悪魔公爵鷲頭獅子丸の場合

「ここで敵に背を向けるとは、お父さまもがっかりなさいますよ!」

山下の後を追って、階段を駆け上がる。

背後からは、スヱが執拗に追いかけて来ていた。

宙を舞い、その巨大な体を校舎の壁に打ち付ける。

吐く息は猛毒の息で、そうでなくても息苦しい俺の呼吸を、さらに妨げる。

階段の踊り場で俺に追いついたムカデが、飛びかかってきた。

目標を外した大顎は、階段にその牙をめり込ませる。

その隙に上階へと向かおうとした俺に、刃のような尾が振り下ろされた。

「くそっ」

その刃先が、俺の頬をかすめた。

わずかに血がにじむ。

俺は魔方陣を描く。

もう一度波動の刃を、その堅い殻で覆われた額に叩きつけた。

ムカデとなったスヱの悲鳴が、空気を切り裂く。

俺はようやく屋上へとたどり着いた。

山下は、錆び付いたフェンスの一部に穴を開けていた。

その横で、息も絶え絶えな涼介が横たわっている。

「涼介!」

駆け寄ろうとした俺よりも素早く、山下は涼介を抱え込んだ。

涼介は背後から腕を首元に回され、苦しそうにその腕にしがみついている。

「やめろ、何をする気だ」

「ねぇ、山下さん」

涼介は、かすれる声を絞り出す。

「山下さん自身は、どう思ってたのかは知らない。知らないけど、俺は、俺はうれしかったんですよ。山下さんや、他の仲間たちが、俺を受け入れてくれたこと」

涼介の顔色が悪い。

山下の腕は、さらにそれを締め上げる。

「放課後、とか、学校が休みの日に、一緒に、ゲームしてくれたり、お菓子を分け合って食べたこと、あの時間は、俺にとっては、あの頃の唯一の救いでした」

涼介を抱えた山下は、その体を引きずってフェンスの穴へと向かう。

「山下、さん、たちが、いてくれなかったら、俺は、きっと、もっと早く、弟と、母さんを……」

山下の体が、涼介ごとフェンスから身を乗り出す。

「山下、やめろ!」
俺は波動を山下に向かって飛ばした。

その空気の刃は、山下の腕を切り裂く。

その瞬間、校舎の屋上の床面が破壊され、巨大なムカデとなったスヱが姿を現した。

「獅子丸さま! 人間の魂とは、このようにして奪うものでございます!」

ムカデが襲いかかる。

俺は手の平の火球を、スヱに投げつけた。

山下は涼介を引きずったまま、校舎から飛び降りる。

「涼介!」

伸ばした手は、山下の体をすり抜け、涼介の足首をつかんだ。

俺はそれを引きずりあげる。

階下には、スヱに取り憑かれたまま転落した、山下の姿が見えた。

「それが偉大なる魔王の息子のすることか! なさけない! いつまでも屋敷の奥に引きこもり、甘えてばかりの出来損ないが! 聖人の魂くらい、なぜ奪えぬ!」

巨大なムカデが、怒りに狂い宙を舞う。

死んだ山下の体から、スヱとの契約を交わした魂が抜け出した。

スヱという低級妖魔にそそのかされ、命を落としたその小さな魂は、契約者の元へと漂う。

巨大なムカデとなったスヱは、それをガシャリと飲み込んだ。

若い人間の魂の力を得たスヱは、その力を増幅させる。

「それで魔界公爵家の跡取りとは、笑わせるな!」

涼介の息が細い。

「獅子丸、俺のことは、大丈夫だから」

「お前は何も心配するな」

無理な移動は出来ない。

止まった心臓を抱えた身では、体が重かった。

仕方がない。
「アズラーイール! 出て来い! お前の使命を果たせ!」

俺の呼び声に、天上のゲートは開き、天使はその姿を現した。

「涼介を頼む」

「お前に頼みごとをされる覚えはない」

その手には、天界の剣が握られていた。

「ちょうど都合がいいじゃないか。お前は短期間に二度も人間の死を引き受け、弱っている。あんな低級妖魔にこの剣を持ち出すのはもったいないが、お前が相手となると、話しは別だ」

アズラーイールは、その手に聖剣を構えた。

「お前を裏切ったあの女共々、冥界に送り出してやろう」

空中に浮かび上がったスヱは、アズラーイールの持つ剣を目にして、一瞬動きを止めた。

「獅子丸の肉を喰い、力をつければ、お前なんぞ敵ではない!」

スヱが襲いかかる。

その動きを見計らって、アズラーイールは横に動いた。

スヱを殴りつけたその俺に、聖剣が振り下ろされる。

跳び上がって、後ろに剣先をよける。制服の胸に一筋の切れ目が入った。

「あきらめて、今すぐ魔界へ帰れ。そうすれば、お前の命は助かる」

「それは、涼介の魂をあきらめろと言っているのか?」

「俺がきちんと面倒を見てやる。お前はもう関わるな」

剣は聖なる光を帯びる。

さらに力を増したそれを、アズラーイールは振り回した。

「天使のくせに、剣術も学ぶのか」

「悪魔のくせに、天界の流派を知っているとは、悪魔らしくもない」

スヱは無駄に長い体をぐるりとひねり、俺の背後から泥を吐いた。

飛び散った細かい泥は、俺の体を這い上がり、喉を締め上げる。

俺は目の前で剣を振りかざすアズラーイールの刃先をよけると、泥を引きはがし地面に叩きつけた。

振り下ろされる刃の下をかいくぐり、飛び上がって、少し離れた位置に降り立つ。

反撃を、しなければ。

そうは分かっていても、呼吸は荒く、軽くめまいもしている。

俺は胸に手をあて、止まった心臓に動けと命じた。

それはようやく、コトリと小さな音を一つたてる。
「悪魔公爵の息子といえども、大した力はないな」

アズラーイールはあざ笑う。

スヱが大顎で噛みついてくるのを避けた。

「おのれ、出来損ないの、甘えきったクソガキが!」

ムカデの尾が、校舎の屋上に叩きつけられる。

俺は魔界の屋敷にあった槍を、手元に取り寄せた。

もう少し、ちゃんと実践を積んでおけばよかった。

襲いかかるムカデの額に、真っ直ぐにそれを突き立てる。

スヱは悲鳴をあげた。

「スヱ、大人しくしておけ。所詮お前の力では無理だ」

「無理じゃない、無理などではない!」

その平たい顔の両端についた眼が、涼介の姿を捕らえた。

その瞬間、スヱの標的は涼介に変わる。

「先にお前の魂をいただいておこうか!」

ぬるりと体を動かし、聖人の力を手に入れようと、スヱは涼介に向かった。

その百の足の一本を、アズラーイールの聖剣が切り落とす。

べちゃりと音をたてて崩れ落ちたそれは、しかしもぞもぞと流動し、すぐに元の体に戻った。

「天界の剣も、大したことはないな」

「俺の持ってる剣とは、タイプ相性が合わなかっただけだ!」

「おのれ、天使め、お前も許さん!」

スヱがアズラーイールに飛びかかる。

それを何度切り裂いても、本体が泥であるスヱには、効果がないようだった。

「その剣は、なまくらか」

「そう思うのなら、お前も受けてみるがいい」

笑った俺を、聖剣が襲う。

その剣先は頬をかすめ、赤い血が流れた。

「今は涼介を守るのが先だ」
スヱの体の一部である汚泥が、床に残っている。俺はそこに槍を突き立てた。

「我に仕える従属よ、その力を我に戻せ」

スヱの魔力なんて、大したことはない。

だけど、スヱを俺の中に吸収してしまえば、簡単にスヱの魔力を無効化出来る。

少しは俺の、糧にもなる。

「あはははは、本当にお前は、何も知らない無知なお坊ちゃんだね」

スヱはその隠し持っていた魔力を、全て解放した。

強大な力が、周囲を圧倒する。

俺の手にあった槍は、一瞬にしてかき消された。

「バカ息子、お前がその人間と遊んでいる間に、私はこのあたり一体のあらゆる魂を奪いとり、魔物の類いも喰い尽くした。おかげで、この周辺が静かに綺麗になっただろう? それがお前を怖れてか、天使の加護とでも思ったか!」

スヱの体が、膨張し膨れあがる。

「お前の与えた力を糧に、お前と変わらぬ力を手に入れた。私はお前を倒し、公爵家の最初の娘となろう」

「お前に俺は倒せない」

「ならばそれを、証明してみせるがいい!」

ムカデの殻に、ヒビが入る。

ずるりとそこから脱皮したムカデは、さらに巨大化し、棘を持つ禍々しい姿に変形した。

中空をくるりと舞い踊り、口から毒液を吐き出す。

「なんだよ、お前の従属じゃなかったのか」

「そうみたいだな。騙された」

「ホント、そういうとこいい加減だよね」

「別にいらねーだろ」

転がった抜け殻を蹴飛ばす。

「つーか、こいつの正体はムカデだったのか?」

アズラーイールは言った。

「人間って言ってたんだけどな」

「お前はもっと、自分以外の周囲に関心を持とう」

俺は、全身に炎をまとう。

「だけどまぁ、火竜に育てられた俺に、やっぱり虫タイプでくるとは、残念な奴だ」
その炎を片手に集めると、ムカデの額に向かって投げつける。

それは堅い殻に覆われた眉間に当たり、はね返った。

「バカめ、その程度の火力で、私の体を燃やせると思うか」

体をひねり、大きな顎で噛みついてくるのを、俺はぎりぎりでよける。

スピードが上がっている。

アズラーイールの叩きつけた剣は、その堅さにカチンと火花を散らした。

「どうする?」

「殺虫剤でも持って来るか」

「お前がとってこい」

「魔界のより、天界の方が効くんじゃね?」

動きが速い。

空を覆う無数の脚が、ガシャガシャと不気味な音をたてる。

そこへいくら火球を打ち込んでも、どれも効果はなかった。

聖剣の放つ、光の刃も刃が立たない。

ムカデの尾が、俺たちをなぎ払った。

コンクリートの床にたたきつけられる。

鋭い刃物のような尾が、俺とアズラーイールの体を切り裂く。

腕から血が流れた。

「お前、魔界からもっと有効な武器を取り寄せろよ」

「武器庫の大事なやつを勝手に持ち出したら、サランに怒られるんだ」

「じゃあさっきのは?」

「玄関に飾ってあったやつ」

実践で戦ったことなんて、ほとんどない。

うちに魔道書ならたくさんあるが、武器庫にあるのは、どれもサランの趣味で集めた装飾用で、実践向きではない。

本物の剣だなんて、サラン相手に数回しか握ったことはない。

俺はいま自分の出せる火力を、最大限にまで引き上げた。

「これでお終いだ!」

その炎を、魔剣として結晶化させる。

それを片手に飛び上がると、両手で握り直し、狙いを定めた。
「焼き尽くせ、我が名の下に、全てを灰と化せ!」

巨大ムカデが襲ってくる。

それはその刃先を、腹を覆う殻の間に突き立てた。

スヱが空を舞う動きに合わせて、炎の刃がムカデの腹を切り裂く。

悲鳴が大気を奮わせた。

全身を炎に覆われた巨大なムカデが、燃え尽きて地に落ちる。

その炎の中から、女は立ち上がった。

「おのれ、このクソガキが!」

俺の喉元を狙って伸びた触手のような泥を、アズラーイールの剣が切り落とした。

俺の目の前で、それはべちゃりと地に落ちる。

スヱの体が、ゆっくりと宙に浮かんだ。

「私の受けた屈辱と、積年の恨みを思い知るがいい!」

スヱは汚泥をまき散らした。

その泥が足に絡みつき、動きを封じ込められる。

「お前らのように、ぬくぬくと育ったような輩に、私の苦しみが分かってたまるか。私の願いは、今こそ完結する。あの沼から抜け出し、この世を制覇するのだ!」

足元から巻き付いた泥が、体を締め付ける。

それを振り払うだけの力は、俺に残っていなかった。

アズラーイールの剣も、役に立たない。

「先ずはお前から喰ってやろう。悪魔公爵ウァプラの息子よ。我が糧となり、力となるがよい」

スヱの口が、大きく裂けた。

毒息が吹きかかる。

鮫のように乱立した鋭い牙が、その口に並んでいるのが見えた。

そのスヱの向こうに、魔界のゲートが現れる。

それは、普通のゲートなんかじゃない。

幾重もの強力な魔法によって作られた、特別な者だけが通過することのできる、地獄の門。

その紋章に、俺は身震いする。

漆黒の闇を切り裂いて現れたそのゲートは、魔界の最下層に繋がっていた。

それを見上げるだけで、全身が凍りつくような恐怖と不安が襲う。

魔界の、真の魔力を持つ者によってのみ作られるゲートだ。
「おや、やっぱりあいつだよ」

「本当だ。なにやってんだ?」

「天使もいるみたいだぞ」

「なんだよ、だっせーな」

四匹の、漆黒の毛並みを持つ大きな犬が、そこから飛び出した。

空中をせわしなく駆け回りながら、その圧倒的な存在感で、周囲の空気を魔界のそれに変えていく。

脚元からは暗黒の瘴気が沸き立ち、吐く息は闇をまとい、その姿を見た者の生気を奪う。

辺りは完全に、魔界の一部と化した。

「これが、お前のすぐ上の兄たちか」

アズラーイールが、息を飲む。

「三千世界のうちの一つを滅ぼし、天界の剣に裂かれてもなお、ウァプラの力で蘇った魔犬」

その兄さんの、瘴気をまとった眼が、俺たちを見下ろす。

「天使が何か言ってるよ」

「誰だあいつ」

「あぁ、アズラーイールだ」

「なんでここにいる?」

一匹の犬が、俺とそっくりな人間の姿に、形を変えた。

「こんな感じ?」

「あはは、よくできてるじゃないか」

「あそこにいるのは、誰だ?」

「邪魔だな」

スヱは両腕を掲げ、災悪の源である兄たちに誓った。

「悪魔公爵ウァプラの第二の息子であり、偉大な悪魔である四兄弟よ。どうか私をあなた方の従属としてお迎えください。その忠誠の証として、ここにいる天使と第三の息子を、生け贄として捧げます」

人間に姿を変えた兄は、再び本来の姿に形を戻した。

その一匹の巨大な犬が、スヱに噛みつく。

その一撃で、スヱの体は砂と化し宙に飛散した。

「うわっ、くっせ」

ぺっぺと唾を吐く兄さんを見て、他の三匹の犬は笑った。

「こいつは、こんな泥人形で遊んでたのか?」

「おもちゃを壊したんだ、また父さんに叱られるぞ」

「あいつ、すぐ泣くからな」

不気味な四つの笑い声が、空に響く。

俺は体を動かせないままでいた。
「我が家の恥め」

「どうする? やっちゃう?」

「待て、あそこに聖人もどきがいるぞ」

「父さんの矢の跡だ」

一匹の黒犬が、むき出しの牙で俺を襲う。

それは制服の袖を切り裂いただけで、俺の肌には、直接触れない。

「ぎゃはは、あいつ、やっぱびびってんぞ」

「やめろよ。それで前に叱られたんだ」

「バレなきゃいいだろ」

「サランが見てる」

アズラーイールは、その手にあった聖剣を、真横に構えた。

「ほら、あいつが魔界に連れ込んだ人間だ」

「あぁ、キツネの噂か」

「あいつら、嘘じゃなかったな」

「なんだよ、不味いもん喰わされただけか」

四つの笑いが、空に響く。

その声はこだまし、さらに魔界の瘴気を呼び寄せる。

「悪魔どもめ、このまま好き勝手にはさせん」

兄さんたちは、せわしなく空を駆け回っている。

アズラーイールの振り下ろした剣は、それにかすりもしない。

「なんだよ、あいつ、もしかして死んでんのか?」

「ぎゃはははは」

「あーあ、意味分かんね」

「あの人間の身代わりのつもりだ。頭が悪すぎる」

『左耳』の兄は、俺を見てあざ笑う。

「あいつの魂を見てみろよ。まだ半分が腐ってやがる」

「前からずっとだ。出来損ないめ」

「天使がいるよ」

「聖人の魂を奪うように、父さんから言われたんだ」

一匹の犬が、アズラーイールに向かった。

その牙が、天使の腕を切り裂く。

アズラーイールは、片膝をついた。