目を開けたら、見慣れた色のシーツがあった。左を下にして体を丸めて眠る、いつもの癖。
 でも、足りない。目に入ってくるはずの、シーツのしわの形状を計測した数値。そんな当然の情報が、ぼくの視界に存在しない。
【見えない】
 失ったんだ。この世に生を受けた瞬間からぼくに備わっていたチカラ、力学《フィジックス》。過剰な情報量を持つ視界が、ぼくにとっての当たり前だったのに。
「おんや~、目ぇ覚めた?」
 思いがけない声が聞こえた。ぼくは、パッと起き上がった。
 ぼくの部屋に、理仁《りひと》くんがいる。彼は勉強机の椅子に後ろ向きに腰掛けて、背もたれを抱いていた。
「これは……ぼくたちは、一体……」
「一夜明けて、今は午後一時だよ。あの後さ~、おれと鈴蘭ちゃんで、もう必死。海ちゃんとあっきーは気絶したまんまだし。四獣珠がバリア張ってくれてなかったら、ヤバかったよ」
 理仁くんは目を伏せている。視界に何も入れたくないんだろう。口元は相変わらず、微笑んだふりを続けている。
「リアさんは?」
「連れてかれた」
 理仁くんは背筋を丸めて、椅子の背に額をくっつけた。明るい色の髪は、リアさんと同じ色だ。
「ごめんなさい」
「何で謝るの?」
「ぼくがチカラを制御できなかったせいで、足を引っ張りました」
 情けなくて申し訳なくて仕方がない。
「海ちゃんって、意外と謝るね。チカラが入れ替わってからこっち、何度も聞いたよ。ごめんなさいって。意識のない間も、ずーっとね、ほんとにしょっちゅう謝ってた」
【無力感、失望、劣等感、自尊心】
 思念が勝手にこぼれてしまう。その途端、また、疲労感が肩にのしかかる。気を付けていないと、チカラを使いっぱなしになるんだ。数値だらけのあの視界より、はるかにエネルギー消費量の大きなチカラを。
「ぼくはナルシストなんですよ。十分に満足できるくらい優秀で有能な自分じゃないと、生きていられない。だから、生きている限り、ぼくはつねに優秀で有能なはずなんです。なのに昨日、何もできなかった。今、自分に対して絶望しています」
「海ちゃん、それ、ナルシストって言えない。海ちゃんはおれと同じで、自分のこと、そんなに好きじゃないでしょ? でも、どーにかして生きてなきゃいけないから、自分がこの世に存在することを許すための口実を用意してんだ」
【自己評価。優秀であること。他人と違う自分。特別でありたい願望。普通になれない、という劣等感を書き換える。変人であろうと振る舞う。力を抜くことができない。本当は、とても疲れている】
 理仁くんはしばらく黙っていた。それから顔を上げて、目を閉じたまま、口元だけでニッと笑った。
「昨日の晩、おれ、ここに泊めてもらった。すっげー金持ちなのな、平井のおっちゃんって。朝飯、うまかったし。あ、そういや、昼飯まだなんだ。海ちゃん起きねぇかな~と思って、待ってた」
「食欲が……」
「なくても食わなきゃダメ」
【つらい】
 弱音がこぼれる。本心を隠しておけない。こんなの、本当は誰にも聞かれたくない。
【怖い】
 でも、一方で、このチカラを理解する理仁くんには見放されたくない。助けてほしい。
 不甲斐ない。
 ぼくはベッドに仰向けに倒れた。白い天井を映す視界は、あまりにも殺風景だ。数字が見えない。距離も角度も測れない。怖くなって、ぼくはまた、まぶたを閉じる。
「ぼくがさっさと祥之助に対応していればよかったんです。魂《コン》の抜かれた動物や人の存在は知っていました。祥之助が絡んでいるらしいこともわかっていました。それどころか、話をしようと誘われていたんです。あのとき、誘いに応じていればよかった」
 もっと警戒すべきだった。きちんと計画すべきだった。綿密に情報収集しておくべきだった。今さら後悔しても遅すぎるのに。
「おんなじこと、瑠偉っちが言ってたよ」
「瑠偉と会ったんですか?」
「昨日の晩、真っ先に駆け付けてくれたの。海ちゃん、突入の前に瑠偉っちに連絡したんでしょ? 場所は聞かなかったけど、お坊ちゃんちのビルだと思ったんだって」
【一人で何でもできるつもりでいた。そんなわけない。自分でもわかっているんだ、ぼくは視野が狭くて精神的に脆いって。ぼくは一人では何もできない】
「海ちゃん、素直」
「聞かないでください、こんなの」
「思ってることが洩れるのは、疲れてるときは仕方ないって。おれでも、たまにポロッとやっちゃうもんね~」
【壁を……】
「理仁くん、どうやったら壁を保持していられるんですか?」
「けっこう無意識」
「ずるいですよ、そんなの」
「海ちゃんこそ、どうやってこんな視界に対応してたわけ?」
「無意識ですね」
「ほらね」
 どうやって、ものを見て情報を得ているのか。どうやって、声に出す言葉と胸に秘める言葉を選んでいるか。
 無意識の判断は、幼児のころに徐々に身に付いていく。通常の範囲の能力も、ぼくたちの異能も、使いこなすためのプロセスはきっと同じだ。
「苦労しませんでした?」
「苦労したよ~。お友達にそんなこと言っちゃダメでしょ、っていうお叱りが、おれは普通の子より多かったわけ。叱られてるうちにチカラの操り方を覚えた感じ」
 思念の声を洩らさないためには、自分を律する必要があって、感情を安定させておかなければならない。幼児には難しかったはずだ。十七歳のぼくにさえ難しい。
「だから、きみはいつも計算したような笑顔なんですね」
「海ちゃんだって、計算ずくの笑顔じゃん」
「つかみどころのない変人として扱われるのが、いちばん楽なんです」
【だって、ぼくは普通になれないんだから。演技しても努力しても、どうやったって普通になれずに、浮いてしまうんだから】
 他人の視界には数値が現れないのだと、幼いころは理解できずにいた。
 多すぎる情報量を持て余しながら、ぼくには不思議だった。どうしてみんなは曖昧な方法でしか物を見ないんだろう、と。
 力学《フィジックス》のチカラがある限り、ぼくは普通になれない。だったら自分から、変人でいることを望んでやる。あいつには近寄れない、と思われるほうがいい。この情報量を共有できる相手も、本当の意味でぼくを理解してくれる相手も、どうせいないのだから。
【孤独だった。笑ってごまかした。仮面をかぶるみたいに、こうしていると、楽になった】
 どんな形に唇を動かせば笑顔に見えるのか、鏡をのぞきながら練習した。ぼくの顔立ちには、左右で誤差がある。でも、笑った顔はほぼ左右対称に見えるはずだ。
【完璧なように練習したから】