LOGICAL PURENESS―秀才は初恋を理論する―

 理仁くんがパンパンと手を打った。
「ま、とりあえず、仕切り直し。海ちゃんいじるのはこのへんにして、先のこと考えよっか。まずは現状確認。上から落ちてきたんだとしても、上には戻れそうにないね」
 理仁くんは上を指差した。果てを視認できないほど、天井が高い。円筒形の部屋。深い井戸の底みたいだ。
「で、ドアがいくつか見えるけど。現実的に言って、くぐれるドアはないっぽい」
 壁の上のほうにあるドアは、そこへよじ登るための取っ掛かりがない。無理なく開けられる高さにあるドアは、ずいぶん小さい。
「持ってくべきアイテムは、たぶんこれ。部屋の真ん中に落ちてた。でも、姉貴の趣味じゃないね。お坊ちゃんが用意したんだと思う」
 理仁くんが胸ポケットから出したのは、懐中時計のようなものだ。本体も鎖もゴールドでできていて、キラキラした石があちこちに埋め込まれ、バラの模様が彫刻されている。
 数字も目盛もない文字盤をのぞき込むと、針は一本きりだった。文字盤は大半がゴールドだけど、十二時から一時の部分は真っ黒だ。
「十二時の位置から動き出したところでしょうか。進んだ角度は約三十度、今は一時の位置を差してますね」
「海ちゃん、分度器なしで三十度とか、わかる?」
「この程度は、誰でも目測でわかりません?」
 理仁くんは首を左右に振った。
「無理無理。力学《フィジックス》の視界だから、今はわかるけど。あ、ちょうど三十度になった。これさ、海ちゃんの言うとおりで、たぶん〇度のとこからスタートしたんだよ。おれが見てたのは四.五度のとこから」
「針が進んだ後ろ側が暗転しているんですね」
「そうみたい。この黒い部分さ、針が進むのに合わせて、影みたいに、じわじわついてきて広がってんの」
 鈴蘭さんが、服の上から青獣珠に触れながら、眉をひそめた。
「タイムリミットを示してるように感じますね。針が一周して、文字盤全体が暗転したらおしまい、って」
 異物を侵入させたリアさんのココロのタイムリミットか。他人のココロに閉じ込められたぼくたちのタイムリミットか。いずれにしても、この直感はきっと正しい。玄獣珠がうなずく気配がある。
 煥くんが眉間にしわを寄せた。
「この部屋から出て、先に進みたい。けど、ヒントも何もない。しかも、ここはリアさんのココロの中だろ? 部屋に傷を付けるのもまずい気がする」
 不意に。
 パタン、と音がした。扉が閉まる音だ。
 全員、音のほうを向く。
「あ、イヌワシのぬいぐるみ」
 リアさんと初めて会ったとき、ゲーセンで取ったぬいぐるみだ。黒い翼に緑色がかった目、不敵な笑み、チェック柄のタキシード。リアさんが妙に気に入っていた。ぼくに似ているなんて言っていた。
 ぬいぐるみが動いている。思いがけず広い翼を広げて、ふわりと宙に浮いている。浮いているだけだ。あの形状では、羽ばたいて飛ぶには物理学的に不可能だから。
 イヌワシが翼をクイクイと動かした。手招きしているように見えた。
【道案内?】
 イヌワシがうなずいた。
 鈴蘭さんが真っ先にイヌワシに近付こうとした。煥くんが腕をつかむ。
「ついて行くのか?」
「はい。大丈夫だと思います。あのぬいぐるみ、かわいいし」
 かわいいかどうかは、この際、関係ない。というか、あれはかわいくないと思う。
 煥くんが鈴蘭さんの先に立った。理仁くんがぼくを振り返った。
「あの鳥さん、もしかして海ちゃん絡み?」
「ええ、一応」
「あっそ」
「どうかしました?」
「こないだ、姉貴が珍しくぬいぐるみなんか持ってて、出所を訊いたんだけど、教えてくれなかった。あのゲーセンデートの思い出の品ってわけ。なるほどね~、姉貴が妙に機嫌よかったわけだゎ~」
 語弊のある言い方をして、理仁くんは歩き出した。ぼくは理仁くんに並んだ。
「ぼくと同じ立場なら、男は誰でも同じことしましたよ。美人が不良にナンパされてたら、助けるでしょう? その美人に、時間つぶしに付き合ってと言われたら、応じるでしょう? ぬいぐるみを取ってほしいとリクエストされたら……」
「リア充爆発しろ~。って、ダジャレのつもりないんだけど」
 イヌワシが振り向いて、理仁くんをにらんだ。
 部屋の壁は木製タイルでできている。イヌワシは、その一角に飛んでいって、タイルを押した。
 タイル四枚ぶんの正方形が隠し扉になっていた。正方形は、一辺が約800mm。扉と呼ぶには狭いけど、通れなくはない。
 イヌワシが最初に隠し扉を抜けた。のぞき込むと、トンネル状になっているらしい。さほど奥行きはなく、抜け出た先は明るいようだ。
 煥くんがイヌワシに続いてトンネルをくぐった。向こうにたどり着いて、問題ない、と声を寄越す。
 鈴蘭さんと理仁くんも向こう側へ行った。ぼくが最後にトンネルに入る。
 四つん這いの姿勢で、すぐ目の前に光が見えている。その割に、長い。
 ――海牙くん。
 遠くて近いどこかから、声が聞こえる。ココロへ落ちて潜ってくる途中で聞いた声だ。
【リアさん】
 呼び掛けてみる。返事はない。ただ、ぼくの名前を呼ぶ声だけが聞こえる。
 ――海牙くん。
 ぼくで、いいんですか? 弟である理仁くんじゃなく、ぼくを、呼んでくれるんですか?
 ぼくにあなたの声が聞こえるように、あなたにも、ぼくの声が聞こえていますか?
 青空が広がっていた。青草が生える丘の上だ。一本の大木が枝を広げて、涼やかな影を落としている。
 ぼくがトンネルを抜けて丘に立つと、イヌワシは隠し扉を閉ざした。そこには何の痕跡もなくなった。イヌワシは理仁くんの肩に止まった。ぼくの肩じゃないのか。
 心地よい風が渡っている。
 丘のふもとから、女の子と犬が、じゃれ合いながら駆け上がってきた。水色のワンピース姿の女の子は十歳くらいだろうか。大型犬は焦げ茶色で毛足が長く、耳が垂れている。
「姉貴だ、あれ」
 言われなくても、気付いていた。短めの髪が活動的で、よく日に焼けている。屈託のない笑顔がまぶしいくらいの、幼い日のリアさんだ。
 木陰に至った彼女は、ぼくたちにチラリと手を振った。
 丘の景色には音がなかった。風が吹くのも、木の葉がそよぐのも、彼女が笑うのも、犬が息をするのも、すべてが無音だ。
 ただ、ぼくたち四人がたてる音だけが聞こえる。身じろぎをした、きぬずれの音。理仁くんがくすぐったそうな目をして、つぶやいた言葉。
「姉貴の九歳か十歳のころ、だと思う。親父の仕事の関係で、フランスのいなかに住んでたんだ。この犬、そのころ飼ってたやつ。けっこうデカいけど、まだ大人じゃなくてね。成犬と比べたら、やっぱ華奢な体つきしてるし、顔があどけないよ」
 鈴蘭さんが、女の子と犬を見つめて目を細めた。
「ワンちゃんの名前、何ていうんですか?」
「キキ。ほら、めっちゃ嬉しそうな、嬉々とした顔してるから。姉貴はキキのこと、大好きだったらしい。おれはこのころ、一歳か二歳だから、キキのことは全然覚えてねーや。住んでた場所の風景とかは、いくつか記憶にあるけど」
 キキを覚えていない、という言葉に、ぼくは不吉な違和感を覚えた。
「長生きしなかったんですか? 大型犬って、十年くらいは生きるでしょう?」
 理仁くんは、たわむれる一人と一頭を見つめている。口元は、例によって、本物ではない形に笑っている。
「キキは、姉貴が十歳のときに死んだ。てか、殺された。だからたぶん、この思い出も、ここじゃ終わんないよ」
 ピクリと、キキが耳を動かした。誰かに呼ばれたんだろうか。キキは立ち上がって歩き出す。どこに行くの、と彼女の口が動いた。
 突然、ゴウッと音がした。空間が裂けた音だ。青空の情景を突き破って、巨大な両手が現れた。
 キキはそっちへ向かっている。彼女はキキを追い掛けようとした。
 素早く飛び出した煥くんが彼女の小さな体を引き留めた。
「何だ、あれは?」
 キキは巨大な両手の間でお座りをして、パタパタと尻尾を振った。右手の人差し指がキキの頭を撫でる。骨張った関節の形からして、男の手だ。左手の薬指には、ひどく目立つ金色の指輪がある。
 理仁くんが吐き捨てた。
「うちの親父の手だよ」
 両手は、キキを包み込むようにして抱え上げた。焦げ茶色の毛並みがすっぽりと隠れてしまう。
 そして、そのまま、両手はキキを握りしめた。
 音が鳴った。骨が砕け、肉がつぶれ、血があふれ出る音。
 鈴蘭さんが短い悲鳴を上げた。理仁くんがこぶしで自分の太ももを打った。
【どうしてこんな……】
 呆然とした煥くんの手を、彼女が振り払う。泣き叫ぶ声は、ぼくたちの耳には聞こえない。駆け出そうとする彼女を、我に返った煥くんがつかまえる。
 巨大な手に、指輪が一つ増えた。血濡れた指先が満足そうに指輪をなぞる。
 丘のふもとから、駆けてくるものがある。動物たちだ。犬が数頭、猫も数匹、フェレット、ハムスター、トカゲ。金魚や熱帯魚の群れも、宙を泳いでやって来る。
【来ちゃダメだ!】
 ぼくの声に、数秒間、動物たちが止まる。焦れたように、両手が「おいでおいで」と手招きをする。動物たちが再び動き出す。
 来ないで、来ちゃダメ、と彼女が叫んでいる。
 動物たちは次々と、巨大な手のひらの上に乗った。動物たちが乗れば乗るほど、手のひらが広くなっていく。青草の原っぱに落ちる影も広く、黒々と濃くなっていく。
 ぼくは体が動かなかった。
 すべての動物が乗った手のひらが、あっけなく、パシンと閉じ合わされた。
 赤いものがしたたる。ぼたぼた、ぼたぼたと。丘の緑は赤く濡れた。汚れた両手のすべての指に、宝石細工の指輪がはまった。
【どうして?】
「前、チラッと話したでしょ? おれの親父、あのお坊ちゃんみたいなやつだって。朱獣珠を使いまくってさ、願いをかけて、金儲けして。願いの代償としていちばん優秀なモノが何かって、今のを見てたら、わかるよね?」
【命……】
「そう、おれと姉貴が大事にかわいがってた動物たちの命。別にね、その現場を目撃してたわけじゃないよ。でも、わかるじゃん? 朱獣珠もSOS出したかったみたいで、ある時期から、予知夢みたいな形でおれに見せるようになったしさ」
 玄獣珠の鼓動が速い。朱獣珠が、忌まわしい記憶に苦悶しているせいだ。同期した四獣珠の鼓動は、ぼくたちに一つの真理を告げる。
 願いの代償として最も重いものは、命。そして、それが喪われるときに流される涙。あるいは、燃やされる怒り。四獣珠は本質的に、命を食らうことを何よりも忌み嫌う。
「親父は動物がいなくなるたびに、また次のを買ってきた。おれも姉貴もさ、動物、好きなんだ。この子もまたすぐに殺されるってわかってても、無理だよね。かわいがって、すげーつらい思いをする。あったかい喜びの思い出には、いつも、つらい結末が付いてくる」
 鈴蘭さんの頬が涙で濡れている。
「残酷です、こんなの」
 ゴウッと音がする。再び空間が裂けて、指輪だらけの血濡れの両手が引っ込んでいく。
 理仁くんは、青すぎる空を仰いだ。
「死んだ動物の名前も顔も性格も思い出も、全部、覚えてるよ。苦しくてさ、おれも姉貴も、だんだん泣けなくなった。もういっそ自分たちも死のうかって、何度も、何度もさ、カッターナイフ持ってきて、自分の体を傷付けてみたんだよ」
 小さな彼女がふらりと歩き出す。その数歩先の空中に、凶暴そうに輝くものがある。包丁ほどのサイズがありそうなカッターナイフだ。
【ダメです、リアさん!】
 カッターナイフが、あどけない少女の頬を切り裂いた。血が流れる。
「やめろ!」
 煥くんがカッターナイフを打ち落とした。ジュッと音をたてて、カッターナイフは消滅する。でも、別の方向から別のカッターナイフが飛んできて、彼女に切り掛かる。
 鈴蘭さんが青草に膝を突いて、彼女を抱き寄せた。
「ダメ、やめてってば!」
 理仁くんは、うつろな目にカッターナイフを映している。
「姉貴のほうが、おれより傷付いてた。ガキのおれがするより強く、自分を傷付けてた。これが姉貴の記憶なら、カッター奪うの無理だよ。ほんと怖くなるほど深く切ってたから」
 煥くんが顔をしかめた。泣き出しそうな顔に見えた。
 駅前広場でのライヴの後、騒動があってリアさんがケガをしたとき、ぼくもリアさんの古傷を目撃した。あの傷は、本来ならいだく必要もない罪悪感の証だったのか。
 カッターナイフは、彼女を抱きしめる鈴蘭さんを避けて、正確に彼女だけを傷付ける。
 青い空、緑の丘、動物たちが生きていた痕跡の赤黒い液体。ぼくは、どうすることもできずにいる。だって、どうすることができる?
 リアさんの記憶を見せられて、過去を知って、小さな彼女を守りたいのに、どうすればいいのかわからない。
 理仁くんが懐中時計に目を落とした。
「時間がねぇよ。先に進んだほうがいい」
 言葉に反応して、イヌワシがふわりと飛び上がった。彼が向かう先、丘に立つ大木に、いつの間にか扉がうがたれている。
 鈴蘭さんが顔を上げた。
「わたしはここに残ります」
 理仁くんが目を見張った。
「何で?」
「リアさんのこと、一人にできません。小さいころの思い出では、一人だったんでしょう? そんなの、苦しすぎるじゃないですか。リアさんにとって気休めにしかならないとしても、気休めにもならないかもしれないけど、わたし、ここに残ります」
 鈴蘭さんはニッコリした。その全身が、淡く青い光をまとい始める。光は、うつろな目をした幼いリアさんをも包んでいく。
「大丈夫よ。もう痛くないから。あなたの痛み、わたしが引き受ける。あなたの傷、わたしが治してあげる」
 カッターナイフが傷を付けるたびに、青い光が傷を癒す。
「あれは、鈴蘭さんのチカラ……」
 ぼくの言葉に、煥くんがうなずいた。
「傷の痛みを引き受けることで、その傷を治すんだ。だから、治せる傷は、その痛みを引き受けられる範囲だけ。痛ぇはずなんだよ、今。あいつ、リアさんに笑ってやってるけど」
 何で、と理仁くんが繰り返した。不思議そうな表情は、今まででいちばん幼く見えた。
 鈴蘭さんが、目尻に涙のにじむ笑顔で答えた。
「リアさん、ずっと痛かったんでしょう? ペットちゃんたちのことは喜びの記憶で、大切だったはずです。痛くても、いつも思い出してたんですよね? だから、こんなふうに鮮やかに覚えてる。わたしも一緒に、この記憶を大切にしてあげたいんです」
 幼いリアさんが、か細い泣き声をあげた。小さな手が鈴蘭さんにしがみ付いた。カッターナイフはその手を襲う。青い光が傷を癒す。
 鈴蘭さんが優しく言った。
「わたしはここに残ります。三人で先に進んでください。わたしのチカラにも限りがあるから、できるだけ早く。みんなで助かりましょう? だから、行ってください。お願いします」
 理仁くんが、ゆっくりうなずいて、ぎこちなく微笑んだ。
「ありがと」
 鈴蘭さんは笑顔でうなずき返した。
 幼い泣き声は大きくなっていく。切なくて、聞いていられなかった。
 ぼくはリアさんのことを何も知らない。知ってみたいとか、近付きたいとか、そんな願いをぼくがいだくのは、思い上がりなんだろうか。
 彼女のココロの奥へと、また一つ、駒を進める。彼女が耐えてきた苦しみを、また一つ、ぼくは知ることになる。
 扉をくぐると、薄暗い螺旋《らせん》階段が下へと伸びていた。くすんだ色をした空間だ。セピア色と呼ぶには、少し色味が強い。
 螺旋階段の手すりの外側には、ガラスのショーケースが、延々とはるか下まで並べられている。埃を被ったそれらの中身は、女児向けの玩具の着せ替え人形だ。
 階段に足を踏み出そうとした理仁《りひと》くんを、煥《あきら》くんが止めた。
「オレが先に行く。あんたはまだ足下がおぼつかないだろ」
「落ちても、あっきーが助けてくれるって? イケメンだね~」
 おどけた口調は、明らかに空元気だ。声がかすれている。リアさんのあんな記憶をのぞいて、理仁くんが平然としていられるはずもない。
 煥くんも、理仁くんの空元気を痛々しく感じたらしい。
「泣きたけりゃ泣けよ」
 理仁くんは手すりをつかんで歩き出した。
「そういうセリフは、女の子に言ってやんなよ。おれはもう平気。今までさんざん泣いてきたから。てか、おれがセリフ言いたい側だゎ。姉貴って、おれの前では絶対に泣かないから」
 足音もなく先頭を進みながら、煥くんは自分の銀色の髪をクシャクシャにした。
「弟の面倒見なきゃいけない人間は、そういうもんだろ。オレの兄貴も無駄に辛抱強い。絶対、オレには弱音吐かねぇし」
 ぼくは最後尾から問い掛ける。
「文徳《ふみのり》くんでしたっけ。煥くんのおにいさん」
「ああ、文徳っていう。うちのバンドのギタリストでバンマスで、オレを無理やりステージに引っ張り出した人。オレは人前に立とうなんて思ったこともなかったのに」
 理仁くんがうなずく。
「文徳も、まあ、姉貴と近いタイプかもね。度胸よくて、堂々としてて、面倒見がよくて。その理由が、頼りない弟を守るため、だもんな~」
【頼りない弟?】
 煥くんが、ささやいているのによく通る声で、淡々と言った。
「オレが小学生のころ、両親が死んだ。ふさぎ込んでたオレを救ってくれたのは兄貴だ。本人には言えねぇけど、感謝してる」
 階段の両側に連なるショーケースを、見るともなしに見る。
 着せ替え人形が林立している。金髪の少女人形。いろんな服を着て、いろんなポーズで、たたずんでいる。
 ときどき、違うタイプの少女人形がある。ぬいぐるみも交じっていて、そのほとんどがうさぎだ。ドールハウスが入ったショーケースもあった。
 階段をさらに下りていくと、人形のゾーンが終わって、幼女のマネキンが並ぶゾーンに入った。子供服がずらりと展示されている。
 すそがふわりと広がったドレス。小学生サイズのフォーマルウェア。バレエの衣装みたいな白いチュチュ。何かの舞台で使ったのかもしれない、妖精の羽が付いたワンピース。
 ショーケースの中身は古ぼけている。さっきの丘の情景が鮮やかな色をしていたのとは対照的だ。
「姉貴が大事にしてたおもちゃや服だ。でも、捨てなきゃいけなかったからね」
 ポツリと、理仁くんがこぼした。あいづちも打てないぼくと煥くんに、理仁くんはポツポツと語る。
「うちの財産、増えたり減ったりのアップダウンすごくて、引っ越しも多くて、だいぶいろいろ捨てた。まあ、ほとんど捨てたね。今、実家の中を探しても、何も出てこないよ。思い出系のもの、何も。姉貴はここにしまい込んでたんだ」
 誰の思い出でも、可視化したら、こんなふうに陳列されるんだろうか。ぼくだったら、何が並ぶんだろう?
 ボロボロになるまで読み込んだ科学図鑑。五千個ほどピースを持っていたブロック玩具。唐突に両親が買ってくれた、かなり高価な天体望遠鏡。モーターから羽の成形まで、徹底的に自作したドローン。
 夢中になれるものは、ほんの少しだった。無関心と集中状態のギャップが激しすぎて、異常な行動も多かったみたいだ。両親は、ぼくが異能を持つ特殊な子どもだと理解していたけれど、それでも扱いに困って、何度もぼくを病院に連れていった。
 両親は平凡で善良な人たちだ。預かり手の家系に連なる末端の傍流で、まさかこの家から次代の預かり手が生まれるとは、本家の人々は想像もしていなかったらしい。前代はぼくの曽祖父に当たる人らしいが、ぼくが生まれた日に死んだ。
 高校入学と同時に家を離れて以来、一度も帰省していない。両親と仲が悪いつもりはない。でも、ぼくが同じ家にいてもあの人たちは困るんじゃないか、と思う。
 少なくとも、両親は、ぼくの学業成績のよさを持て余していた。親戚との会話の中で、雲の上にいるみたいな子、と母が笑いながら言っていた。父も同意していた。あの一言が忘れられない。両親に突き放されたように感じた。自分は捨て子なんじゃないかと思った。
 螺旋階段を下りる。どんどん下りていく。
 またショーケースの様相が変わった。小さな刷毛《はけ》や細いペンが丁寧に並べられている。その正体が、最初はわからなかった。
「メイク道具ですか?」
「海ちゃん、何で疑問形?」
「あまり見る機会がありませんから」
「そういやそっか。大都高校って男子校だし、親元離れてるし、自供を信じるなら、彼女もいないわけだし」
 煥くんがフォローを入れてくれた。
「オレもわからなかったぞ。ファンデーション? のコンパクトを見て、やっとわかった」
「あっきーもそんなもんか~。ま、鈴蘭ちゃんは化粧してないしね」
「どうしてそこで鈴蘭の名前が出てくる?」
 煥くんは心底不思議そうだ。鈴蘭さんの恋路は、きっと険しくて長い。
「姉貴がメイクに手ぇ出したの、割と早かったと思うよ。髪をいじったり染めたり切ったりもしてた。変身願望があったんだって。で、その延長線上で美容師免許を取った」
 首から上だけのマネキンが並んでいる。いろんな髪型、髪の色。このゾーンは、着せ替え人形や子供服のゾーンより色味が強い。
「リアさんの顔を最初に見たとき、化粧が上手だと思いました。顔立ちの左右の誤差をうまく修正している。ぼくなりに、顔のパーツの座標には理想値があるんです。それにかなり近い値でしたね。化粧する前から、もともと、いい感じの値の持ち主なんでしょうけど」
 つまり、と煥くんが要約した。
「好みの顔だったってことか?」
 一瞬、息を吸おうとしたのか吐こうとしたのか、混乱した。その結果、ゴホッと咳き込む。
「ちょ、な、何でそういう……」
「違うのか?」
「違いま……せんけど、いや、何かちょっと途中経過が省略されすぎている気がしますが」
 好みの顔。
 そうだったのか。リアさんを美人だとは思っていたけど、それ以上だったのか。だから、最初からあんなに印象が強かったのか。
 理仁くんが喉を鳴らして笑った。
「おれ見たらわかると思うけど、姉貴も素で美形だよ? 化粧落としても、ちゃんと目がデカいし、まつげ濃いし。キリッとしたとこだけ、なくなる感じ。二重の幅が広いから、ふわっとして、ちょい眠そうな顔になる」
「別に、そういう説明をしてもらう必要はないと思うんですが」
「それなりに前説があったほうがよくない?」
「何の前説ですか?」
「え、そりゃ、そーいう夜を過ごすことになった場合の」
【そーいう夜って生まれたままの化粧も覆いもない姿で愛を情熱を欲……】
 シャットダウン!
 ぼくは顔の熱さを無視して、冷静なふりをした。
「地雷を踏みましたが、止め方も覚えました」
「みたいね~。そもそも、あんまり声を洩らさなくなったよね。あっきーの『好みの顔』発言で暴発するんじゃないかと期待したけど」
 いちいち聞かれてたまるものか。
 メイク道具とヘアスタイルのゾーンを抜けると、階段が尽きた。くすんだ色のドアがある。
 イヌワシがドアノブを翼で示した。煥くんがドアノブに手を掛けて、回した。鍵もかかっていない。
 ドアを開けると、長い長い廊下だった。はるか向こうにドアがある。
 廊下は、壁にも天井にも、ランダムに人物写真が貼り付けられている。赤ん坊、幼児、小学生、中学生、高校生。年齢はバラバラだけど、彼の正体は見間違いようもない。
「おれ、だ……」
 圧倒されたように、理仁くんが後ずさった。朱い目を、じっと凝らしている。
 煥くんが先に立って歩き出した。
「すげぇな、この数。さっきの階段の人形の比じゃねえ。何枚あるんだか」
 理仁くんが、ため息をつくように言った。
「19,419枚」
「枚数、見えましたか?」
「重なって下敷きになってるやつもあるけどね。表に見えてるぶんだけで、19,419枚」
 理仁くんは下を向いて歩き出した。ぼくは彼の隣を歩く。
 写真は、笑顔が多い。キョトンとした表情もある。素直な表情を撮影してあるんだと感じた。
「きみが生まれてから今まで、一日約三枚のペースですね」
 理仁くんが力なく笑った。
「この空間、めっちゃキツい。おればっかじゃん。姉貴の影もなくて、ほんとにおれだけ。おれ、どんだけ姉貴の中のスペース食ってるわけ? 何でこんな……おれの存在、重すぎんだろ? どこまで重たいお荷物だよ?」
 泣き出してもおかしくない自虐を口にしながら、理仁くんは笑っている。ぼくの前にいる理仁くんは、写真の中の彼とは違う。
 煥くんが足を止めた。自然と、理仁くんもぼくも立ち止まった。
「オレには、実の姉はいない。でも、姉と呼んでいいくらいの幼なじみがいる。兄貴の彼女なんだけど、飯作ってくれたり、服選んでくれたり、面倒見てくれる人だ」
 向き合って立つ。煥くんがぼくたちより背が低いことを思い出した。
「文徳の彼女って、瑪都流《バァトル》のベーシストちゃんだよね。イケメン女子ってんで、女の子からの人気すごいけど、面倒見いいんだね~」
 煥くんが琥珀色の目で理仁くんをにらんだ。
「無理して笑うなって言ってんだ。ここにある写真みたいに、普通に笑えるときに笑え。姉っていう人は、弟には想像もつかないくらい、わかってる。背負ってくれてる。だから、背負われろよ。姉っていう人をいたわるのは、弟じゃない男だ」
「痛ってぇな~。それ言われると、すげぇ痛い。正しすぎて、何も言えないね」
 理仁くんは、へたり込むように、しゃがんで下を向いた。リアさんと同じ色の髪。その頭の上に、イヌワシが肩から移動していった。
「兄貴と、姉貴みたいな人と。年上だからって、その二人に背負われるのは、オレも心苦しかった。だけど……」
「あー、うん、わかってる。ここは素直になったがいいのは、わかってる。甘えりゃいいんだってことは重々承知。姉貴がそれを望んでんだってことくらい、わかってるつもりなんだけど」
 ぼくは理仁くんの頭上からイヌワシを抱え上げた。軽い。質感も質量も、まるっきりぬいぐるみだ。
「弟としてではなく、別の関係で、リアさんと出会いたかったですか?」
 即答が来た。
「絶対無理」
「無理って、どうして?」
「あんな強烈な女、他人だったら絶対無理」
「そんな言い方は……」
「海ちゃん、すげぇ度胸あるよ。よくあんな強烈な人、女として見れるね~」
「いやあの何をまた……」
 イヌワシがぼくの手を抜け出して、理仁くんの頭を翼で打った。リアさんのナイトのような存在なんだろうか。ぼくが贈ったぬいぐるみが?
 理仁くんが立ち上がって、顔も上げた。脱力した感じに笑っている。
 長い廊下を行く間、ほとんど無言だった。次の部屋への扉に至る直前、唐突に理仁くんが言った。
「あっきー、さっきの話だけどさ。姉をいたわる男は弟じゃない、っての」
「ああ」
「謎が解けた感じがした。おれと姉貴の関係、ちゃんと見えた。サンキュ」
 話はそこで途切れた。
 煥くんが、次の扉を開けた。
 扉の向こうは白い廊下だった。病院だ。白いリノリウムの床に、道案内のカラフルな矢印が描かれている。
 理仁くんがピンク色の矢印を指差した。
「入院病棟だよ。おれらが向かう先」
 イヌワシとともに、理仁くんが先頭を歩き出した。
 角を曲がると、リアさんが立っていた。白いパンツスーツ姿で、キッチリと髪をまとめている。
「二年くらい前の姉貴だ。あのスーツ、病院に行くときはよく着てた」
 リアさんは、一つの病室の扉をにらんでいた。何かをつぶやく形に唇が動くけれど、音は聞こえない。病室の表札を平手で叩いて、こちらに背を向けて歩き出す。ハイヒールの早足で、白い廊下を遠ざかっていく。
 煥くんが理仁くんに訊いた。
「誰が入院してんだ?」
「おふくろ」
「病気か?」
「植物状態ってやつ。問題なく生命活動してるし、目も開いてるし、座らせたり立たせたりもできるんだけど、意識が戻らないんだよね。病気が原因でも事故の後遺症でもなく、そんなふうになっちゃってさ~。ね、朱獣珠?」
 不吉に速いリズムで、朱獣珠が脈打っている。そこに同期した玄獣珠も、おそらく白獣珠も、身震いをしている。
 朱獣珠が訴える。
 ――いくつもの命を手に掛けた。人の命さえ手に掛けそうになった。
 ――苦痛。禁忌。罪悪。
 ――しかし、如何ともできない。
 願われて代償を与えられたら、条件を成立させねばならない。宝珠の宿命にとらわれた朱獣珠が哀れだ。
 リアさんを追って歩き出しながら、理仁くんは笑った。乾いた笑いは、つらければつらいほど出てくるんだろう。
「確かに代償として、おふくろはこんなふうになった。でも、親父が願ったわけじゃねぇんだゎ。おふくろ本人なの。学園経営がすげー財政難に陥ってさ、そしたら、おふくろ、自分で願った。自分の身はどうなってもいいから、って」
 なぜ? 自分を犠牲にしてまでも財産を守りたかった?
 理仁くんは懐中時計を取り出して、文字盤に視線を落とした。ぼくの位置からも文字盤が見えた。半分以上が暗転していた。
 煥くんが遠慮のない口調で言った。
「母親、自殺か?」
 理仁くんが肩をすくめた。
「かもね。でも、朱獣珠は命を奪わなかった。こいつ、平和主義者だから、本能的にそれを回避したんだと思うよ。命を奪わずに済む範囲でしか、願いを叶えなかった。で、おふくろは、五十歳の眠り姫ってわけ」
【絶望? 強迫観念? 刷り込み?】
「たぶん、全部だね。あんなのが旦那だったら絶望するし、次の代償を探さなきゃって強迫観念もあっただろうし、生活に困ったら何かを代償にって刷り込まれてただろうし」
 理仁くんの母親は怯《おび》えていたんだろうか。ペットの次に夫に殺されるのは自分だ、と。
 それとも、望んでいたんだろうか。どんな形でもいいから早く夫から解放されたい、と。
「理仁の母親は、理仁やリアさんを連れて逃げようとはしなかったのか?」
 ぼくもそれを思った。でも、できなかったんだろうという想像もつく。一般的な家庭内暴力であっても、配偶者から逃げ出せる被害者は少ない。
 理仁くんが肩をすくめた。
「平井のおっちゃんが言ってたんだけどさ。運命は、可能性の枝をたくさん持つ樹みたいなもんだ。でも、枝分かれのポイントは限定されてる。どうあがいても変わらない部分もある。親父が腐ってんのは、変わらない部分。おふくろが弱いのもそう。宿命って呼ぶんだって」
「別の一枝も同じなのか?」
「あっきー、何でそんなん訊くの?」
「平穏なのが宿命の枝があれば、そっちに行きゃいい。見てくるだけでも、気分、違うだろ」
 煥くん自身がそうしたいのかもしれない。よその一枝の自分が、この自分より幸せであるなら。入れ替わりたいわけではなく、ただ見てみたい。その言葉はキレイだ。
 でも。
「そんな一枝は、ないに等しいと思いますよ」
 総統から聞いた話のほうが説得力がある。
「ないって、海ちゃん、何で?」
「平和な自分を本当に見てしまったら、入れ替わりを望みますよ。結果、対象の二本の枝は生長を阻害し合う。入れ替わりではなく、呑み込みが起こる。あるいは、両方の枝がともに消滅してしまう」
 そもそも、平和な一枝の存在確率はきわめて低い。多数にあるという一枝は、もとは一本からのクローンだ。同じ宿命を持ち得る可能性のほうが圧倒的に高い。
 煥くんが、ふっと息を吐いた。笑いを洩らしたらしい。
「希望を持たせねぇんだな。あんたらしくて、かえって安心する」
 煥くんの言葉に、ぼくも少し笑った。
「宝珠のチカラを使えば、一枝に干渉できるでしょうね。別の一枝を引き寄せたり、この一枝の過去に戻ったり。でも、そこでぼくたちのできることは、壊すことだけですよ。万物は法則性と均衡の上に成り立っている。それを壊すだけが、強すぎるチカラの宿命です」
 だよね~、と理仁くんが抑揚もなく言った。
 ぼくたちとリアさんとの距離が縮まらない。途中からぼくたちは小走りになっていた。それでも追い付けない。同じ空間を、ぐるぐると回っている。
「何がしたいんだよ、姉貴?」
 髪を掻きむしった理仁くんに、煥くんが問い掛けた。
「リアさんって、友達いるか?」
「姉貴の友達? ん~、仕事仲間とか、連絡取ってる同級生とか? SNSで友達にする範囲の人はいるよ、もちろん。でも、あっきーが言う友達って、もっとガチの意味?」
 煥くんがうなずく。理仁くんはかぶりを振った。
「少なくとも、おれは知らねえ」
「彼氏は?」
「いたことなくはないかもしれない気がする」
「……今は、いないんだな?」
「彼氏なんて紹介してもらったことはないね~。恋バナも聞いたことないし、噂も知らない。フツーに考えて、過去にはいたんじゃないかと思うけど。で、何で急に? 彼氏いますかって、海ちゃんが訊くならともかく」
【一言、余計です】
 煥くんはかすかに笑って、すぐに真剣な目をした。
「さっき、リアさんは兄貴に似てると思った。兄貴の彼女にも似てると思った。でも、オレにも似てるとこがある気がする。オレと同じで、自分の見せ方がわからねぇんじゃないかって。だから、リアさん自身、この廊下で迷っちまってんじゃないかって」
 角を曲がったら、リアさんが立ち止まっていた。
 そこは行き止まりだった。突き当たりの壁に、大きな油絵が掛けられている。白とグレーの濃淡で表された花束の絵だ。
 ぼくたちも立ち止まった。
 しなやかに澄んでまっすぐな声で、煥くんは淡々と語った。
「オレには歌があって、バンドがある。オレが詞を書くんだ。言葉、あんまり知らなくてさ、書くたびに怖いんだぜ。兄貴たちが受け入れてくれなかったら、って。でも、いつも大丈夫なんだ。オレは歌うことで、自分を見せられる。それが許されてる。奇跡みたいだ」
 おそらく多くの人が、煥くんと同じだ。自分を見せることに戸惑う。自分を見せていい範囲を測れずにいる。あるいは、自分を見せる方法を知らない。
 近付くにつれて、リアさんの表情がハッキリわかってきた。怒っている。高ぶる感情のあまり、涙を流している。
「オレにとっての歌が、今苦しんでる人にもあればいいのに。オレにとっての兄貴やバンドみたいな存在に、殻に閉じこもってる人も気付けたらいいのに。他人のことは、よく見えちまうんだよな。自分のことは全然わかんねぇくせにさ」
 煥くんは静かにそう言って、ぼくと理仁くんを振り向いた。
 ぼくはリアさんを見つめた。
【正直な顔は初めてだ】
 美しい、と思った。
【ギリギリの表情をしたあなたはキレイだ。強がりも愛想笑いもいらない】
 あふれ出る声を、ぼくは敢えて止めない。
 心で感じるままに言葉をアウトプットするなんて、普段のぼくにはできない。そんな能力を持たないし、見栄やポーズが邪魔をする。
 でも今は、この上なく率直な声が、ぼくにある。
【あなたはいっぱいいっぱいな状態で、そのくせ笑ったふりをしていた。怒りを率直に表すことは、苦しいでしょう? でも、その表情こそ美しいと思った。もっとちゃんと見せてほしい】
 思い上がりを許してください。
 煥くんの言うとおりだ。自分の見せ方を知って、自分を見せてしまうと、怖い。リアさんの前に見せる自分が、リアさんに受け入れられるのか。
 ぼくは、ずるくて弱い。
【絶望、強迫観念、刷り込みにとらわれたのが、あなたじゃなくてよかった。ごめんなさい。でも、あなたが生き生きと怒りを燃やせる人で、よかった。あなたが生き続けることを選ぶ人で、よかった。傷だらけでも、生きていてくれてよかった】
 突然、リアさんがぼくに近付いてきて、こぶしを固めて振り上げた。
 避けることはできた。その手首をつかむこともできた。
 でも、ぼくは。
「…………ッ!」
 ぼくの胸を叩くリアさんのこぶしを、ぼくはそのまま受け止めた。息が詰まる。
【傷付けたければ、そうしてください。ぼくでよければ、怒りでも悔しさでも、ぶつけてください】
 自分の見せ方が不器用なあなたと同じで、ぼくは、あなたの受け入れ方をよくわからない。だから、できることを全部したいと思う。
【今のぼくにできることは本質的な解決にはつながらない。無力で、ごめんなさい】
 あなたは独りじゃないんだと、どうすれば伝わるだろう?
 唐突に背後から轟音が聞こえた。振り返る。
 ゴウッと音をたてて、水が押し寄せてくる。廊下が、まるで水道管だ。膨大な量の水が迫ってくる。
「下がれ!」
 煥くんが水の来るほうへ飛び出した。片膝を突いて、床に両方の手のひらを触れる。手のひらが白く光り出す。
 白い光は障壁《ガード》だ。面を為す光が、床から天井へと垂直に展開する。
「四角は難しい」
 煥くんがつぶやく。以前に見た障壁《ガード》は、三次元構造に対応しやすい正六角形だった。それが原形なんだろう。
 床から天井まで、壁との隙間もなく、ぴっちりと障壁《ガード》が廊下をふさいだ。次の瞬間、水が、白く発光する面に到達する。
 水は障壁《ガード》に触れる前に、シュワシュワと蒸発する。いや、分子分解されているんだろうか。理仁くんが、白い光越しの水に目を凝らした。
「水が98%、あとは、生体由来のタンパク質とリン酸とか。弱アルカリ性。たぶん、その水は涙だ」
 頭に軽い衝撃を感じた。イヌワシが翼で打って、ぼくの注意を引いたらしい。彼は白い花束の絵へと飛び、その左辺の一点を押した。
 絵が、向こう側へと開いた。
「隠し扉!」
 煥くんが障壁《ガード》を維持して正面を向いたまま叫んだ。
「先に行け!」
「あっきーは?」
「リアさんが一緒に向こうに行けるようなら、オレも行く」
 ぼくは、白いパンツスーツ姿のリアさんを見た。リアさんはかぶりを振った。
 後ろ姿の煥くんは、状況を察したらしい。
「この病院の空間から、このリアさんは出られねぇんだろ? ほっとけねえ。こんな量の涙に呑まれて、平気なわけがない」
 理仁くんが唇を噛んだ。絞り出すような声を震わせた。
「イケメンすぎるってば、あっきー。海ちゃんもだよ。おれだけじゃ全然ダメじゃん。おれ、姉貴にそんな優しい言葉、かけてやったことないよ。姉貴がすぐ隣できつそうにしてんの知ってても、どうすりゃいいかわかんねーもん」
 リアさんが少女のように顔を覆って泣き出した。泣き声がぼくの胸を刺す。理仁くんがリアさんの頭を撫でた。
「姉貴、ゴメン」
 悔しい、と聞こえてきた。リアさんの声だ。
 ――許しておけない現実を、変えられない。チカラがない。
 ――そんな自分が悔しい。
 ――誰よりも何よりも激しい怒りの対象は、わたし自身。
 怒りの涙に泣き崩れるリアさんを前に、ぼくは為す術がない。
 煥くんが再び言った。
「先に行けって。しばらくはこうしていられる。力尽きるまで、オレはここで防ぐから。さっさと行けよ!」
 ぼくと理仁くんはうなずいた。後ろ髪を引かれながら、イヌワシに続いて隠し扉をくぐった。
 ぼくの背後で隠し扉が閉まった。
 目の前に、ぼくと理仁《りひと》くんとイヌワシがいる。鏡だ。一枚だけじゃなく、何枚も、何枚も、数え切れないくらいの鏡がある。視線を感じて見上げると、低い天井も鏡だった。
「ミラーハウスですか?」
 部屋と呼ぶには狭すぎる空間。廊下と呼ぶには短すぎる奥行き。突き当たりまで進んで角を折れると、また鏡だ。すべての選択肢が行き止まりに見えた。
「右斜め前方、通れるよ」
 理仁くんが指差して、先に立って歩く。そうか、ぼくの能力を使えば、光の反射を利用した錯視は簡単に見破れる。
「お株を奪われた気分です」
「さっき、おれの声を使いこなしてた海ちゃんが言う?」
「声が止められなかったし、止めるべきではないと思いました。チカラに頼らないと言えないなんて、情けないんだけどね」
「やっぱ海ちゃん、姉貴のこと好きでしょ?」
「それは、いや……恋というものを、したことがないんです」
【胸が痛くて苦しい】
 理仁くんが急に、低い鏡の天井を向いて声を張り上げた。
「とのことですよ~、姉貴! かわいい年下男子にキッチリ教えてやんなよ~」
「な、何言ってるんですか!」
 思わず理仁くんの肩をつかむと、振り返った理仁くんはニヤッとした。
「ま、歩きながら話しますかね~」
 鏡の迷路を、理仁くんは迷わずに進んでいく。リミットまでの時間を尋ねたら、懐中時計を渡された。残り時間は約四分の一だ。
 どこを向いても、いろんな角度の自分が鏡に映っている。正確な像、歪みのある像、倒立した像。赤いライトがともされた小部屋。バラバラの人形が置かれた、合わせ鏡の空間。
【鏡への執着? リアさんも、笑顔を鏡で練習したのか?】
「それもあるとは思うけどね。でも、姉貴は、もっといっぱい鏡見てるよ。昔から髪いじるの好きだったらしいし、子どものころはバレエやってたし、けっこう早くから化粧してみてたし」
「なるほど」
 理仁くんの歩みが少し鈍った。小さくかぶりを振った理仁くんは、歩くペースをもとに戻す。でも、発せられた言葉は口調が鈍い。
「あのさ、海ちゃん……あのさ」
「何ですか?」
「いや……聞いてほしい。それで、否定してほしい」
「否定?」
 理仁くんの手がイヌワシをつかまえた。イヌワシが迷惑そうな顔をする。理仁くんは気に留めず、すがるようにイヌワシを胸に抱えた。
「海ちゃんはさ、物心ついたころにはもう、玄獣珠を預かってたろ? 物理的な意味で、だよ。肌身離さず、玄獣珠、持ってたろ?」
「はい」
 おれは違う、と理仁くんはつぶやいた。
「親父が使う朱い珠の正体、知らなかった。怖いと思ってた。正体知ってからも、怖かったし、触れたくもなかった。身に付けるようになったのは、一年ちょい前だよ。フランスに逃げる直前。姉貴が親父のとこから盗み出して、それから」
「怖いでしょうね。大切なペットの命や、おかあさんの健康を奪っていった。その朱獣珠を自分が身に付けるなんて」
「すげー怖いよ。おれの前代の預かり手はひいばあちゃんでね、親父もさすがに手出しできない相手だった。チカラも強かったらしいし。でも、おれが生まれると、ひいばあちゃんは無力になった。親父は、ずっと狙ってた朱獣珠を手に入れた」
 それはリアさんにとって八歳のころだ。朱獣珠の乱用の最初の犠牲者が、大型犬のキキだったんだろうか。
「朱獣珠はずっと、おとうさんが管理を?」
「うん。でも、おれより姉貴だよな。迷惑親父の被害に遭い続けてたのって、姉貴だ」
 理仁くんは前を向いて歩いている。ぼくに顔を見せたくないんだろう。でも、まわりじゅうにある鏡が、理仁くんを映してしまう。笑みを消した無表情は、涙より怒りに近いように見えた。
「おれかもしれねぇんだよ。黄帝珠が目を覚ました理由。だって、おれ、親父のこと怨《うら》んでる。物事を実現するチカラがあるおれの声で、何度も言った。親父を怨んでる、って。黄帝珠って、怨みの宝珠だろ? あいつ、マジでおれに感応したんじゃねぇの?」
【違う!】
 考えるより先に、ぼくは否定した。直感的に、本能的に、それは違うと思った。
「きみの声が怨みのチカラを発現した? そんなはずないでしょう!」
「何で即答できる?」
 冷えて硬い口調は、理仁くんには似合わない。彼にそんな苦しみを強いる人を、許せない。
「ぼくたちは出会って四日目だけどね。リヒちゃんの人間性はつかんだつもりです。ぼくはきみの人間性を信じている。汚い野心のままにチカラを開放する黄帝珠とは相容れない。きみがあれを呼び起こしたなんて、理屈が通っていませんよ」
 ぼくの言葉に根拠はない。主張を裏付ける計算式なんか存在しない。ここに存在するのは、理仁くんを信じたいという感情だけだ。
 感情論なんて嫌いだった。曖昧で不確定で面倒で。
 だからどうした。
 感情論で上等じゃないか。
「海ちゃんさ、それ、本気で言ってくれてる?」
「当然です」
「万一、ほんとにおれが怨みの発生源だったら?」
「全力でフォローして帳尻を合わせますよ」
「海ちゃん」
「はい」
「ありがと」
 ちょうどのタイミングで、大きな鏡の扉が行く手に現れた。扉を開けた向こうは、もう迷路ではない。ただの通路だった。
 ぼくは、理仁くんから預かったままの懐中時計を取り出した。理仁くんに渡そうとしたら、押し返された。
「海ちゃんが持ってなよ」
「わかりました」
 懐中時計をポケットの中に収め直す。文字盤が真っ暗になったら、一体、何が起こるんだろう? いや、考えちゃいけない。早くココロの最奥部に到達して、脱出を勝ち取るだけだ。
 次の扉は、すぐそこにあった。
 扉を抜けると、天井の高い、朱い部屋だ。二十五メートルほどの奥行きがあって、向こう側の壁にポツンと扉が付いている。
 イヌワシが理仁くんの手から抜け出した。ふわりと宙に浮いて、向こう側の扉を目指して飛んでいく。けれど、軌道がおかしい。ランダムなジグザグに飛んでいく。
「とりあえず、追い掛けますか」
 進もうとしたら、理仁くんに腕をつかまれた。
「そのへんから先、危険。無防備に突っ込んだら、死ねるよ」
「え?」
「上、見てみ」
 指差された先は天井だ。ぼくは息を呑んだ。固定式のボウガンとでも表現すればいいだろうか。矢を発射させる装置が、中央、右、左の三条に整列して、こっちの端から反対側までびっしりと連なっている。
「あの仕掛けは、一体?」
「赤外線センサーに反応して、矢が発射される仕組みだね」
「物騒な。だから、イヌワシは変な軌道で飛んだんですか」
「うん。赤外線、避けて飛んでた」
 理仁くんは、何もない空間に目を凝らした。力学《フィジックス》の視界には、赤外線が識別できる。今のぼくには見えない。ただ、赤外線を飛ばす装置が壁のあちこちに埋め込まれているのはわかる。
「家出したとき、でしたっけ? 赤外線を見ながら防犯カメラを無効化したのは?」
「ああ。ここには、その記憶が投影されてるかもね。壁の色、親父の屋敷に似てるし。家出しようって本気の計画を立て始めた当初、おれはビビってた。でも、姉貴はおれの先に立って、華麗にやってのけたんだ。防犯装置をぶっ壊すのも、朱獣珠を盗むのも」
「怪盗ごっこ」
「そう、それ。あんときはひたすらビクビクしてたけど、後になってみりゃ、なかなかの武勇伝だよね。ところでさ、海ちゃんって、自分の体のコントロールがうまいよね? 視界に映る数値に従って最適化した動き、ってやつ」
「ええ、得意です。それくらいできないと、その視界、メリットがないでしょう?」
「ま、ストレス多いよね~。というわけでさ、今から、おれの言うとおりに動いてくれる?」
 唐突な提言に面食らった。何事かと問う前に、指示が飛んでくる。
「かがんで、頭のてっぺんの高さを129.3センチに。誤差は±3センチ以内で」
 とりあえず、理仁くんの指示に従う。理仁くんの目が、ぼくを観察して計測している。
「お、高さピッタリ。右腕だけ挙げて、床との角度は55度に」
「できますよ、これくらい。突然、何なんです?」
「この部屋クリアする方法。あ、立っていいよ」
 ぼくは膝を伸ばして腕を下ろした。
「リヒちゃんがぼくに指示を出して、ここをクリアさせる?」
「正解。普段の海ちゃんなら、赤外線センサーは楽勝でしょ?」
「そうですね」
「たいした密度じゃないから、口頭での指示だけでいけると思う」
「きみは?」
「おれはここで指示出すから。とりあえず、海ちゃん、先に行ってよ」
 ぼくは軽く肩を回して、股関節のストレッチをした。膝と足首の関節を振って、無駄な力を抜く。
「海ちゃん、体、すげぇ柔らかいね」
「柔らかくないと、理想値どおりに動かないんです。ケガも増えるしね」
 気楽に笑ってみせて、赤外線センサーのエリアに足を踏み入れた。頭上には、矢。左右の壁の装置が光を照射しているのがわかるのに、見えない。
 情報不足への不安はある。それを補うのは、理仁くんへの信頼だ。
「基本、左右の壁から壁に糸が張ってある感じ。高低差はあっても、奥行き方面に斜めってるのは少ない。まず、50センチ前方に一本、高さ約120センチのがある。それくぐったら、25センチ先に、高さ40センチ」
 慎重に、250mmずつ進む歩幅。不可視光の直線をくぐり、またぎ、跳び越す。
「そこ、斜めになってる二本、交差してる」
「二本の傾きを二次方程式で言ってください」
「あー、片方がy=0.3xで、もう片方がy=-1.1x」
「それの交点が、ぼくの右の人差し指から30センチ先?」
「ジャスト30センチ先」
 失敗できない。汗の量がすごい。
 即席の座標で確認し合う。向かって左手の壁と床の交点を原点として、センチメートル刻みの目盛がある、という想定。奥行きは、ぼくの目がある平面を0として。
「点(597, 136, 45)に三本集まってる。で、下にも一本あって、くぐるの厳しいかも。その高さ、助走なしで跳べる?」
「余裕です」
 見えなくても、見えている。力を貸してくれる人がいれば、前に進める。
 たった二十五メートルが長かった。凄まじい量の汗をかいて、ぼくは扉の前に至る。理仁くんが、大きな音をたてて手を叩いた。
「お疲れ~! 完璧だったじゃん!」
「リヒちゃんのおかげですよ! 早く、きみもこっちへ!」
 理仁くんが両腕を広げて、肩をすくめた。力の抜けた笑い方をしている。
「おれは無理だよ。見えても、海ちゃんみたいに動けねえ。この先は海ちゃんひとりで行ってよ。いや、ワッシーがいるか。どっちにしても、姉貴によろしく」
 緊張していた両膝が、カクンと折れてしまった。
「来ないんですか?」
「行けないってば。運動能力的にも厳しいし、それ以上にさ、海ちゃんには姉貴の声が聞こえないんだよね?」
「リアさんの声?」
「来ないでとか、見ないでとか、そう言ってる姉貴の声。おれには最初っから聞こえてたんだけど、ここに来て、さらに大きく聞こえるようになった。だから、おれは行けない」
「でも、そんな……」
「行きたいよ。だけど、行けねーんだよ」
 理仁くんは大きく三歩、下がった。背中が扉にくっついた。理仁くんは背中を扉に預けて、座り込んだ。
「ぼくは……ぼくが、ひとりで?」
 何ができるというんだろう?
「その正直な顔してれば、だいじょぶだって。姉貴の母性本能、くすぐってやんなよ。海ちゃん、姉貴のこと助けたいでしょ?」
「助けたいですよ。助けてもらって、守ってもらって。このままじゃいられない」
 理仁くんが満足そうに笑った。
「持ってっていいよ、姉貴のこと。てか、受け入れてやってください。おれにはできないことだから」
 イヌワシがぼくの肩を叩いた。へたり込んでいたぼくは、立ち上がる。時間がない。
「やるだけのことは、やってみます。だけど……」
 発言を、途中で奪われた。
「姉貴は強いよ。その強さは、おれを守るためのものだ。だから、姉貴は、おれの前で弱くなれない。強くなきゃ、姉貴は姉貴でいられないから。でも、海ちゃんは、強い姉貴も弱い姉貴も知ってやれる。知って、受け入れてほしい。これ、おれからのお願い」
 答えるためには勇気が必要だった。
「わかりました」
 そう答える以外、何ができるだろう?
 理仁くんのお願いの重みを、ぼくはきっと、すべては受け止めていない。受け止める資格があるのか、自信があるとは言えない。
【でも、ぼくが行かなければならない。ぼくは、行きたい】
 理仁くんに背を向けて、扉に手を掛けた。何か言葉をくれるんじゃないかと思って、少し待つ。理仁くんは黙っている。
 ぼくはドアノブを回して扉を押した。暗い階段が伸びる先に、漆黒の扉がある。イヌワシがふわりと飛んで、階段を下り始めた。