「え?」
「本当に、すっきりしたん? そうは見えんのんじゃけど」

 その言葉に、ぴくりと私の身体が揺れた。

「ほう……ですか?」

 心なしか、声まで震えている。

「ウチの気のせいなんかね?」

 あやかママは、こちらをじっとまっすぐに見つめている。
 なんだろう、なにもかも、見透かされているような。そんな、視線。

 けれどあやかママはふいっと視線をそらして小さく笑った。

「まあ、すっきりしたんじゃったら、それでええんじゃけど」

 そして足を組んで、その上に肘を置いて、頬杖をついている。

 この人は。
 この人は、なにもかもを見透かしている。
 そんな確信にも似た思いが沸き上がる。

 隠さずに言ってしまえ、と私の心が囁いている。
 幸いなことに、周りには誰もいない。
 言ってしまえ。
 この胸の中にあるものをどこかで吐き出さなければ、潰されそうな気がしていた。
 今、私にその機会が与えられている。

 私はゆっくりと口を開く。

「本当は」
「うん?」

 あやかママはこちらに振り向く。私の話に耳を傾けてくれている。
 これを聞いても、彼女はまだ私を否定しないでいてくれるだろうか。

「本当は、私、おかしいなって、思うとった」

 私は何度か、彼の部屋を訪れていた。
 一人暮らしの男の部屋。物はそんなにないのに、乱雑で。小さなキッチンには、ろくな調味料もなくて。ゴミ袋には、カップ麺の空の容器と割り箸がいっぱいで。洗濯物は近くのコインランドリーでまとめて洗うんだと、洗濯籠の中に放り込まれていて。

 女の影なんて、ひとつもなかった。
 最初は確かに、疑ってなんていなかった。
 疑いだしたのはいつ頃からなのか、自分でもわからない。

 その疑惑を、婚活パーティに一緒に行った友人にも、そして彼自身にも言わなかった。誰にも言わなかった。

 言ったら終わりだと思ったから。
 彼との恋が終わってしまうと思ったから。

 けれど私は気付いていた。何かを見たわけでもない。何かを聞いたわけでもない。ただ、会話の端々で、ときどき訪れる微妙な間を私は感じ取っていた。

 出会いが婚活パーティなんだから、結婚についてもっと突っ込んで話をしたいのに、私が結婚について話すことはあっても、彼からはない。
 けれど、「どう思う?」と踏み込んで訊けば、答えてはくれていた。
 結婚式を挙げるとすれば、広島ではなく彼の地元で。けれどこちらに友だちがいるから、広島では友人たちだけ集めたパーティでいいんじゃないか、だなんて話までした。

 焦らずに、納得いく形にしていこう。俺たちは出会ったばかりなんだから。
 そんな風なことを何度も言われて、そこまで強引に結婚について話をしたことはなかった。
 確かに婚活パーティではあったけれど、結婚相談所ほど結婚に直結した出会いの場ではなかったので、そういうのが普通かな、と納得もした。

 焦らずにゆっくりと育んでいく。それは特におかしなことではなかったと思う。
 けれど次第に、私の中に疑惑が沸いてきていた。
 それは、女の勘、というものだったかもしれない。

 この人は、私の知らないどこかに、家庭というものを持つ人だ、と。
 私はそれに気付いていた。

「私は一方的に被害者じゃない。なのに被害者面して、馬鹿みたい」

 なんだかじわりと涙が浮かんできた。

 一生懸命、否定しようとした。
 だって、結婚指輪をしていない。私の前で掛かってくる電話は、仕事の電話ばかりだ。いつ家に行ったって、慌てた様子もない。部屋の合鍵だって渡してくれた。

 結婚している人が、そんなはずはない。
 私は何度も何度も、そう心の中で唱え続けた。

 彼に訊けば、答えたのかもしれない。だから、訊けなかった。

 私は彼が既婚者だと知ったあの日からも、胸に抱いていた疑惑については口を閉ざした。
 友人にも、会社の人にも、もちろん彼の奥さんにも、そして彼自身にも、言わなかった。

 結婚している、と奥さんの弁護士さんに聞いたときも、私は「結婚しているだなんて、知りませんでした」と答えた。茫然自失、といった私を見て、弁護士さんは納得したようだった。むしろ気の毒そうに眉尻を下げた。

 コミュニケーションアプリの彼とのやりとりの記録も全部見せた。それだけではなく、友人との会話も見せた。
 『パーティに誘った私よりあんたのほうが早く結婚しそうね』、なんてメッセもあった。『今度、ブライダルフェアに行ってみようかな』『でもちゃんとしたプロポーズは彼からして欲しいし』なんていうはしゃいだものもあった。

 私は見事なまでに、なにも知らない、騙された馬鹿な女だった。
 私から彼を訴えることもできると言われた。けれどそれには首を横に振った。

「もう、いいです」

 会議室で隣に座っていた部長がそれに異を唱えた。

「ほんまにええんか? ワシは怒ったほうがええ思うで」
「いいんです」

 頑なにそう言う私に、部長も諦めたようだった。

「まあ、引きずらんでもええことではあるわいのう」

 ため息とともにそう言う。
 私の前に座る弁護士さんも、面倒なことにならずに済んだと思ったのか、食い下がることはなかった。

 けれど私がそのとき考えていたのは、引きずらないとか面倒だとか、そんなことではない。

 早く逃げなければ、と思ったのだ。早く逃げださなければ、ボロが出る。
 そう、私がまっさきに考えたことは、保身だった。
 彼との時間が終わることを悲しむよりも、私はまず我が身の安全を図ったのだ。