LOGICAL PURENESS―秀才は初恋を理論する―

 屋敷に住んでいるのは、ぼくやさよ子さんだけではない。ここは「KHAN《カァン》」という特殊な組織の拠点でもある。組織の総統であり、屋敷の主である人の名は、平井鉄真《ひらい・てっしん》。ここには、総統に招聘された人材がたくさん住み込んでいる。
 そう、ぼく以外にも人はいるのに。
「海牙さん、明日ですからね! 絶対、明日の約束は守ってくださいね!」
 なぜ面倒事が回ってくるのは、ぼくなんだろう? ぼくは明日、さよ子さんの護衛をしなければならない。
「はいはい、十九時に玉宮駅前ですよね?」
「返事の『はい』は一回!」
「……はぁ……」
「あ、今のため息、すっごくセクシー♪ それでですね、明日のことなんですけどー、って、ちょっとねえ海牙さん聞いてますー?」
「聞いてますよ」
 大都高校が男子校でよかった。女子の意味不明なテンションにはついていけない。
 さよ子さんの話は回り道が多い。要約すれば、以下のとおりだ。
 明日、十九時から、玉宮駅前でストリートライヴがある。さよ子さんが夢中になっているロックバンドの公演だ。件のバンドは襄陽学園の五人組。さよ子さんは、同級生と一緒に聴きに行く。が、夜に女子だけは不安なので、ぼくが借り出される。
 という、すでに五回は聞かされた内容を、今日もまた延々と聞かされているわけだけれど。
 重点的に繰り返されるのは、ただ一項目。そのバンドのヴォーカリストがカッコいい、ということだけだ。
 彼の魅力を語るために、さよ子さんの言葉はすでに十二万字以上が費やされていると思う。文庫本一冊ぶんだ。さよ子さんが彼に一目惚れしたのはつい先週だというのに。
 話題の彼とは会ったこともないけれど、ぼくはすでに彼に同情している。こんな勢いで攻めまくられたら、いくら何でもドン引きするんじゃないだろうか。
 とりあえず。
「すみませんが、そろそろ解放してください。ここ、ぼくの部屋ですよ」
 さよ子さんは頬を膨らませた。
「女の子が語りたいときは、男の子は語らせてあげるべきです!」
「じゃあ、好きにしてもらってかまいませんが」
「海牙さん、優しい♪」
「ぼくは着替えますね」
「にゅあっ?」
 ぼくはおもむろに制服の上着を脱いで、カッターシャツのボタンを上から三つ外し、ベルトに手を掛ける。髪を掻き上げて流し目をすると、さよ子さんは声もなく部屋から飛び出していった。撃退成功。
「パワハラとセクハラで、総統に訴えますよ。本当に」
 他人を部屋に入れるのは嫌いだ。基本的に、女性と接触するのも好きじゃない。でも、さすがに、屋敷のお嬢さま相手には強く出られない。
 ぼくはシンプルなシャツとジーンズに着替えた。玄獣珠のペンダントは、どんなときも肌身離さず付けている。
 直径23mm。未知の無機物質から構成される、玄獣珠。鉱物の一種には違いないのに、生体反応に似た「何か」が感じられる。
 ぼくは玄獣珠を決して視界に入れない。触れる肌から感じ取るチカラを、ぼくの目では解明できない。力学《フィジックス》のチカラを介して見る玄獣珠には、読めない文字が、びっしりとたかっている。文字がうごめくありさまは気味が悪い。
 宝珠は奇跡の存在だ。人の願いを叶える。願いに相応の代償を食らって、奇跡を生み出すんだ。願いが大きければ、代償も大きくなる。
 ぼくの預かる玄獣珠は、単独の存在ではない。四獣珠のうちの一つだ。中国の伝説に登場する四聖獣が、それらにチカラを授けたという。
 玄獣珠は玄武。
 朱獣珠は朱雀。
 青獣珠《せいじゅうしゅ》は青龍。
 白獣珠《はくじゅうしゅ》は白虎。
 四聖獣とは、そもそも、物事に備わる四つの「特徴」を象徴する存在だ。四分類される「特徴」には、例えば、色、方位、季節、物質あるいは物性、感情、体の部位、味覚などがある。
 玄獣珠に備わるのは、玄《くろ》と北、冬、水、哀しみ、腎臓や耳、塩辛さなど。占いや東洋医学では、そうした「特徴」をすべて覚えておくことが重要らしい。ぼくにはさして興味がない。覚えたところで何かの役に立つとも思えない。
 預かり手のチカラとそれらの「特徴」は、相互に関連しない。チカラは、預かり手自身の個性に由来するそうだ。
 それなら、ぼくという人間において、チカラと人間性の関係をどう説明するのが的確なんだろう?
 学校にも上がらない幼いころ、足し算と引き算を知った。九九を覚えた。分数と小数を理解した。その都度、視界にうごめく未知の情報は、整然として美しい数へと姿を変えていった。嬉しかった。だから、ぼくは勉強に没頭した。
 学べば学ぶほど、知れば知るほど、この視界の情報は、質も量も最適化されていく。ぼくは勉強せずにはいられない。目の前にある情報を必ず処理せずにはいられない。まぶたを閉ざして無防備になる姿を、誰にも見せたくない。
 チカラを持つからこそ、ぼくの人間性はこんなふうなのだと思う。でも、宝珠の由来を記した古文書によれば、人間性がチカラに形を与えるのだという。
 自分に関わることだけに、このテーマについてどんな答えを出すのが正確なのか、ぼくは方向性を決めかねている。
 ぼくは総統の書斎を訪ねた。総統は忙しい人だ。でも、事前に予約を入れる必要はない。総統は万事の掌握者だ。ぼくの行動くらい、何もかも見透かしている。
 ノックをして扉を開ける。総統は、くつろいだ和服姿で執務机に向かっていた。
「お仕事中、失礼します。お耳に入れておきたいことがあるので」
 総統の顔立ちが不思議な印象を持つのは、左右の誤差がきわめて小さいせいだ。頭蓋骨の形状も東アジア人として理想的なバランスを成しているから、文字どおりの意味で、総統は格好がいい。四十代後半。加齢による皮膚の緩み具合さえ、計算したように端正だ。
「そろそろ来るころだと思っていたよ。ゲームセンターでのデートは楽しかったかい?」
 総統の能力は計り知れない。心の声も記憶も読まれてしまう。まあ、報告の手間が省けるから楽だと思っておこう。そうでなければ、強大なチカラへの恐怖に負ける。
「ほんの二十分程度でしたが、楽しめました。女性は年上のほうがいいですね」
 年上だから、だと思う。リアさんに近寄られても、手を握られたことさえ、不快じゃなかった。
「またすぐに会えるよ。彼女やその弟は、海牙くんの行く末に多大な影響を与える。今、運命が分岐するポイントに差し掛かったようでね」
「運命が分岐、ですか?」
「正確には、運命の一枝《ひとえだ》の分岐だな。何が起こり得るか、『秘録』で読んだことがあるだろう?」
「ええ。四獣珠を始めとする宝珠について記されていて、その来歴や預かり手の役割にも言及されていましたね」
「運命の一枝、と例えられる、この世界の在り方についても」
「記憶しています」
 運命は、多数の可能性の枝を持つ大樹の姿をしている。ぼくが生きるこの世界は、ある一枝の上に存在する。別の一枝の上には別の世界があって、別のぼくが生きている。
 総統には、この一枝の生長が見て取れるという。それが総統のチカラだ。
 日常的に知覚することのできない運命の一枝なんてものを、一体、どんな姿でとらえているのか。好奇心に駆られて、総統に「ぼくも見てみたい」と言ったことがある。
 総統は見せてくれた。いや、見せてくれようとした。
 ぼくの額にかざされた総統の手のひらから、凄まじい量の情報がぼくの脳へと叩き込まれた。読解できない、うごめく文字の、途方もない奔流。ぼくは一瞬も耐えられず、意識を失った。
 あんなものを、総統はいつも見ている。肉体こそ人間のものだけれど、チカラは人間であり得ない。
 総統は普段、チカラを外に漏らすこともなく、ひっそりと常人のふりをしている。たまにチカラの片鱗をのぞかせることがあって、そんなとき、ぼくはどうしても目をそらしてしまう。処理できない情報の怒涛が視界を占領してしまうから、ただただ怖い。
 けれども、その総統を以てしても、未来が少しもわからないときもあるという。
 総統は静かな目をしてぼくを見た。
「まもなく、この一枝は分岐すべきポイントに差し掛かる。四獣珠が互いに呼び合い、預かり手たちを引き会わせ、さる問題に立ち向かわせる。きみたちの勝率は、どうも高くないようだがね」
「不利とわかっている勝負に突っ込むのは、ぼくの主義ではありません。避けられるのなら避けたいものです」
「残念ながら、人生は、残機ゼロの強制スクロールだよ。ステージを進めば勝手にセーブされ、リセットはできない。進める限りに進むしかなく、手にするクレジットはゲームクリアかゲームオーバーか、二者択一だ」
「システムにバグがあったとしても、それが仕様であるとの一点張りで、お詫びのボーナスアイテムも支給されないクソゲーですよね」
「散々な低評価レビューが続けば、その一枝というクソゲーも、さすがに配信と運営をストップせざるを得ない。生長に失敗した一枝たちは淘汰され、より遠い未来へと生長し得る一枝たちが次の世代へと伸びていく」
「淘汰に、世代か。まるで機械学習の物理演算ですね。最近、人工知能の機械学習について書かれた本を読んだんです。人工知能の学習の過程は、遺伝学になぞらえた言葉で表現されるんですよね」
 思いがけず、総統が嬉しそうに微笑んだ。
「私も、ちょうど今、AIの本を読んだり動画を観たりするのにハマっていてね。あれはおもしろいな。ビジネスのどういう分野にAIが導入できるかという視点ではなく、科学技術として純粋におもしろい。もっともっと知りたくなる」
 総統は運命の一枝も人の心も知覚できる一方で、学術を身に付けるためには、ごく当たり前の努力をしなければならないそうだ。国立大学の文系学部を出たという割に、サイエンスの話題に食い付くことが多い。
 ぼくは話のテーマをもとの軌道に戻した。
「この一枝も、淘汰される可能性があるんですね?」
「あるだろう。私には見えないけれども」
「どんな条件を満たすことができれば、適応度の高い解として評価され、この一枝を次の世代につなぐことができるんでしょうか?」
「さて、どうすればいいんだろうね?」
「総統にもおわかりにならないんですか?」
「私は、少し先の未来における最適解を知っている。しかし、一枝たちがディープラーニングをおこなう間、その過程はブラックボックスの中だ。プログラムの設計を知る私にさえ、ブラックボックスを開けることができない」
「具体的に何がおこなわれているのか……いや、ぼくたちがこの一枝の上で何をおこなうべきなのか、わからない」
 総統はうなずいた。そして一つだけ、曖昧な予言をくれた。
「事件が起こるよ。きっと、すぐに」
 それからぼくは部屋に戻って、授業の課題を片付けた。
 理系科目は、途中の計算式を書くのが面倒で仕方ない。問題を見ただけで答えがわかるのに、ひたすら徒労。この面倒があるから、理系科目は案外嫌いかもしれない。
 全国模試の順位はいつも一桁だ。中学時代からずっと、学校の定期試験で一番以外を取ったことがない。
 理系科目は言うまでもなく、絶大なアドバンテージがある。文系科目はそれなりにきちんと勉強している。でも、普段から膨大な情報量に接しているぼくは、現代日本語だろうが古語だろうが英語だろうが、読んで理解するスピードが速い。
 文字を読めるようになるのは、実はけっこう遅かった。紙に書かれた文字が情報を持つことを、なかなか理解できなかった。素材である紙やインクの情報にばかりに目が行っていた。
 どうやって文字というものを理解したんだっけ? たぶん、母の手作りクッキーが最初だ。真ん中にひらがなが一文字浮き出る、タイル状の型抜きクッキーだった。
 美人だけれど気が弱くておとなしい母は、知恵の付き方がとてつもなくアンバランスなぼくを持て余していた。しょっちゅう泣きながら、毎日のように、ひらがなのクッキーを焼いて、ぼくに文字を教えた。
 あるとき唐突に、ぼくは、自分の名前を並べることができたんだ。何度も何度も目にしてきた形の並びが「かいが」を表す記号であると、いきなりわかった。
 文字から構成される世界、文章によって表現される世界を知ると、少し楽になった。その世界に没頭している間は、情報量が制限される。他人と同じ情報量を仮想的に体験できる。
 だから、理系なのにと言われるけれど、読書は好きだ。漫画よりも、文字だけの小説のほうが集中できる。粗が気になるSFよりは、違う世界を描いたファンタジーがいい。
 文字の世界より楽なのは、当然ながら、視界をゼロにすることだ。目を閉じているときは、多すぎる情報を見ずに済む。
 でもまあ、何だかんだ言っても、情報量の多さはメリットのほうが大きい。例えば、今日、リアさんを数値的に精密に見て記憶しておいたから、かなり確度の高い脳内再現が可能だ。
 逆に不思議に思うのだけれど、ぼくのような正確な視覚を持たない普通の人々は、どんな基準で以て「美人だ」「スタイル抜群だ」と判断するんだろう? ずいぶん曖昧な評価しかできないはずだ。
「そうだ、リアさんに連絡」
 ぼくは椅子から立って、ベッドに腰掛けた。かわいくないイヌワシは、枕の上に転がしてあった。懐に突っ込んだままの紙片を開く。「ナガエ リア」とカタカナ書きの名前の下に、電話番号。メールアドレスと、トークアプリの検索IDも添えてある。
 ぼくは、いちばん手頃なトークにメッセージを打ち込んだ。
〈こんばんは、午後にお会いした阿里海牙です〉
 すぐに既読になった。同じタイミングでスマホをいじっているんだな、と思うと、妙に嬉しい。
〈こんばんは、連絡ありがとう!〉
〈リアさんが起きていてよかったです〉
〈まだ寝ないよ〉
 リアさんは、仕事に必要な調べ物の最中だったらしい。
〈お仕事ですか?〉
〈美容師。つい昨日、友達のサロンで働くことになったの〉
〈調べ物が必要なんですか?〉
〈トレンドの調査とか〉
〈なるほど〉
 住む世界が違う人だな、と感じた。
 オシャレとかトレンドとか、どちらかというと、面倒くさい。自分の容姿はそれなりに気にするけれど、ワンシーズンで賞味期限の切れる流行を追い続けるなんて時間がもったいない。もっと普遍的に通用する美しさや格好よさがあるだろう、と思う。
〈海牙くん、カットモデルやらない?〉
〈夕方に「髪を切れ」と言われたばかりです〉
〈賛成。わたしが切ってあげる〉
〈本当ですか?〉
〈本当です。きみの髪、天然パーマ?〉
〈天然パーマです。見えないでしょう?〉
〈見えない。ちょっと形を変えるだけで、すごく垢抜けるはずよ。そういうの、自分で研究するのは面倒くさいって思ってるでしょ。素材そのままで十分カッコいいからって〉
〈読心術ですか? 全部バレてる〉
〈きみみたいな人のために、わたしみたいなプロがいるの。髪も服も、自分で決めるのが面倒だと思うなら、全部相談して〉
 画面を見ながら一人で笑っている自分に、ふと気付いた。
 今日初めて会った人と、画面越しに、文字だけの会話をしている。その他愛ないやり取りが、心地いい。
〈じゃあ今度、髪のカット、よろしくお願いします〉
〈ついでに写真も撮らせてもらっていい?〉
〈撮ってどうするんですか?〉
〈サロンに飾って客引きするの〉
 リアという名前は、琳安と表記すること。でも、当て字っぽいから嫌いだということ。カタカナで書かれるほうが気に入っていること。
 そんな雑談をして、トークを終えた。髪は、サロンが休みの月曜の夕方に切ってもらうことになった。
「おやすみ、また明日、か」
 スタンプのメッセージを読み上げてみる。
 リアさんの年齢、いくつなんだろう? 十歳近く離れていると思う。リアさんの弟の理仁くんは、ぼくと同い年だ。十七歳なんて、かなり子どもに見えるだろう。ちょっとへこむ。
 目を閉じてみる。処理すべき情報が遮断されて、静かだ。
 ああ、そうか。電話すればよかった。目を閉じて声だけを聞いたら、ぼくは鮮やかに彼女を思い描けたのに。
「明日、そうしようかな」
 セリフを考えておこう。からかうような、生意気なセリフを。
 リアさんを驚かせたり慌てさせたりしてみたい。この手で何気なく彼女のピアスに触れた、あのときみたいに。
 総統の屋敷は、県境の山手のほうにある。市街地までは案外遠い。一本道だから迷う心配はないけれど。
 ぼくは毎朝、ローラースケートで屋敷を出る。行きは下り坂。バイク並みのスピードが出るから、目を保護するためのバイザーを掛けている。
 駅のそばに出たら、革靴に履き替える。ローラースケートはスポーツバッグの中。駅前で友人と落ち合って学校に向かうのが日課だ。
「はよ、海牙」
「おはよう」
 升井瑠偉《ますい・るい》。小柄で童顔なのを気にする同級生。ぼくと並んで歩くとさらに小さく見える、と愚痴を言う。そのくせ毎朝、瑠偉はこうしてぼくを待っている。
「おまえ、昨日、また集会を抜け出したよな。担任がキレてたぞ」
「そろそろ学習してくれればいいのに。ぼくはこういう人間なんですが」
「だよな。海牙を枠に嵌めようってのが間違いだ」
 瑠偉こそ、枠に嵌まらない。集会には出席しつつ、話を聞かずに内職していたようだ。
「投石機のモーションの動画、やっとサマになってきたぜ。これでようやく攻城戦のプログラムが組める」
 瑠偉の趣味はコンピュータゲームの作成だ。小型のタブレットPCで、授業中でも隠れてデータを書いている。最近は前近代の戦争物を作っているらしい。情報工学系のスキルは、高校生のレベルじゃない。
 瑠偉と知り合ったのは、総統の屋敷でのことだ。実は瑠偉も宝珠の預かり手で、チカラを持っている。
 宝珠は基本的に単独では存在しない。四獣珠は四つでワンセット。七曜珠なら七つ、十干珠なら十、十二支珠なら十二。そんなふうに、バランスを取り合う相手が必ずいる。
 セットとなる宝珠の母数が大きいほど、チカラは分散されて弱くなる。つまり、等級が低くなる。
 瑠偉は十二支珠のうち辰の宝珠を預かる家系に生まれた。四獣珠に比べると、かなりチカラの弱い宝珠だ。預かり手である瑠偉のチカラもさほど強くない。本人曰く、ちょっと勘がいい程度の一般人だそうだ。
「それで、海牙、昨日は何人倒した?」
「三人」
「またカツアゲされかけたのか?」
 瑠偉はニヤニヤしている。
 緋炎は、大都高校の生徒を狙ってカツアゲしに来る。でも、ぼくと瑠偉にかかれば、あっさりと返り討ちだ。勘のいい瑠偉は運動神経も抜群によくて、小柄で幼い印象の外見とは裏腹にケンカが強い。
「昨日はカツアゲだけじゃなかったんですよ。美人がナンパされてたから助けまして。最終的には、その美人の連絡先を教えてもらいました」
「マジかよ!」
 リアさんの一件を詳しく教えろと言われた。けれど、教えられるほどの進展もない。
「またそのうちに」
 はぐらかしておく。髪を切ってもらった後に報告してやろう。
「海牙、おまえ、逆ナンされすぎだろ」
「応じたことはありませんし、昨日のは逆ナンとは違いますよ」
「おまえから声かけたわけ?」
「双方合意の上でした」
「言い方が怪しすぎ」
 軽口を叩き合って、力の抜けた笑い方をする。
 登校中のこの時間はいい。でも、学校に到着すれば、息もつけないような競争社会。ぼくと瑠偉はつねに上位にいて、下位から徹底的な敵意を向けられている。
 角を曲がって、コンビニが目に入った途端。
 瑠偉がビクッと肩を震わせて足を止めた。見張った目は、コンビニのほうへ向けられている。ぼくもつられてそっちを見て、ギョッとした。
 コンビニのガラス壁に背中を預けて座り込んだ女の子が三人。
 近所の公立高校の制服を、かなり派手に着崩している。緋炎関連の不良少女か。でも、様子がおかしい。
「酔ってんのか? それとも、クスリ?」
「両方、違うと思いますよ」
「だよな。目を開けた状態で寝てるみたいな、あれだな。ついに人間まで現れたか」
 四月に入って、この界隈に異変が起きていた。異常な様子の動物が道端に座り込んでいる。人間的な表現をするなら、放心状態。まぶたは開いているけれど、目の前で手を振っても眼球が動かない。脈拍や呼吸の状態は、まるで冬眠中みたいだった。
 近所の住人が警察と保健所に届けを出したらしい。その件について学校にも通達が来たのは、犯人探しが始まったからだ。
 警察は何かの薬物だと疑っているようだった。高校生が関与した犯罪ではないか、とも疑っている。
「でも、化学物質ではないですよ、やっぱり」
「放心状態の動物を調べたときと同じか?」
「ええ。その気になって目を凝らせば、呼気に含まれるアルコール濃度だって、ぼくのチカラで観測して算出できるんです。そういう化学的な異常は、問題となっている放心状態の対象からまったく感じられない」
 眉間にしわを寄せた瑠偉が、声を潜めた。
「サイエンスじゃ解決できないとなると、きついな。おまえがじっくり見ても、おれがプログラム走らせても、解析不能。でも、現象は確かに目の前に存在する。この現象についての情報をどう処理していいものやら」
 科学的に解明されていない現象は、身近にたくさん存在する。
 例えば、「コップに入った水の表面で、水分子は上を向いているのか、下を向いているのか?」というテーマ。分子レベルになると、モノそのものは、ぼくの目にも見えない。
 ぼくも瑠偉も凝り性で、総統からは「謎があれば解けるまで考え続ける研究者気質は見事なものだ」と、呆れ半分に誉められる。でも、その実、ぼくたちは謎を放置することにも、ある程度は慣れている。そうじゃなきゃ気が狂う。
 ただ、放置しづらい謎もある。
 放置できるかできないかの基準は、たぶん、サイエンスという枠組みを超えている。倫理的な、あるいは生理的な、もしくは感性的な基準があるように思う。
 瑠偉が吐き捨てた。
「何ていうか、胸クソ悪いんだよな。今回の件」
「ずいぶん熱くなってませんか?」
「勘が騒ぐんだよ。宝珠絡みのチカラが働いてんじゃないかって。海牙の玄獣珠がやたらと活性化してるし」
「玄獣珠の状態、瑠偉にもわかりますか」
「わかるさ。おれだって預かり手の端くれなんだ。辰珠《しんしゅ》は総統に差し上げちゃって、もう預かり手の責務を放棄したけどさ、その代わりに高校入学以来、ずっと玄獣珠と海牙のお守りをしてんだ。変なことがありゃ、すぐ気付くよ」
「お守りって言い方はないでしょう。でも、瑠偉にも玄獣珠の様子がわかっているなら話が早い」
 玄獣珠から伝わってくる鼓動のようなリズムは今、高鳴っていて速い。以前、放心状態の動物を見たときもそうだった。脚を投げ出して座り込んだ女の子たちに、玄獣珠が不快感を示している。逃げ出したがっている。
「なあ、海牙、確かめたいことがあるんだ。玄獣珠が反応するかどうかを見たい。気になる人物がいてさ」
「その人物に会いに行って反応を見るってことですか? 誰なんです、それ?」
「二年の文天堂祥之助《ぶんてんどう・しょうのすけ》。大富豪の御曹司で天才児って、校内でも有名人だ。知ってるか?」
「知りません」
「クラスメイトの顔も名前も覚えない男だったな、おまえ」
「興味のない男の顔と名前なんて、覚えるだけ無駄でしょう?」
「女なら全員覚えるのか?」
「興味のない女、以下略」
 瑠偉の話によると、文天堂祥之助は、文系では全国トップレベルの成績らしい。学年が違う上に文理が違うから、まったく知らなかった。
 さらに、文天堂家は県内でも有数の資産家だという。市内には文天堂グループ傘下のファッションビルがある。本屋が入っていない複合ビルなんて、ぼくは行く機会もないけれど、デートスポットとしてその名前を見聞きしたことくらいはある。
「その文天堂祥之助が、あの動物たちと関連しているんですか?」
「野良を、あいつが大量に買ったらしい」
「あの女の子たちは?」
「文天堂って、モテるらしいぞ。人脈がとにかく広いって話だ」
「瑠偉、その疑惑はどのくらいの確度があると考えてます?」
「胸クソ悪いこと言ってるって、自分でもわかってるよ。でも、おれはさ、辰珠くらいのちゃっちい宝珠のチカラでさえ、人間ひとりの人生を狂わせるのには十分だって、子どものころに目撃したんだ。超常的なチカラの前では、誰が何をしたっておかしくないと思う」
 瑠偉の口調は確信的だ。でたらめを口にする男じゃない。それなりに調べて証拠をつかんだ上で、物を言っている。
「どこからそんな情報を?」
「最初は勘だよ。でも、文天堂を尾行して、実際に見た。あいつが、あの異様な放心状態の不良少年少女をはべらせてる現場。それと、黄色っぽい光、みたいなもの」
「黄色っぽい光?」
「みたいなもの、だよ。マクスウェルが電磁波の一種であると唱えた光、それ自体じゃなくてさ」
「アインシュタインが粒子と唱える光、それ自体でもない?」
「おまえが持ってる玄獣珠がボワッと光って見えるほうの、光。光みたいな何かだけど、三次元的に科学できないアレ」
 ぼくは軽い頭痛を覚えた。
「昨日の今日で、この展開ですか」
「どした?」
「昨日、能力者に出会ったんですよ」
「マジ?」
「しかも、四獣珠の預かり手のうちの一人でした」
「宝珠って、集まりたがらない性質を持ってるだろ?」
「用事があるときは集まるようですよ」
「つまり、その用事があれか?」
 瑠偉は、放心状態の女の子たちへと、あごをしゃくった。
「もしそうだとしたら、ぼくは何をすればいいんでしょうか。厄介だな」
「情報と仲間を集めるのがセオリーじゃねぇの? ひとまず、玄獣珠を文天堂祥之助に引き会わせてみよう」
 二年生の教室まで文天堂祥之助に会いに行く必要はなかった。ぼくと瑠偉が正門の前に至ったときだ。
 正門前には、生徒の送り迎えを想定した自動車用のロータリーがある。そこにドイツ製の黒い高級車が停まった。
 ボディガードが先に車を降りた。後部座席のドアを開けて敬礼する。
「行ってらっしゃいませ、祥之助さま」
 抜群のタイミングで姿を現した彼が、文天堂祥之助らしい。背丈は1,750mmほど。二年生としては、やや高い部類に入る。
 瑠偉が肩をすくめた。
「あれが噂の文天堂祥之助だ。天から二物を与えられたって評判の、なかなか華やかな顔してるだろ」
「天から二物程度なら、全然珍しくもないんですが。ぼくはもっと持ってますし」
「人前でそういうこと言うの、ほどほどにしとけよ」
 祥之助の両目の色に違和感があった。直感的に、黄色いと思った。でも、改めて観察しても、ただのブラウンだ。カラーコンタクトレンズでも入れている?
 玄獣珠が、かすかに何か言った。いや、そんな気がしただけだろうか。
 立ち止まっていたぼくと瑠偉に、祥之助は顔をしかめた。
「邪魔だ。そこ、どけよ」
 挨拶もなく、傲慢なセリフ。声変りしたばかりのような細い声なのが、命令口調の生意気さに拍車をかけている。
「年上の人間に対して、初対面で、その口の利き方ですか?」
「はぁ? 年上が何だって? ちょっと先に生まれたくらいで、無条件に敬われるとでも思ってるのか?」
「その考え方には同意しますが、いきなりケンカ腰で命令されるのはいただけませんね。ぼくのような天邪鬼《あまのじゃく》を前に、きみの態度は最悪に愚かしいふるまいだと忠告しておきますよ」
 瑠偉がため息交じりに言った。
「おまえこそ、口調だけソフトでも、ケンカ腰じゃないか。いちいち過激なんだよ、海牙は」
 祥之助が目を剥いてのけぞった。弾んだ前髪の動きが妙に硬いのは、ワックスでも使っているんだろうか。そういえば、眉の形も整えてあるし、香水のような匂いもする。
 オシャレに手間をかける人間が大都高校にいるなんて、ちょっと想像できなかった。何せ、のっぺりしたグレーの詰襟をキッチリ着るせいで「墓石」とからかわれるのが、伝統的で典型的な大都高校の生徒だ。
「海牙って、おまえが、あの阿里海牙?」
「フルネームの呼び捨てとはまた失敬ですね。まあ、何にせよ、ぼくのことをご存じでしたか」
「知らないはずがないだろう。ボクはずっとずっとずっと……」
 祥之助の両目に光が宿った。黄色い光、みたいなものが。
 玄獣珠がドクンと激しく鼓動する。瑠偉がハッと顔を上げる。
 ざらざらとして低い声が祥之助の口から染み出した。
【ずっとずっと、我は、汝《なんじ》らを怨《うら》んできた……】
 祥之助の口が動いた。声変わりしたばかりの細い声が言った。
「おまえを怨んでいる。こうも立て続けに屈辱を与えらえたのは初めてだ。許せない」
「怨む? 何のことです?」
 ブラウンの目がぼくをきつくにらんでいる。玄獣珠は反応しない。
「ボクはおまえを超えなければならない。しょっちゅう学校を抜け出して遊び歩いてる程度のおまえなんかに負けていられない」
「超えるって、成績のことですか?」
「現時点では、阿里海牙、おまえが去年叩き出した全国模試の順位や点数のほうが、ボクよりも上だ。でも、これからボクが引っ繰り返してやる。ボクは必ずおまえに勝たねばならない。なぜなら、ボクには背負うべきものがあるんだからな」
「背負うべきもの?」
「ボクには将来が約束されている。それはつまり、将来への責任がすでに発生していることを意味する。ボクは誰にも負けられない身分にあるんだ」
 ぼくはかぶりを振った。いちばん話が噛み合わないタイプの相手だ。
「きみと競うことに興味ありませんね。きみが勉強するのは、現在と将来の名誉のためなんですね? ぼくは違う。ぼくはただ、知りたいことや学びたいことがあるから勉強するんです。成績なんて、その副産物に過ぎません」
 ぼくは祥之助に背を向けて、歩き出した。瑠偉が隣に並んだ。
 祥之助が何かをわめく。声が裏返る。あのざらざらした低い声ではない。さっきのは何だったのか。
 足音が走り寄ってきた。攻撃的な手がこちらへと伸ばされる気配。ぼくは振り返りざま、ローラースケートが入ったスポーツバッグを叩き付けた。
「すみませんね、手加減できなくて。背後に立たれるの、苦手なんですよ」
 祥之助のボディガードが右手を抱えて呻いた。祥之助は、ボディガードには目もくれず、ぼくに指を突き付けた。
【玄獣珠の預かり手よ、汝に話がある】
 ざらざらした低い声。音ではない、意識に直接突き込まれる思念の声。
 ぼくの顔色が変わったせいだろう、祥之助がニヤリとした。
「放課後、午後七時に正門前で待っていろ。怖がらなくていい。話し合いだ。食事くらい出してやる」
 瑠偉がぼくを見た。喉が干上がる感触がある。
 玄獣珠のことを知られている。不気味で不快だ。祥之助も宝珠の預かり手なのか? でも、四獣珠ではない。だったら、何者?
 ぼくは口元に薄い笑みをこしらえた。あせりも不快も、悟られたくはない。
「お断りします」
「何だと?」
「放課後には先約がありますので」
 祥之助が鼻にしわを寄せて、にらみながら笑うような、鼻の上から見下す表情をした。
「おまえを招いているのは、ボクではない。彼はボクのように温厚ではないよ? 怖い目に遭いたいのか?」
「いえ、どう考えても、先約をスルーするほうが怖い目に遭うんですよね」
 今日の十九時は、玉宮駅前のストリートライヴだ。さよ子さんとの約束をすっぽかしたら、怖いというか、ひたすら面倒くさい目に遭う。
 祥之助について何もわからない状態で、一人で誘いに乗るのは愚策だ。総統に話すほうがいい。朱獣珠の理仁《りひと》くんにも連絡を取りたい。
 ぼくが再び背を向けると、今度は、祥之助は追ってこなかった。
 例のロックバンドは、瑪都流《バァトル》という。襄陽学園の三年生三人と二年生二人の五人組だ。
 さよ子さんから連絡が来て、瑪都流のサイトのアドレスを教えられた。ライヴまでに予習をしておくように、と。
 瑪都流は、オルタナティヴロックというジャンルに分類されるバンドらしい。オルタナは、セールス重視のメジャー音楽とは違う、「ロック好きによるロック」だそうだ。
 サイトにアップされていた歌詞に、思いがけず惹かれた。
 青くさい、かもしれない。日本語として文章の技巧が優れているわけでもない。ただ、自分にも聴き手にも嘘をつきたくないという不器用なほどの一途さが感じられて、悪くないなと思った。
 十九時ちょうどに玉宮駅の北口広場に到着した。さよ子さんに、いきなり苦情をぶつけられる。
「十分前行動! 女の子との待ち合わせは、早めに着いておくべきです!」
「迷ったんです。すみませんでした」
「誠意のこもってない謝罪、ひどい!」
 でしょうね。こめてませんから。
 キャンキャン吠え続けるさよ子さんの小言を聞き流して、ぼくは、さよ子さんの隣に立つ人を注視した。
 色白で小柄な女の子だ。長い黒髪に、目の形は典型的なラウンド・アイ。白目に対して青い虹彩が大きい、いわゆる「つぶらな目」の美少女だ。
 でも、問題は顔立ちじゃない。彼女の胸元にチカラを感じる。異次元的で計測不能なエネルギー。無機物でありながら、鼓動に似たリズムで、光のようなものが収縮する。
 あれは間違いない。
 ぼくの胸の上で、玄獣珠が静かに鼓動を速めている。
 と、次の瞬間。
 さよ子さんの猫パンチが飛んできて、ぼくはのけぞった。
「海牙さん、どこ見てるんですか! いくら鈴蘭が巨乳だからって、まじまじと観察しないでください!」
 なんて無礼な勘違いだ。推定825mm・Eカップの胸を観察していたわけじゃない。サイズをチラッと計測しただけだ。
「鈴蘭さん、とおっしゃるんですか? 不思議なペンダントを付けているんですね。チカラを持った青い石。そうでしょう?」
 ぼくは小声の早口で言った。駅前広場の雑踏の中、声はぼくたち三人にしか聞こえないはずだ。
 さよ子さんが勢いよく鈴蘭さんを振り返った。
「もしかして、鈴蘭も超能力が使える人だったの?」
 鈴蘭さんの青い目がうろうろとさまよう。
「あの、超能力っていうか、えっと……」
「ゴメン、いきなりな言い方しちゃった。鈴蘭、警戒しなくていいよ。うちのパパもそうだし、この海牙さんもそうだから」
「え……ほんと?」
「うん、ほんと。だから、わたしの前では隠し事をしなくて大丈夫。わたし、バラさないし、パパに頼んで鈴蘭を護衛してもらうこともできる」
 鈴蘭さんはうなずいて、短くギュッと、さよ子さんに抱き着いた。そして、ぼくを見上げて言った。
「あなたも四獣珠の預かり手ですよね?」
 この人はどんなチカラを持っているんだろうか。見たところ、鈴蘭さんの身体能力は一般的な文科系の女の子だ。筋力の乏しさは、さよ子さんといい勝負。
 ぼくは笑顔を作った。
「阿里海牙といいます。玄獣珠の預かり手です」
「青龍の安豊寺鈴蘭《あんぽうじ・すずらん》です。あの、瑪都流のライヴは、事情がわかっていて来られたんですか?」
「事情?」
「あ、ご存じないんだ。すぐわかると思いますけど、瑪都流のヴォーカルの……」
 会話はそこまでだった。
 瑪都流のスタンバイが完了したらしい。簡潔なMCが入って、ギターとベースが短いフレーズで掛け合いをして、ヴォーカリストがフロントマイクの前に立つ。
 その途端、止める隙もない猛烈な勢いで、さよ子さんと鈴蘭さんが駆け出した。
「ライヴ始まるーっ! 煥《あきら》センパーイ!」
「寧々《ねね》ちゃん、場所取りありがとーっ!」
 重要な情報を話そうとしていたんじゃないのか? 四獣珠の問題よりも、インディーズの高校生バンドのほうが重要?
 玉宮駅の北口広場は、ストリートライヴのメッカらしい。十六歳以上で市の許可を取っているならば、二十一時まで演奏が許されると聞いた。
 さよ子さんたちが押さえていた場所は、最前列ではなかった。ヴォーカリストの正面、およそ十メートル離れた位置にある外灯の下だ。外灯の土台が花壇を兼ねて一段高くなっているから、縁のブロックに登れば、人の頭越しにバンドメンバーの姿が見える。
 ハイテンションに飛び跳ねながら手招きされたので、ぼくもさよ子さんたちの場所に合流した。花壇の下に立って、さよ子さんに尋ねる。
「もっと前に出ないんですか?」
「このあたりで聴くのが、いちばんキレイに聞こえるんです!」
 演奏が始まってすぐ、さよ子さんの発言の意味がわかった。
 瑪都流の編成は、ヴォーカル、ギター兼コーラス、ベース、キーボード、ドラム代わりのPCだ。スピーカーはそれぞれ一台ずつ、計五台を使っている。だから、場所によって音量のバランスが違う。
 ヴォーカルの入らないイントロが奏でられる。RPGのオープニングで冒険の始まりを告げるファンファーレのような、聴き手の期待を掻き立てる曲調。
 うまいな、と思った。ぼくは楽器をしたことがないから、音楽理論的にどうだということはわからない。ただ、体の芯にスッとなじむ音だと感じた。
 イントロが唐突に終わる。長身で栗色の髪のギタリストが、ヴォーカリストと視線を交わした。
 ヴォーカリストは、銀色の髪、琥珀色《アンバー》の目。左右で誤差の少ない、意表を突かれるほどに端正な顔立ちだ。銀髪の隙間からチタン合金製のリングのピアスがのぞいている。
 ああ、なるほど。
 彼が話題の人か。
 四獣珠の預かり手の、最後の一人。Tシャツの内側に隠したペンダントが、白く冴える光のようなものを発して、ひそやかに脈打っている。
 ぼくの観察は、しかしそこで、彼の声によって阻まれた。
 出だしからのいきなりのサビに揺さぶられた。


 モノクロな感情世界に どうか
 小さな光が降ります様に


 サイトで読んだ詞だ。銀髪の彼が書いているらしい。彼の名前は、伊呂波煥《いろは・あきら》。ぼくより一つ年下。さよ子さんと鈴蘭さんのお目当ての人だ。


 哀しみの色は黒
 眩《まぶ》しすぎる光に怯《おび》える僕に
 寄り添う影と同じ色

 哀しみよ
 いつでも君がいてくれるから
 孤独じゃないんだ
 喪《うしな》ったことが哀しいのは
 大事なものを喪ったせいだ

 モノクロな感情世界で迷子の僕が
 置き忘れてきた涙

 大事なものがあったんだと
 大事に思う心があったんだと
 黒い影の哀しみに寄り添われて
 僕はそれを知る

 一人でいても孤独じゃない


 不思議な声だ。
 甘い声ではない。深い声でもない。明るい声でもない。そんなふうに簡単に「モテる声」として記号化できる声ではない。
 しなやかに伸びる声だ。澄んでいて、少し硬い声だ。空気が一切の抵抗を放棄して彼に従って忠実に振動してみせるかのように、張り上げてもいない声がどこまでもよく通る。
 ぼくは目を閉じた。歌声にいざなわれて、音だけの世界へ連れ去られる。


 怒りの色は白
 遠い空に明るく燃える星の
 高すぎる体温と同じ色

 怒りよ
 自分じゃないものを想って
 心を燃やしたときに
 初めて
 濁らない色をした君に出会えたんだ

 モノクロな感情世界で見付けたよ
 貴方がいつか流した涙

 憎むんじゃなく 恨むんじゃなく
 僻《ひが》むんじゃなく 妬《ねた》むんじゃなく
 大事なものを想う純粋な
 怒りが此処に燃える

 貴方はいつも孤独じゃない


 ロック、という言葉が持つ荒々しい印象も内包している。けれど同時に、今にも壊れてしまいそうに儚《はかな》い。ひどく繊細な唄だ。
 詞の中に歌われた高温の天体を思った。
 数億歳の巨大な天体でも、誕生は一瞬の光だ。死もまた一瞬の光だ。その一瞬を観測できたら奇跡。
 そんな奇跡を、この目でいつか見てみたい。星空に目を凝らして、そこにひしめく無数の計算式の中から運命の一閃を見極めて、待ちかまえる。世界じゅうの宇宙物理学者や天文学者を動員して、ぼくの発見と理論を全世界で共有できたら。
 夢があるんだ。この先もずっと伸びていくはずの一枝の未来で、ぼくは、学び続けて生きていたい。
 目を閉じて、知覚し得る情報の量を落として、暗がりの中で自分自身をのぞき込む。心地よい音楽は、ぼくが無防備になることを許している。肩の力が抜ける。


 モノクロな感情世界で手を繋いで
 孤独じゃない一人と一人で

 混じらない様に 濁らない様に
 忘れない様に こぼさない様に
 別の色の感情を探しに
 僕達は歩き出す

 喜びの色は 空の色と丘の色
 楽しさの色は 花の色と夕日の色
 捕まえたら壊れるから
 そっと見つめるだけ


 モノクロな感情世界にいつか
 小さな虹が架かる様に
 曲の余韻の中で、さよ子さんに呼ばれた。
「海牙さん?」
 ぼくは目を開ける。正直に言った。
「いいですね、彼らの音楽」
「海牙さんの普通の笑顔、初めて見た! いつももっと計算高そうな笑顔ですよね!」
「本人の前でその言い方をしますか」
 一時間半のライヴは、あっという間だった。ぼくはほとんどずっと目を閉じたまま、心地よい音楽の中にいた。
 だから、隣に立たれていたことに、しばらく気付かなかった。
 ライヴ終了のMCが聞こえて目を開けて、右の頬に視線を感じて、ハッとした。
「リアさん!」
「こんばんは」
「聴きに来られてたんですか」
「弟の友達なのよ、彼ら」
 彼らというのは、もちろん瑪都流のことだ。理仁《りひと》くんは少し離れた場所で、ナンパでもしているのか、女の子たちと話している。
「ぼくも人に誘われて聴きに来たんですけど」
「さっきまですぐ近くにいたショートボブの子でしょ? きみの彼女?」
「違います。全然違います。お世話になっているかたのお嬢さんで、ぼくは護衛を頼まれただけです」
「ふぅん。ねえ、ちょっと横向いて。さっきみたいに」
「こうですか?」
 突然、リアさんの手がぼくの頬に伸びてきた。反射的にビクッとしてしまうのを、うっかり制御しそびれた。
 リアさんの指先は少し冷えている。その指が、ぼくの髪をそっと持ち上げた。
「前髪の形、どうするのがいいかしら? 長めでもいいと思うけど、今はちょっと長すぎ。それにしても、横顔、ほんとにキレイね。まつげがまっすぐで長くて、うらやましい。天然つけまつげだわ」
「最後の一言、矛盾してません?」
「肌もキレイ。お手入れも何もしてないんでしょ? ずるいなあ」
 かすかな夜風が吹いた。肌寒い空気に、ふわりとしたいい香りが混じっていて、ぼくは思わず息を止めた。
 たぶん、リアさんの髪の匂い。それとも、肌にひそませた香水の匂いだろうか。
 不自然な沈黙が落ちてしまった。ぼくは浅い息をして、体をこわばらせたまま言った。
「すみませんが」
「何?」
「動いてもいいですか?」
「ダメ」
「……あの」
「冗談よ。ゴメンね、急に。きみの横顔を見てたら、どうカットしようかなって楽しみになって。今度の月曜、できれば私服で来てね」
 当然のことだけれど、髪に神経は通っていない。だからぼくはリアさんの指の感触を知覚したわけではないのに、変だ。髪のあたりからふわふわと発熱するようで、息が苦しい。
「服はヴァリエーションがなくて。モノトーンしか持ってません」
「無難すぎ。派手な色でも着こなせそうだし、かわいいと思うわよ」
「かわいいって」
 ぼくはそんなタイプじゃないのに。
 瑪都流は楽器を片付けながら、気さくな様子で聴衆と話をしている。唯一、ヴォーカリストの煥くんだけは、さっさと輪を離れた。が、クールな一匹狼に、果敢に声をかける勢い余った姫君が二人。逃げ腰になる煥くんには同情を禁じ得ない。
 栗色の髪のギタリストは作曲とコーラスもこなして、MC担当のバンドマスターでもある。理仁くんが彼に話しかけると、まわりは女の子でいっぱいになった。
 リアさんが紹介してくれた。
「理仁と話してるのが、伊呂波文徳《いろは・ふみのり》くん。ヴォーカルの煥くんのおにいさんで、理仁が気を許してるたった一人の相手ね」
 気を許せる友達。ぼくにとっての瑠偉みたいなものか。
 人の輪の中心に立って、理仁くんは楽しそうに笑ったりしゃべったりしている。ぼくに向けていた社交的な笑顔よりずっとリラックスしているように見えるのは、リアさんから文徳くんの紹介を受けたせいだろうか。
「理仁くんに話したいことがあるんですが、しばらく待つ必要がありそうですね」
「話って、四獣珠のこと? 今この場に四つともがそろっているんでしょ。理仁がそう言ってた」
「リアさんは、四獣珠について、よくご存じなんですね?」
「そうね。海牙くんより知ってると思うわ。朱獣珠には振り回されてきたの」
 含みのある口調だった。それに続く説明があるかと思って、ぼくは黙って少し待った。でも、リアさんは何も言わない。結局、ぼくが再び口を開く。
「宝珠は本来、バラバラの場所で眠っているべき存在だと聞いています。預かり手は、宝珠に願いをかけることは禁忌で、ただ預かって次代に渡す。ぼくは生まれつき、預かり手という厄介な役割を担っていますが、聞いていた以上の厄介事が起こりかけているようです」
「起こりかけている、じゃないわね。すでに起こってしまっている。この十数年、何度も宝珠を使っている人物がいるから」
「なぜ、そんな……」
「そんなこと知ってるかって? 今はまだ訊かないで。全部を話せるほどの深い仲じゃないでしょ?」
 冷たく強い口調に、ぼくは、息の根を止められた思いだった。
 口角の上がった唇の形にだまされていた。リアさんが微笑んでいるとばかり思っていた。違う。リアさんの目は今まで一度も笑っていない。
 理仁くんがぼくを見て、リアさんと同じ笑い方をした。
 彼は文徳くんのそばを離れて、煥くんに声をかけた。煥くんは素直に応じて、理仁くんと一緒にこちらへやって来る。さよ子さんと鈴蘭さんもくっついてくる。
「ってことで、四獣珠関係者、集結~。いやぁ、奇遇だね」
 のんきな口調で言う理仁くんに、さよ子さんが声をあげた。
「理仁先輩もチカラの持ち主だったんですか!」
「え、さよ子、この先輩のこと知ってるの?」
「鈴蘭、何で知らないの! イケメンで気さくで優しいって、超有名なのに!」
 理仁くんが仕切って、簡単に自己紹介し合った。
 煥くんの声は、歌っていなくても特徴的だった。ささやいているようでいて、よく通る。彼の身長が意外と低いことに驚かされた。1,704mmといったところだ。歌っているときの存在感は、実際の身長や体積を超えて、もっと大きかった。
 琥珀色の目をきらめかせて、煥くんは理仁くんをにらんだ。
「それで? 預かり手を集めて、何のつもりだ?」
「おれが集めたわけじゃないよ。白獣珠も言ってない? 『因果の天秤に、均衡を』ってさ」