 俺の心臓がドキリと大きく鳴る。こめかみに汗が流れた。
 久宝さんの細めた目が捉えているのは、人間の姿のドルーだ。ちゃんと服を着て、髪を整
えて、姿勢正しく椅子に座っている。どこからどう見ても人間のドルーだ。それなのに――
彼女の目には今、なにが見えている?

 動揺で頭が混乱した。久宝さんにはドルーの本当の姿が見えている? それともまさか、
ドルーが人間に見えているのは俺だけで、他の人には犬のままなのか? いや、そんなはず
はない。
 頭の中がグルグルしてなにも言えないままでいると、やがてスースーと穏やかな寝息が聞
こえた。見ると、久宝さんは目を閉じて眠っていた。

 ……もしかして寝ぼけていたのだろうか。
 なにか夢を見て、うつつとの区別がつかないまま口から零した寝言だったのかもしれない。
とりあえずそう仮定して気分を落ち着かせたとき、玄関の開く音と「ただいま帰りましたー」という声が聞こえた。

「行こう、ドルー。美沙子さんが帰ってきた」

 俺は密かにホッとしながら椅子から立ち上がった。そしてドルーの手を引き連れて、「久
宝さん、お邪魔しました」と挨拶をして部屋から出た。


 それから一ヶ月。俺の休日はほぼ毎回、久宝さんのお見舞いにあてられるようになった。
 理由はふたつ。ひとつは、留守番を引き受けたときの帰り際に美沙子さんが言った「よか
ったら、またいらしてください」に社交辞令以外の思いを感じたから。