結局私は、会社を辞めることにした。
 課長は最後まで残るように説得してくれたけれど、私は意思を曲げなかった。

 自分で決めたから。
 逃げることを。

 会社を辞めて、次の就職先がすぐに見つかるかもわからない。
 誇れるような特技もない、凄い職歴があるわけでもない、二十六歳の女が入社できる会社が本当にあるのだろうか。
 不安で仕方ないけれど、きっとなんとかなる。いや、なんとかするんだ。

 私はもう一度、第二新天地公園に行ってみた。
 前と同じように、ビールを買って、神社にお参りして、ベンチに座って待った。
 私の決断を、あやかママに報告したかった。

 けれど、いつまで経っても、あやかママは現れなかった。

 やっぱりそうだよね、と私は考え直す。
 あの日たまたま、あやかママはここにいたのだ。妖精のふりをして……いや、見た感じ、まったく妖精ではなかったけれど、妖精の話を知っていたあやかママは、親切心から私の話を聞いてくれたのに違いない。

 だから私は、あやかママのお店に行くことにした。

          ◇

 あやかママがあのとき指さした、雑居ビルの中に入る。
 入ってすぐのところにある、店の名前が書かれた案内パネルで三階のところを見た。

 端から順に見ていく。そして。
 『エスケープ』と書かれたパネルを、三階の列の一番端っこに見つけた。
 思わず、息を呑んだ。
 本当だ。本当にあった。

 私は一つ、息を吐く。
 やっぱり、あやかママは妖精ではなくて、普通のホステスさんだったんだ。
 妖精だなんて馬鹿なことを考えたものだなあ、なんて私は小さくくすりと笑う。

 それにしても、女一人で入っても大丈夫なお店なんだろうか。
 ぼったくりのお店とかだったらどうしよう、だなんて考えてしまう。
 いや、何十万とか言われたら困るけれど、多少高いくらいなら払える。それにきっと、あやかママのお店なら大丈夫だ。

 私はエレベーターに乗り込み、三階のボタンを押す。
 チン、という音とともに扉が開き、私は三階に降りる。三階には四店ほどの店が並んでいて、その一番奥に「エスケープ」はあった。

 私はそろそろと店に歩み寄り、頭上の看板を確認すると、ドアノブに手を掛けた。
 ゆっくりと開けたつもりだったけれど、思いの外、大きな音でドアベルが鳴り、驚いて見上げてしまう。

「いらっしゃいませー」

 店の中、カウンターの内側から、一人の女の子がそう声を掛けてきた。
 私は思わずその子をじっと見つめる。
 まっすぐな黒髪が肩を過ぎたあたりで切り揃えられていて、真っ赤なスーツを着こなしていて、バッチリと化粧はしているけれど、どこか幼さを感じる子だ。どう見積もっても二十歳そこそこなのではないだろうか。
 違う。あやかママじゃない。

「あ、あの」

 私は扉から顔だけを覗かせて中を見た。
 カウンターに十席ほど。ボックス席が一つ。まさしくスタンドだった。まだお客さんは一人もいない。開店したばかりなのかもしれない。女の子はカウンターに並べられたコースターをまとめているところだった。

 そして店の中にはその女の子しかいない。
 あやかママの姿はない。

「えっと」
一見(いちげん)さん?」

 女の子は首を傾げてそう問うてくる。

「あ、は、はい」
「待ち合わせ? それともお一人?」
「ひ、一人です」
「ここ、女の子の店じゃけど、大丈夫かね?」

 接客をするのが女性のお店、という意味だろう。女の客は入らないようなところなのかもしれない。
 入店する前にそう訊いてくれるのなら、きっと良心的な店なのだろう。

「はい、お願いします」
「じゃあ、こちらどうぞー」

 手のひらで、手前から二番目のカウンター席を差されたので、私はそこにおずおずと座る。
 女の子はおしぼりを保温機から一つ取り出すと、それを広げて私の目の前に差し出した。

「あ、ありがとうございます」

 私はおしぼりを受け取り手を拭いてから、それを畳んでカウンターの上に置いた。
 女の子はカウンターの向こうでなにやらゴソゴソと用意しながら、申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「ごめんなさい、女の人が一人っていうのは珍しいけえ、いろいろ訊いてしもうて」
「いえ」
「はい、チャームとオード」

 女の子は私の前に、コースターと箸と、それからお菓子とおつまみを、手早く置いていく。

「一見さん、いうことはボトルはないんよね? 今日はたちまち(とりあえず)、お店のボトルを出しときますね」

 後ろの棚に並んだブランデーの瓶の中から一つを手に取ると、カウンターの上に置いた。
 それからグラスに、氷をポイポイとアイストングで入れ始める。

 その間、私はキョロキョロと店を見渡した。
 カウンターの後ろの棚には、ギッシリとボトルが並んでいる。
 照明は割と明るくて、店の端にある大きな花瓶の中のカラーの花を照らしていた。
 天井近くには、野球選手のものらしきサインが何枚か飾られていて、誰のだろうと見てみたけれど、読めなかった。

「はい、どうぞ」

 女の子が私の前のコースターに水割りが入ったグラスを置いて、私は慌ててそちらに視線を移した。