「天界の食事も、魔界の食事も、本当は何も変わらない」
アズラーイールはそっと首を傾け、俺の顔をのぞき込む。
「ウソだね」
「魔界と天界は鏡像関係にある。本当は、同じ世界なんだよ。天使が神によって作られ、その天使が堕天使となり、魔界に堕ちたんだ。悪魔も元をたどれば、天使なんだ。神の創造物でもあり、そうである以上、平行に扱われるんだ」
「天使の戯れ言だ」
「人間界は、その二つがちょうど混ざり合う、狭間の世界なんだよ」
アズラーイールは、目の前に積み上げられた何かの山を、自らの手で俺に分け与えた。
「悪魔の世界でも、同じテーブルで同じ食事をした者は、仲間として認められるだろう。生き物は全て同じことだ。お前も一緒に、俺たちと飯を食え」
涼介は、手を合わせた。
「いただきます」
久しぶりにここにやってきたのに、まだろくに涼介と話しが出来ていない。
俺はここに、本当に飯だけを食いにきたわけじゃないんだ。
涼介は、アズラーイールが俺の前に置いたのと同じ料理を、自分で取り分けた。
それをほおばると、普通に飲み込む。
俺の隣に座ったアズラーイールも、同じようにそれを食べていた。
「なんだ、毒でも盛られてんじゃないかと思って、びびってんのか?」
「箸が使えないだけだ」
俺は二本の棒きれをつかむと、それを目の前のものに突き刺した。
本当は、箸の使い方は涼介に習って、覚えた。
サクリと手応えがして、持ちあげた細長い茶色いものに、一口かじりつく。
「エビフライだ。うまいだろ?」
魔法のキッチンクロスから食べる魔界の食事は、いつも自分の好きな物が食べたいタイミングで、どんなものでも、なんだって出てきた。
「初めて食べる」
「それはよかった」
目の前の涼介は笑った。
俺はそんな涼介をみながら、アズラーイールの勝手に取って置く料理を、もうほとんど自動的に口に運んでいる。
エビフライは、涼介がメニューとして提案したに違いない。
俺の数少ないお気に入りだ。
作るのが面倒くさいとか言って、あんまり作ってもらえなかった。
「腹減ってたのかよ」
「そうでもない」
涼介は、俺を見た。
俺はその目をじっと見返す。
何を考えているのか、読み取ろうとしても読み取れないのは、きっとアズラーイールが授けた、新しい祝福のせい。
このメンバーで食卓を囲むことなど、もう二度と、一生ありえないだろう。
何とも言い難い微妙な空気が流れる中で、俺たちは一言も口をきくこともなく、黙々と皿の上のものを胃に収める。
テーブルの上の料理が、ほとんどなくなりかけたころだった。
涼介はようやく、話し始めた。
「獅子丸、俺はね、お前ともう一度、ここで……」
ふいに、テーブルの脇にゲートが開く。
天界からのゲートだ。
そこから恐る恐る顔を覗かせたのは、一匹の小さな天使だった。
「おい、ドブネズミが顔を出したぞ」
俺がそう言うと、アズラーイールは、チッと舌をならす。
「なんの用だ。ここへは来るなと言っておいただろう」
「さすがは天使だ。どいつもこいつも、間抜けた面をしてやがる」
そう言って、俺は嗤う。
これは挨拶代わりのようなもんだ。
チビクズ天使は、驚きと恐怖にビクリと体を震わせた。
アズラーイールは、俺の頭を一発殴る。
「痛っ、ちょっと待て! この俺さまの頭を殴るとは、何事だ! 天使だろ? お前はお偉い天使じゃなかったのかよ!」
「どうした、何の用だ」
「あ、あの、どうしてもアズラーイールさまの決裁を仰がなければならない案件が、滞っておりまして……」
「見よう」
書類を渡した下級天使は、怯えたような目で俺を見ている。
俺はドンとテーブルに拳を突いた。
「おい、クソ天使! この俺に喧嘩を売るとは、いい度胸だ。どういうことになるのか、分かってんだろうな!」
突風を巻き起こす。
書類の数枚が舞い上がった。
「天界の極秘文書を俺の目の前に持って来るなんて、面白いじゃねぇか」
下級天使は、飛び散った書類を集めるふりをして、部屋の隅に縮こまった。
「アズラーイール! 俺がお前からの施しを受けたくらいで、それで手懐けたとか、悪魔から改心させてやろうとか、絶対にお前には出来もしねーこと考えて、調子こいてんじゃねーぞ!」
「うるさい、静かにしろ」
「この俺が大人しく施しを受けたのを見て、こっそり腹の底で嗤ったか? 俺がそれに気づいていなかったとでも、思ったか? 残念だったな」
「そんな風には、思っていない」
「嘘だ。涼介、こいつらがどれくらい信用のならない最悪な生き物か、俺が教えてやろう」
天使はその言葉に、静かに俺を振り返る。
「今すぐ魔界からお前にエサを持ってきてやろう、悪魔から天使への施しだ。俺の食ったものがそうじゃないというのなら、お前にだって食えるだろ?」
俺は右腕を伸ばし、その手の平を上に掲げた。
取り出したのは、腐った魚の骨だ。
「俺はお前からの施しを受けたぞ。どうだアズラーイール、お前も俺からの施しを受けてみろ」
下級天使は、慌ててアズラーイールに飛びつく。
「お、おやめ下さい、アズラーイールさま! 間違っても魔界の食べ物など、決して口になさってはなりません!」
俺はそれを、奴の前に差し出す。
「どうだ、お前らのような低俗には、決して出来まい。そんな勇気もないだろう。俺は食ったぞ、さぁ、どうする?」
天界の住人は、決して魔界の食べ物を口にしない。
それは自らの体が、悪に染まることを極端に怖れるからだ。
そうやって自分たちが蔑み、見下す世界の住人のものを、どうしてこの中級に片足を突っ込んだだけのような天使が、口に出来るだろか。
「あ、アズラーイールさまがそれを召し上がるくらいなら、私が食べます!」
「ほほう、面白い。お前が食えば、即死だぞ」
にやりと笑う。
ここで天使が死ねば、それはそれで面白い。
その魂の価値は、涼介どころじゃない。
「すぐに親父のところへ、お前の魂を届けてやろう。ありがたく、魔界の大公爵の糧となるがよい」
間抜けな天使が震えている。
アズラーイールは、目の前に浮かぶ骨を手に取った。
それだけで、触れた部分から瘴気がたぎる。
「悪魔の前で、要らぬ口を利くものではない」
そう言うと、アズラーイールは、一口で骨を飲み込んだ。
「これで気が済んだか」
それを飲み込んでも、顔色一つ変えないアズラーイールに、俺はぐっと口を閉じた。
階級は俺より格下でも、それなりの実力はあるってことか。
「アズラーイールさま!」
「お前はもう戻って、仕事の続きをしていなさい」
天界からのゲートが消えて、ようやく静けさが戻った。
テーブルの上には、まだ少し料理が残っている。
「もういらないのなら、片付けてしまおう」
そう言うと、アズラーイールは目の前の人参の欠片を一つ口にした。
そのまま黙々と片付けを進めるアズラーイールの横顔は、相変わらず無表情のままだ。
「残念だったな、この天使崩れめ。涼介を使って俺を騙そうとしたって、そう簡単にはいかねーぞ。これで分かっただろ」
表情を何一つ変えようとしない天使は、俺をじっと見つめる。
「俺はお前らには絶対に騙されないし、服従するつもりもない。絶対にだ。お前らがどれだけ邪魔をしようとも、俺は必ず目的を遂げる。それが俺の使命だからだ」
「獅子丸」
涼介の手が、俺に向かって伸びる。
それを振り払おうとして、だけどそれは涼介の腕をすり抜け、涼介は俺に触れた。
「触るな!」
俺からは触れられない体に、後ろに飛び退く。
「涼介、お前は、分かってたのか? 知ってたのか? どっちだよ、答えろ。こいつが俺の敵だってことを、こいつは絶対に、俺の味方や仲間ではないってことを、涼介、お前は知ってて、俺を今日、ここに呼んだのか?」
返事はない。
涼介の視線が、横へ流れる。
何も言わないということは、それが答えだということだ。
「最悪だな」
俺はそこから、姿を消した。
魔界へ向かって、地を堕ちる。
この世界の底にたどり着くまで、どこまでもどこまでも堕ちていけば、やがて魔界にたどり着く。
俺は魔界の門をくぐると、自分のいるべき世界へと戻ってきた。
魔界の月が、空を飛ぶ俺の姿を影に落とす。
その気配を感じただけで、森に住む魔物たちは、怖れをなして逃げ出した。
涼介に触れられた腕の部分が、妙に生暖かい。
俺はその気持ちの悪い感触を振り払おうと、凍る湖の底に身を投げた。
一瞬にして、全身が冷たい傷みに襲われる。
このままずっと、ずぶずぶと湖の底に沈んでいようか。
泥に埋まって、涼介の寿命が来るころに、もう一度外に出て、それを奪いにいこうか。
長くたって、せいぜい100年程度だ。
ここでサボってたって、誰も文句をいう奴はいない。
甘かった。
自分の考えが。
出来損ないの俺には、不出来な俺には、みっともなく恥ずかしく、バカで間抜けでとろい俺には、人間の魂すら、ろくに奪えない。
そんな簡単なことすら出来ない俺に、どんな価値があるのだろう。
凍る湖の底は、とても暗くて静かだった。
俺は湖底の泥に身を沈めて目を閉じる。
そうか、100年経てば、あいつはもう死んでるな。
100年後に目覚めたんじゃあ、遅かった。
だとしたら、どんなに辛くても、嫌でも苦しくても、やることはやらないとダメじゃないか。
俺をバカにするような奴らに、俺を見下して、陰で笑うような奴らに、やっぱりあいつはダメな奴だったと、そう思われたままではいたくない。
湖の水は、肌を貫くように冷たくて、俺はその痛みと共に、じっと眠りについた。
翌朝、俺は学校の廊下で、アズラーイールと鉢合わせた。
「なんだ、てっきり起き上がれないほど苦しんでいるかと思ったのに、アレを食っても平気だったんだな。もうここには、来られないだろうと思ってたのに」
そう言ってニヤリと笑うと、アズラーイールは俺を見下ろした。
「俺の施しは、全て人間界の食材を使った食べ物だったはずだ。確かに俺も調理には手をかけたが、お前に大したダメージはなかっただろう」
「仕方ないだろ、俺は悪魔だ。相手よりも、より卑怯な手を使うことばかりを考える。そうだろ?」
アズラーイールは、じっと俺を見下ろしている。
静かに口を開いた。
「よろしい。受けて立とう。ここからが本番だ」
奴は先に教室に入る。
そこに、その教室のサイズに合わせた結界を張った。
「おい! 卑怯者!」
先に座っていた涼介が、顔を上げた。
だけど俺は、この中には入れない。
「お前にそんなことを言われる筋合いはない。時間だぞ、早く入れ」
くそっ。
そうでなくても、中級天使の横にいるだけで、それなりのダメージを受けている。
それが意図して張った結界となれば、俺の魔力といえども、そう簡単には抗えない。
スヱが寄りつかないわけだ。
こんなところにいたら、あいつらレベルなど、一瞬で吹き飛ぶ。
俺は教室に足を踏み入れた。
全身の皮膚が溶けていくかのように、ピリピリとした痛みとかゆみが走る。
俺はその両方を振り払った。
アズラーイールと目があう。
奴はふっと笑った。
「おはよう。席につけ」
くっそ。
あの野郎、絶対天使なんかじゃない!
「珍しいじゃないか、こんな朝から、ちゃんと学校に来てるなんて」
なんとか席までたどり着いた俺は、そこに腰を下ろした。
隣の涼介は、俺に声をかける。
「昨日は、ゴメン。俺はさ、獅子丸と……」
俺は今にも押しつぶされそうな肺から、深く息を吐き出し、もう一度吸い込んだ。
「俺は、お前との契約をとるまで、帰れないからな」
「それ、まだ言ってんの?」
「俺がここに来た理由だ」
「なんだよ。じゃあ、契約がとれたら、帰るわけ?」
「当たり前だ」
俺は涼介をにらみつける。
ここにこうして座っているだけで、俺は今にも吹き飛ばされ、かき消されそうだ。
「俺に消えてほしければ、さっさと契約しろ。それであの天使と、仲良くやってればいいじゃないか。邪魔はしない。契約さえとれればな。勝手にやってろ」
「あのさ、獅子丸。いいからちょっと、話しを聞け」
「俺を騙そうとした奴の話なんか、聞けるか」
それに黙りこんだ涼介を見て、俺は笑った。
「ま、俺もお前を騙して契約させようとしてんだ。同じか」
「そこ、授業が始まるぞ、静かにしろ」
アズラーイールこと東先生がそう言うと、クラスの連中は笑った。
この俺を笑いものにするとは、許せない。
俺は教壇に立つアズラーイールをギロリと見上げると、そのまま席を立った。
教室を抜け出す。
さすがの俺でも、いきなりのあの結界に囲まれた光の中では、息が苦しい。
廊下に出て、やっと一息つく。
あの野郎、校内にも結界を張りやがった。
そのままふらふらと、壁に手をつきながら校内を歩く。
ダメだ、一度このうっとうしい光の外に出て立て直さないと、さすがにしんどい。
そのまま出入り口に向かって、のろのろと進む。
同じように授業をサボっているらしい、山下と鉢合った。
「な、なんだよお前。学校来てたのか」
俺を見て、おどおどと後ずさる。
そうだ、コイツを使えばいい。
スヱは役に立たなくても、人間のコイツなら、アズラーイールの結界も無効だ。
指先から札束を取り出そうとして、ピリピリとした痛みが走る。
それに気をとられているうちに、山下はいつの間にか逃げ出していた。
くそ、ここから少し離れないと、俺はカネすら出せなくなったのか。
ふらつく足で、校舎を出る。
校庭を横切り、閉じられた校門を飛び越えた。
結界の外に出て、俺はようやくそこで、一息をついた。
額に流れる汗をぬぐう。
「獅子丸さまあぁぁあぁっ!」
どこで見ていたのか、すかさずスヱが駆け寄ってくる。
「あぁあぁぁぁ、ご無事でなによりですぅうぅぅっ」
腕にしがみつくスヱを、俺は振り払った。
「使えない奴に用はない。目障りだ、消えろ」
「おぉお、お待ちくださいいぃぃ! わた、わたくしめにも、何かお役目をぉぉ」
まだ少し息が苦しい。
スヱは俺を見上げた。
「お前は俺の、何の役に立てるっていうんだ」
「山下を使えますぅぅ。もうあの男は、スヱの言うことなら、なんでも聞くようになってますからあぁあ」
「あの男か」
スヱは、にやりとうなずいた。
「では今すぐ、奴に命じて涼介をここに呼び出せ」
「獅子丸さまぁ」
スヱは、下から俺を見上げた。
「人間には、人間世界での習慣がありますぅ。それに逆らうと、逆に手間が増えるだけにございます」
スヱは、俺の制服についていた髪の毛を口にくわえると、それを飲み込んだ。
「私は元は、人間でございます。人間を扱うには、それなりのコツが必要です」
スヱの体から、俺の髪の毛一本分の瘴気がわきたつ。
「はぁぁ」
スヱは両腕を胸の前で交差させ、じっとうつむいていたかと思うと、ゆっくりと顔をあげた。
「これで、ちゃんとした人間に戻れました」
スヱの肌の色つやが、すっかりきれいになった。
以前は灰色のくすんだ白に近かったのが、赤味を帯びた柔らかな白に変わった。
顔も面長のしっとりとした大人顔であったのが、17の高校生らしい、小さな丸顔になっている。
「変わるもんだな」
「はい。私は、獅子丸さまに忠誠を誓います」
そういうとスヱは、俺の手をとった。
両方の手の平を合わせ、指を絡める。
「そのために、死地の沼から出てきたのです。ひと目あなたを見たその時から、心に決めておりました」
温かな手のぬくもりが、手の平から伝わる。
いつの間に、こんなにうまく化けられるようになった?
「獅子丸さま好みの、女になります」
そう言ったスヱの眉が、わずかに上がった。
「ん? 獅子丸さま、お好みのタイプは、涼介と同じですか?」
「俺が人間の女になど、興味が湧くわけないだろう。好きにしろ」
スヱの手をほどく。
歩き出した俺の隣に並んだスヱは、明るい色の、ふんわりとした肩までの髪を揺らす、女子高生の姿になっていた。
「ようやく、お役に立てそうです」
どうでもいい。
俺はそんなスヱを無視して、ぶらぶらと歩き始めた。
人間の街は、ごちゃごちゃとしていて、目にうるさい。
居心地は、悪くはないが良くもない。
何もかもが、入り交じっているせいた。
涼介の学校が終わるまで、どうやって時間をつぶそうか。
出てきた涼介と、何を話す?
涼介は、俺に何を話そうとしていたんだろう。
通り過ぎようとしていた人気のない公園で、俺は空を見上げた。
「獅子丸さま、人間というのは、集団で動くものにございます。特にこの日本では、決められた時間通りに……」
「どけっ!」
俺はスヱを押しのけた。
キラリと上空の空が光る。
俺は大きく後ろへ飛び退いた。
ドンッ!
激しい衝撃が、周囲の空気を奮わせる。
土煙の中から立ち上がったのは、全身を金色の毛でおおわれた雄牛だった。
まだ子供なのか、体は少し小さい。