あやかママはそんな私を見て、はあ、と大きくため息をつく。
「ほいでも、絵里ちゃんが無理して受け継がんだってええんよ」
「私が続けるの、……嫌なん?」
もし会えたら。一番、訊きたかったこと。
もしかしたら迷惑だって言われるかもしれない。余計なことをするなと思われているのかもしれない。
だとしたら、手放すことだって覚悟しないといけない。
それがどんなにつらくても。
だって『エスケープ』は、『あやかママの店』なのだ。
「あの店は、ウチが開いたお店なんよ」
「うん」
あやかママの言葉に、ぴくりと私の肩が揺れる。
そうだ。あやかママの、一番大切なもの。一番大切な場所。
私が、勝手に受け継いだ。私が、奪い取った。
あやかママがこちらに手を伸ばしてくる。
そして。
私の頭の上に、ぽん、と手のひらを乗せた。それは、生前と変わらない温かさを持っていた。
「結論から言うとね、嫌じゃないわ。ありがたいとは思うとる」
「ほんま?」
私はほっと息を吐き出す。
それを見て小さく笑うと、あやかママは手を自分の膝の上に戻した。
「ほいでも、絵里ちゃんの人生なんじゃけえ、絵里ちゃんの好きに生きんにゃいけんわ。人の人生受け継いどる場合じゃないわ。ウチは自分一人のために生きたわ。好き勝手生きたけえ、あんまり未練もないんよね」
そう言って、軽く肩をすくめる。
「でも、幽霊になっとる」
「じゃけえ、妖精なんじゃって」
苦笑しながらあやかママは言う。
人の人生を受け継いだ、そんな綺麗なものじゃない。
私がどうしても手放したくなくて、迷惑かもしれないと思いながら、そこには目をつぶって手に入れたものだ。
「私が好きで受け継ぎたいんじゃけど」
「ほいならええけど」
「ほいでも、あやかママみたいに上手くできとらんけど……」
私がそう言うと、あやかママは私の肩をバンバン叩きながら笑った。
「できるわけないじゃろ! 絵里ちゃんは大学時代に、ウチが働きよった店でバイトしただけじゃん。『エスケープ』を開店してからはそりゃ、こき使ったけど、そんなに長うはないじゃろ。ウチが何年水商売やっとる思うとるんよ。そんなすぐにできたら、ウチの立場がないわ!」
痛い。叩き過ぎ。あと笑い過ぎ。
私は叩かれた肩を押さえながら、言った。
「……何年やったんよ」
「ウチ、十六んときからバイトでやっとるよ。本格的にやり始めたんは十八んとき」
「恐ろしい……捕まるわ」
私は自分に抱き着くようにして、二の腕をわざとらしく擦った。
まさかその頃から、ビールをグビグビ飲んでいたんだろうか。
……飲んでいたんだろうな。
「昔は今より緩かったけえね」
あやかママは、苦笑しながらそう言う。
「樹里ちゃんなんか、十五のころからやっとるわ。まあ年は誤魔化しとったけど」
「ああー……」
もういろいろと、突っ込みが追い付かない。
樹里ちゃんも今はもう、二十二歳だから今はいいのだけれど。
あやかママの『エスケープ』開店が四年前だから、十八歳。
……ギリギリだ。
「ま、樹里ちゃんに頼りんちゃい。あの子はええ子よ。水商売に向いとるわ」
私はその言葉にうなずく。
樹里ちゃんがいなかったら、『エスケープ』はここまで続いていないだろう。
「うん、人の顔と名前は間違えんし、ボトルも全部覚えとるわ。あの子についとるお客様もたくさんおるし」
「そうじゃろ。あの子もいつか、自分の店を持つんじゃないかね」
「それは……どうかなあ」
『エスケープ』の前の店で初めて樹里ちゃんと働くことになったとき、当時ちぃママだったあやかママは言った。
「字面が似すぎとるわ。絵里ちゃんは、かえで、ね。売れっ子によくある名前だから」
と、勝手に、しかも安易に、源氏名を決められたのだった。
けれどなんだか新しい人生を与えられたような気がして、少し嬉しかったのを覚えている。
それは樹里ちゃんも同じだったようで、名前を変えられずに済んだ、と嬉しかったらしい。樹里という名前も、あやかママが決めたのだそうだ。
最初は、樹里ちゃんと私は仲が良くなかった。
お店ではにこやかに話すけれど、お客様がいなくなったと同時に、二人ともそっぽを向いてしまうような関係だった。
たぶんそれは、二人とも、あやかママをお店のママというだけではなく、本当にママのように思っていたから、お母さんを取り合うような姉妹の気分だったのではないか。
あやかママが『エスケープ』を開店したあとも、週に二回くらいお店を手伝ったけれど、樹里ちゃんはやっぱり私とは距離を置いていた。
そうこうしているうちの、突然のあやかママの訃報。
葬儀のときは、いろんな人を呼んだ。あやかママの名刺ホルダーはお客様がほとんどだったけれど、片っ端から連絡した。
そんな薄い関係だから、あまり来ないだろうと思っていたら、たくさんの人が来てくれて、用意された葬儀場の部屋に入りきらないくらいだった。そして、皆、泣いてくれた。
特に樹里ちゃんは酷くて、棺にすがってワンワン泣いて、離れようとはしなかった。
棺を炉に入れるときには、樹里ちゃんはもう立てなくなってしまっていた。
けれど私も、喪主でなかったら、そうしていただろうと思う。無事に終わらせなければ、と気力だけで立っていたようなものだった。
私は火葬場で火葬を待っている間、椅子に呆然と座り込んでいる樹里ちゃんに言った。
「樹里ちゃん、『エスケープ』、続けよう」
樹里ちゃんは涙に濡れた顔を上げた。
「はあ? あやかママのおらん『エスケープ』なんか、『エスケープ』じゃないわ。かえでちゃん、バカなんじゃないのっ?」
そう言って、またワンワン泣いた。
「ほいでも、あやかママの一番大事なもの、無くしたくないけえ」
樹里ちゃんはその言葉に、声を出すのを止めて、顔を上げる。
しばらくじっと、私の顔を見つめる。どれだけそうしていたか、わからないくらい、長い時間だった。
「……うん」
そして樹里ちゃんはうなずいた。
涙はとめどなく、ぼろぼろと流れ続けていた。けれど掠れた声で、樹里ちゃんはしっかりと発音した。
「ウチも、無くしたくない」
「大学、卒業したら、再開店するけえ」
「うん」
「そうしたら、来て」
「うん」
「あと少しじゃけえ、待っとって」
「うん」
樹里ちゃんは、何度も何度も涙を拭って、そして椅子から立ち上がった。
私たちは、そうしなければ、立ち上がれなかったのだ。
「ありがとう、かえでちゃん」
そう言って、樹里ちゃんはまた声を上げて泣いた。妹みたいだな、と思った。
「ほいでも、絵里ちゃんが無理して受け継がんだってええんよ」
「私が続けるの、……嫌なん?」
もし会えたら。一番、訊きたかったこと。
もしかしたら迷惑だって言われるかもしれない。余計なことをするなと思われているのかもしれない。
だとしたら、手放すことだって覚悟しないといけない。
それがどんなにつらくても。
だって『エスケープ』は、『あやかママの店』なのだ。
「あの店は、ウチが開いたお店なんよ」
「うん」
あやかママの言葉に、ぴくりと私の肩が揺れる。
そうだ。あやかママの、一番大切なもの。一番大切な場所。
私が、勝手に受け継いだ。私が、奪い取った。
あやかママがこちらに手を伸ばしてくる。
そして。
私の頭の上に、ぽん、と手のひらを乗せた。それは、生前と変わらない温かさを持っていた。
「結論から言うとね、嫌じゃないわ。ありがたいとは思うとる」
「ほんま?」
私はほっと息を吐き出す。
それを見て小さく笑うと、あやかママは手を自分の膝の上に戻した。
「ほいでも、絵里ちゃんの人生なんじゃけえ、絵里ちゃんの好きに生きんにゃいけんわ。人の人生受け継いどる場合じゃないわ。ウチは自分一人のために生きたわ。好き勝手生きたけえ、あんまり未練もないんよね」
そう言って、軽く肩をすくめる。
「でも、幽霊になっとる」
「じゃけえ、妖精なんじゃって」
苦笑しながらあやかママは言う。
人の人生を受け継いだ、そんな綺麗なものじゃない。
私がどうしても手放したくなくて、迷惑かもしれないと思いながら、そこには目をつぶって手に入れたものだ。
「私が好きで受け継ぎたいんじゃけど」
「ほいならええけど」
「ほいでも、あやかママみたいに上手くできとらんけど……」
私がそう言うと、あやかママは私の肩をバンバン叩きながら笑った。
「できるわけないじゃろ! 絵里ちゃんは大学時代に、ウチが働きよった店でバイトしただけじゃん。『エスケープ』を開店してからはそりゃ、こき使ったけど、そんなに長うはないじゃろ。ウチが何年水商売やっとる思うとるんよ。そんなすぐにできたら、ウチの立場がないわ!」
痛い。叩き過ぎ。あと笑い過ぎ。
私は叩かれた肩を押さえながら、言った。
「……何年やったんよ」
「ウチ、十六んときからバイトでやっとるよ。本格的にやり始めたんは十八んとき」
「恐ろしい……捕まるわ」
私は自分に抱き着くようにして、二の腕をわざとらしく擦った。
まさかその頃から、ビールをグビグビ飲んでいたんだろうか。
……飲んでいたんだろうな。
「昔は今より緩かったけえね」
あやかママは、苦笑しながらそう言う。
「樹里ちゃんなんか、十五のころからやっとるわ。まあ年は誤魔化しとったけど」
「ああー……」
もういろいろと、突っ込みが追い付かない。
樹里ちゃんも今はもう、二十二歳だから今はいいのだけれど。
あやかママの『エスケープ』開店が四年前だから、十八歳。
……ギリギリだ。
「ま、樹里ちゃんに頼りんちゃい。あの子はええ子よ。水商売に向いとるわ」
私はその言葉にうなずく。
樹里ちゃんがいなかったら、『エスケープ』はここまで続いていないだろう。
「うん、人の顔と名前は間違えんし、ボトルも全部覚えとるわ。あの子についとるお客様もたくさんおるし」
「そうじゃろ。あの子もいつか、自分の店を持つんじゃないかね」
「それは……どうかなあ」
『エスケープ』の前の店で初めて樹里ちゃんと働くことになったとき、当時ちぃママだったあやかママは言った。
「字面が似すぎとるわ。絵里ちゃんは、かえで、ね。売れっ子によくある名前だから」
と、勝手に、しかも安易に、源氏名を決められたのだった。
けれどなんだか新しい人生を与えられたような気がして、少し嬉しかったのを覚えている。
それは樹里ちゃんも同じだったようで、名前を変えられずに済んだ、と嬉しかったらしい。樹里という名前も、あやかママが決めたのだそうだ。
最初は、樹里ちゃんと私は仲が良くなかった。
お店ではにこやかに話すけれど、お客様がいなくなったと同時に、二人ともそっぽを向いてしまうような関係だった。
たぶんそれは、二人とも、あやかママをお店のママというだけではなく、本当にママのように思っていたから、お母さんを取り合うような姉妹の気分だったのではないか。
あやかママが『エスケープ』を開店したあとも、週に二回くらいお店を手伝ったけれど、樹里ちゃんはやっぱり私とは距離を置いていた。
そうこうしているうちの、突然のあやかママの訃報。
葬儀のときは、いろんな人を呼んだ。あやかママの名刺ホルダーはお客様がほとんどだったけれど、片っ端から連絡した。
そんな薄い関係だから、あまり来ないだろうと思っていたら、たくさんの人が来てくれて、用意された葬儀場の部屋に入りきらないくらいだった。そして、皆、泣いてくれた。
特に樹里ちゃんは酷くて、棺にすがってワンワン泣いて、離れようとはしなかった。
棺を炉に入れるときには、樹里ちゃんはもう立てなくなってしまっていた。
けれど私も、喪主でなかったら、そうしていただろうと思う。無事に終わらせなければ、と気力だけで立っていたようなものだった。
私は火葬場で火葬を待っている間、椅子に呆然と座り込んでいる樹里ちゃんに言った。
「樹里ちゃん、『エスケープ』、続けよう」
樹里ちゃんは涙に濡れた顔を上げた。
「はあ? あやかママのおらん『エスケープ』なんか、『エスケープ』じゃないわ。かえでちゃん、バカなんじゃないのっ?」
そう言って、またワンワン泣いた。
「ほいでも、あやかママの一番大事なもの、無くしたくないけえ」
樹里ちゃんはその言葉に、声を出すのを止めて、顔を上げる。
しばらくじっと、私の顔を見つめる。どれだけそうしていたか、わからないくらい、長い時間だった。
「……うん」
そして樹里ちゃんはうなずいた。
涙はとめどなく、ぼろぼろと流れ続けていた。けれど掠れた声で、樹里ちゃんはしっかりと発音した。
「ウチも、無くしたくない」
「大学、卒業したら、再開店するけえ」
「うん」
「そうしたら、来て」
「うん」
「あと少しじゃけえ、待っとって」
「うん」
樹里ちゃんは、何度も何度も涙を拭って、そして椅子から立ち上がった。
私たちは、そうしなければ、立ち上がれなかったのだ。
「ありがとう、かえでちゃん」
そう言って、樹里ちゃんはまた声を上げて泣いた。妹みたいだな、と思った。