けれど久宝さんはまるで美沙子さんの声など聞こえていないかのように、俺に向かって
「タカちゃん、お姉ちゃんは? お元気?」と喋っている。

「ごめんなさいね、お母さん天澤さんのこと幼なじみと勘違いしているみたい」

 申し訳なさそうな笑みを浮かべて、美沙子さんが謝った。それを聞いて俺はたちまち鼻の
奥がツンと痛くなる。
 うちは母方の祖父母は早くに亡くなったし、父方はまだふたりとも元気なので、こういう
体験は初めてだった。脳出血の後遺症、そして長期の入院生活による認知症があると、部屋
に入る前に美沙子さんに聞いたばかりだったのに、いざ久宝さんの記憶から自分が消えてい
たことを知ると胸が張り裂けそうに悲しかった。

 俺はうっかり泣いてしまわないように大げさに微笑んで見せると、久宝さんに向かって
「遅くなってごめんね、久……桜子ちゃん。おかげさまでお姉ちゃんは元気だよ」と〝タカ
ちゃん〟を演じた。

 美沙子さんも四谷さんも驚いた顔を一瞬したけれど、止めなかった。久宝さんは「あらそ
う。タカちゃん遅かったから、みんな帰っちゃったのよ」とニコニコと同じ話を繰り返し、
俺はしばらくの間「ごめんね、待たせちゃって」と〝タカちゃん〟になり続けた。

 そんな時間を過ごしていたときだった。窓のほうからにゃ~んと愛らしい声が聞こえ、途
端に久宝さんの表情が険しくなった。

「また来てる! このドラ猫! あっちへお行き!」

 ガラス越しの猫に向かって、久宝さんは片腕を振り上げ、がなり立てる。それでも猫は部
屋に入りたそうにカリカリと窓に爪を立てていたけれど、久宝さんが吸い飲みを窓に投げつ
けると、音に驚いたように飛び跳ねて逃げていってしまった。

「ああ、いやだ。いやだ。あのドラ猫はうちのおかずをみぃんな持っていっちゃうのよ。意
地汚いドラ猫!」

 俺は顔には出さないようにして、内心驚いた。さっきの猫はどう見てもおかずを盗むよう
なドラ猫には見えない。お洒落な首輪もしてたし毛並みだってフワフワで、どちらかという
と高級な猫のようだった。

 するとこちらの疑問を察知したのか、美沙子さんは床に転がった吸い飲みを拾ってから小
声で俺に告げた。

「お母さんの飼っていた猫なんですけどね。〝お菊〟って名前で可愛がってたのに、お母さ
ん忘れちゃったみたいで……」