そんな風に家を飛び出しはしたけれど、実はその私立高校はちゃんと卒業した。
両親は学費は払い続けてくれたようだった。
でもそれは私のためというよりは、世間体を考えたものだったのではないかと思う。
家を飛び出した私がどこから高校に通ったかというと、母方の叔母の家だった。
叔母という人は、ときどき母と連絡を取っていたようだけれど、親戚の集まりにも顔を出さず、誰も話題に出さない。
いわゆる『勘当』された人だった。
年賀状が毎年届いていて、「川本美代子」という名前だけは知っていた。「川本」は母の旧姓だった。家を出るときに、こっそりとその一枚を抜き取ったのだ。
独身貴族で、一人暮らし。いつか母が零していたのを覚えていた。
『勘当』された人。私と同じ。もしかしたら、部屋の隅にでも置いてもらえるかもしれない、と考えた。
年賀状に書かれた住所を探して、叔母の家にたどり着く。大きくはないけれど小綺麗なマンションだった。
追い返されるかもしれない。けれど他に行くところを知らない。さすがに友だちに頼るわけにもいかないし、普通の高校生が両親の協力もなしに一人暮らしなんてできるわけもない。
藁にも縋る思いで、インターホンを鳴らした。
インターホンのスピーカーから「はーい」という声が聞こえた。私は縋りつくようにインターホンに顔を寄せ、早口で言う。
「おばさん。美代子おばさん。私、姪の絵里です」
「絵里ちゃん?」
とても小さかったころに、母方の祖母の家で会ったことがある。ほとんど記憶には残っていなかった。たぶんその頃はまだ『勘当』はされていなかったのだろう。
けれどとても優しくて、私の「なんでなんで攻撃」に、笑顔で答えてくれたことだけをやけに覚えていた。
祈るような気持ちで、ドアノブを見つめていると、それが回った。
出てきた叔母は、大きな黒縁メガネの向こうで、驚いたように目を何度も瞬かせている。
寝ていたのか、ノーメイクで、グレーの上下スウェットで、ぐしゃぐしゃの髪を後ろで一つにまとめていた。
「どしたんね、急に。まあ大きゅうなって」
「美代子おばさん。ここに置いてください」
私が勢い込んでそう言うと、彼女は「ええ?」と素っ頓狂な声を上げた。
今考えれば、ずいぶん甘えた選択だったな、とは思う。
幼いころに会ったことはあるけれど、『勘当』されてからは一度も会っていない人。
そんな人に、『親戚』というだけで縋ろうとしたのだ。
冗談じゃない、と追い返されても仕方なかった。
「ようわからんけど、まあ入りんちゃい」
けれど美代子おばさんは、私を部屋に入れ、ミルクたっぷりのコーヒーを淹れてくれ、私の話をただ淡々と聞いていた。
それからテーブルの向こうで、うーん、と腕を組んで考え込んでから、顔を上げた。
「えーとね、とりあえず、姉さんに確認するけえね。誘拐とか言われても困るけえ」
携帯電話を手に取り、アドレスから母の電話番号を見つけたらしい美代子おばさんは、電話を耳に当てた。
「もしもーし、姉さん? あのねえ、絵里ちゃん来とるんじゃけど。そう。うん。……はあ?」
美代子おばさんは立ち上がり、部屋の外に出て行った。なかなか帰ってこなくて、私はそわそわと辺りを見渡したりコーヒーをちびちび飲んだりしていた。
外で美代子おばさんがなにか言っているのは聞こえてくるけれど、なにを喋っているのかまでは聞き取れない。
しばらくして、どうやら話はついたらしく美代子おばさんの声が聞こえなくなり、そしてドアノブが回る。
部屋の中に帰ってくると、美代子おばさんは小さく肩をすくめて言った。
「ここから学校に通いんちゃいね」
「えっ」
「えっ、てなによ。そうしたいんじゃろ?」
「あ、は、はい」
私はこくこくとうなずいてそう返事する。
「そっちの部屋、荷物いろいろ置いとるけえ、適当に整理して使いんちゃい。狭いけど」
今いるダイニングキッチンの隣の部屋を指さして、事もなげにそう言う。
「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします」
慌てて立ち上がってペコリと頭を下げると、美代子おばさんは、ふう、とため息をついた。
「ウチ、今日休みなんよね。寝るわ」
そう言って、あくびを一つ、した。
「詳しいこたぁ、明日にして」
そう言うと、黒縁メガネを外してテーブルの上に投げるように置き、奥の部屋に引っ込んでいく。
私は呆然とその背中を見つめて見送ったあと。
荷物を持って、言われた部屋の扉を開けた。
物置として使っていたのだろう。カーテンが閉め切られた、四畳半の部屋だった。手探りで壁を触るとスイッチらしきものがあって、押してみると電気が点いた。
そこに、引っ越してきたときのまま開封していないのか、いくつかのダンボールが積み重ねられている。
押入れを開けてみると、やたら大きなバッグのようなものに包まれていた何かがあったので覗く。それは布団だった。来客用のものを突っ込んでいるのかもしれない。
荷物を置いて、もう一度、通されたダイニングキッチンに戻る。
私は椅子を引いて座ると、しばらくそこにぼうっと座り込んで部屋を見渡した。
美代子おばさんが今寝ている部屋と、物置になっていた四畳半の部屋と、ダイニングキッチン。2LDKの部屋。ここが、美代子おばさんの城。
今からここに住むなんて、嘘みたい。しかもこんなにあっさりと。
私はテーブルの上に残っていた私の飲みかけのコーヒーを口につけた。
もう冷めてしまっていたけれど、なんだかほっとした。
両親は学費は払い続けてくれたようだった。
でもそれは私のためというよりは、世間体を考えたものだったのではないかと思う。
家を飛び出した私がどこから高校に通ったかというと、母方の叔母の家だった。
叔母という人は、ときどき母と連絡を取っていたようだけれど、親戚の集まりにも顔を出さず、誰も話題に出さない。
いわゆる『勘当』された人だった。
年賀状が毎年届いていて、「川本美代子」という名前だけは知っていた。「川本」は母の旧姓だった。家を出るときに、こっそりとその一枚を抜き取ったのだ。
独身貴族で、一人暮らし。いつか母が零していたのを覚えていた。
『勘当』された人。私と同じ。もしかしたら、部屋の隅にでも置いてもらえるかもしれない、と考えた。
年賀状に書かれた住所を探して、叔母の家にたどり着く。大きくはないけれど小綺麗なマンションだった。
追い返されるかもしれない。けれど他に行くところを知らない。さすがに友だちに頼るわけにもいかないし、普通の高校生が両親の協力もなしに一人暮らしなんてできるわけもない。
藁にも縋る思いで、インターホンを鳴らした。
インターホンのスピーカーから「はーい」という声が聞こえた。私は縋りつくようにインターホンに顔を寄せ、早口で言う。
「おばさん。美代子おばさん。私、姪の絵里です」
「絵里ちゃん?」
とても小さかったころに、母方の祖母の家で会ったことがある。ほとんど記憶には残っていなかった。たぶんその頃はまだ『勘当』はされていなかったのだろう。
けれどとても優しくて、私の「なんでなんで攻撃」に、笑顔で答えてくれたことだけをやけに覚えていた。
祈るような気持ちで、ドアノブを見つめていると、それが回った。
出てきた叔母は、大きな黒縁メガネの向こうで、驚いたように目を何度も瞬かせている。
寝ていたのか、ノーメイクで、グレーの上下スウェットで、ぐしゃぐしゃの髪を後ろで一つにまとめていた。
「どしたんね、急に。まあ大きゅうなって」
「美代子おばさん。ここに置いてください」
私が勢い込んでそう言うと、彼女は「ええ?」と素っ頓狂な声を上げた。
今考えれば、ずいぶん甘えた選択だったな、とは思う。
幼いころに会ったことはあるけれど、『勘当』されてからは一度も会っていない人。
そんな人に、『親戚』というだけで縋ろうとしたのだ。
冗談じゃない、と追い返されても仕方なかった。
「ようわからんけど、まあ入りんちゃい」
けれど美代子おばさんは、私を部屋に入れ、ミルクたっぷりのコーヒーを淹れてくれ、私の話をただ淡々と聞いていた。
それからテーブルの向こうで、うーん、と腕を組んで考え込んでから、顔を上げた。
「えーとね、とりあえず、姉さんに確認するけえね。誘拐とか言われても困るけえ」
携帯電話を手に取り、アドレスから母の電話番号を見つけたらしい美代子おばさんは、電話を耳に当てた。
「もしもーし、姉さん? あのねえ、絵里ちゃん来とるんじゃけど。そう。うん。……はあ?」
美代子おばさんは立ち上がり、部屋の外に出て行った。なかなか帰ってこなくて、私はそわそわと辺りを見渡したりコーヒーをちびちび飲んだりしていた。
外で美代子おばさんがなにか言っているのは聞こえてくるけれど、なにを喋っているのかまでは聞き取れない。
しばらくして、どうやら話はついたらしく美代子おばさんの声が聞こえなくなり、そしてドアノブが回る。
部屋の中に帰ってくると、美代子おばさんは小さく肩をすくめて言った。
「ここから学校に通いんちゃいね」
「えっ」
「えっ、てなによ。そうしたいんじゃろ?」
「あ、は、はい」
私はこくこくとうなずいてそう返事する。
「そっちの部屋、荷物いろいろ置いとるけえ、適当に整理して使いんちゃい。狭いけど」
今いるダイニングキッチンの隣の部屋を指さして、事もなげにそう言う。
「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします」
慌てて立ち上がってペコリと頭を下げると、美代子おばさんは、ふう、とため息をついた。
「ウチ、今日休みなんよね。寝るわ」
そう言って、あくびを一つ、した。
「詳しいこたぁ、明日にして」
そう言うと、黒縁メガネを外してテーブルの上に投げるように置き、奥の部屋に引っ込んでいく。
私は呆然とその背中を見つめて見送ったあと。
荷物を持って、言われた部屋の扉を開けた。
物置として使っていたのだろう。カーテンが閉め切られた、四畳半の部屋だった。手探りで壁を触るとスイッチらしきものがあって、押してみると電気が点いた。
そこに、引っ越してきたときのまま開封していないのか、いくつかのダンボールが積み重ねられている。
押入れを開けてみると、やたら大きなバッグのようなものに包まれていた何かがあったので覗く。それは布団だった。来客用のものを突っ込んでいるのかもしれない。
荷物を置いて、もう一度、通されたダイニングキッチンに戻る。
私は椅子を引いて座ると、しばらくそこにぼうっと座り込んで部屋を見渡した。
美代子おばさんが今寝ている部屋と、物置になっていた四畳半の部屋と、ダイニングキッチン。2LDKの部屋。ここが、美代子おばさんの城。
今からここに住むなんて、嘘みたい。しかもこんなにあっさりと。
私はテーブルの上に残っていた私の飲みかけのコーヒーを口につけた。
もう冷めてしまっていたけれど、なんだかほっとした。