悪魔公爵鷲頭獅子丸の場合

俺は、学校帰りの涼介を待ち構えている。

校門を出てくるその姿を、ようやく見つけた。

「おい、涼介! 俺と契約しろ!」

そう言うと、涼介はプッと吹きだした後で、すぐに笑い転げた。

「なにがおかしい!」

「だって、獅子丸が面白いんだもん」

「俺は真剣だ!」

「俺だって真剣だよ」

涼介は笑う。

「だから、獅子丸とはケンカしたくない。ずっと、仲良くしていたい。獅子丸が、獅子丸でいられますように」

涼介の手が、俺の手に触れようと伸びてきて、俺はそれを振り払う。

だけど俺からは触れられないそれは、するりとすり抜けて宙に浮いた。

涼介の手は、俺の腕にそっと触れる。

「意味が分からん。俺はいつだって、俺のままだ。俺との契約を交わそうとしないお前の言葉なんて、誰が信じられる?」

俺はぐっと、拳を握りしめる。

「何度でも言おう。俺はお前の魂を、魔界に持って帰る。俺にはそうしなければならない、理由と責務がある」

涼介は何も言わず、じっと俺を見ている。

その柔らかな視線に、俺の神経は逆なでされる。

「お前もそうやって、やっぱり俺をバカにするんだな。お前が俺と契約しないのは、結局俺が悪魔だからじゃないか。これが天使のアズラーイールとなら、簡単にサインしたんだろ」

「違う。それは違うよ、獅子丸」

「ふざけんな。お前のそんなあいまいな態度に、俺はもう、いい加減うんざりしてるんだ。もういい、十分だ。お前がその気なら、俺にだってやり方はある」

俺は呪文を唱え始める。

天使の祝福にも負けない、強力な呪いだ。
「俺はお前を助けた。分かるだろ? お前の命を、俺は救った。あの天使がお前を本当に助けるかどうか、自分の目で確かめるといい。その上でもう一度聞こう、お前が本当に契約を交わしたいのは、どちらなのかということを」

「俺は知ってるんだよ、獅子丸。それはお前が見せる幻覚で、本当ではないってことを」

俺は涼介に、呪いをかけた。

悪魔の呪いだ。

涼介の体は見る間に年老い、全身の皮膚はしわがれ、腰は曲がった。

やせ細り、立つ足がその体重を支えきれずに、震えている。

やがて全身の皮膚が真っ赤に腫れ上がったかと思うと、そこから体液が染み出し、ただれ始めた。

大量のウジが湧き、腐った肉はそげ落ちる。

涼介は、地に倒れこんだ。

髪は抜け、目も見えない。

まるで餓鬼だ。

耳だけは俺の声が聞こえるように、聴覚を残してある。

「この苦しみが、お前の命の尽きるまで、永遠に続くんだ。今すぐ解いて欲しければ、俺と契約を交わせ」

「もう残り短い命と知ったあとで、どうしてそんな誘惑に負けると思う?」

涼介は微笑んだ。その骨と皮だけになった醜い手で、俺を探し宙をさまよう。

「今の俺は、獅子丸の救った命だ。お前の好きにすればいい。ありがとう。感謝してるよ。君が来てくれたおかげで、俺の最期の数ヶ月は楽しかった。獅子丸、俺の怒りや憎しみ、苦しみ、悲しみを忘れさせてくれたのは、君が来てくれたからだ」

涼介の口から、どす黒い血がどっとあふれ出た。

それにむせて、咳き込んでいる。

「俺からは、魂は、あげられないけど、その代わりに、違う大切なものをあげる。それは多分、君が一番、本当に欲しいと思っているものだ」

涼介の魂に、再び黒い影が差した。

これは俺の呪いなんかじゃない。

本物の、魂の寿命だ。

「涼介!」

伸ばされた手を、俺はつかんだ。

それをつかめたのは、涼介自身が、俺を求めていたから。
「はは、ダメじゃないか。いつも言ってるだろ、キャラ守れって」

呪いが解ける。

涼介は、涼介に戻る。

「違う。俺の悪魔としての呪いのかけ方が未熟で、お前は祝福を受けているせいだ」

俺の手を握る涼介の力が、弱くなる。

その顔は、苦痛に歪んだ。

「また心臓か?」

その痛みを、もう一度俺にうつす。

こんなことをして、いつまでもごまかせるわけではないが、今この瞬間の死だけは、回避出来る。

動きの弱った涼介の心臓は、俺の体内で、静かに止まった。

機能を交換した俺の心臓は、涼介の消えそうな命を無理矢理支えている。

心臓の完全に止まった俺は、瞬間的に視界が闇に覆われる。

額に流れる汗をぬぐった。

「獅子丸さま」

その声に、俺は顔を上げた。

「獅子丸さまは、本当にこの人間の魂を手に入れたいと思っているのですか?」

スヱの顔は、怒りに歪んでいた。

「これが、悪魔公爵ウァプラさまの息子とは、本当になさけない」

スヱの体から、瘴気が走った。

とたんに、大きな雷が一つ、校舎に落ちる。

その力で、アズラーイールの張った結界は、かき消された。

「お前、いつの間にそんな力を!」

「人柱ですよ、山下を使いました」

「そんなことをすれば、あいつは今頃、意識を失って倒れているか、ヘタしたら、死んでるぞ!」

「や、山下さんが?」

涼介が、薄目を開けた。

「獅子丸さま、涼介にかける呪いは、そんな一般的な、魔界の教科書通りではいけません。これだから、本ばかり読んでいてはダメだと言われるのです」

スヱは、その両腕で魔方陣を組んだ。

「ご存じなかったでしょう? あなたがその男と遊んでいる間に、私が何をしていたのかを」

目の前に、山下が姿を現した。

目が、完全に死んでいる。

こいつは、スヱに憑依された、もはや抜け殻だ。
「呪いをかけるには、ちゃんとした素材を媒体に、その対象にとって有効な呪いをかけるのですよ、お坊ちゃま」

俺の意識と、涼介の意識がシンクロする。

涼介の頭の中に、過去の記憶が写し出された。

死んだはずの弟が、記憶の底から蘇る。

一佐はハサミを手に、涼介に襲いかかった。

それを何度も何度も、寝ていた涼介の胸に突き立てる。

起き上がった涼介は、弟一佐を突き飛ばした。

一佐はナイフを取り出す。

涼介は、胸に刺さったハサミを引き抜くと、それを弟の首元に突き刺した。

「やめろ! 違う、違うんだ!」

涼介が叫ぶ。

「何が違うっていうのよ。これがあの夜の、本当なんでしょ? あなたの記憶がどうかとか、真実だなんて、関係ないわ。私はあなたが苦しんでさえくれれば、それでいいんだもの」

一佐は涼介に襲いかかる。

一佐の手にしたナイフは、そこに現れた父を刺し、母親を刺し、自分自身を刺し殺した。

「さぁ、次はあなたの番よ」

一佐の亡霊が、立ち上がる。

銀のナイフを、涼介の上に振りかざした。

「やめろ」

俺はスヱの見せる幻覚を吹き飛ばす。

「獅子丸さま、獅子丸さまがその男の魂を要らないとおっしゃるのであれば、遠慮なく私がいただきます」

山下が、涼介の背後からつかみかかった。

「おい!」

それを引き離そうと、山下に伸ばした俺の手は、その体をすり抜ける。

「獅子丸さまのお相手は、私がいたします」

足元を、泥が覆い尽くす。

涼介は山下に引きずられるように、校舎に運ばれていく。

「お前、何をする気だ!」

「聖人の魂をいただくと、言いました」

くそっ。

俺は自分の体中にある、止まったままの涼介の心臓を動かした。

その鼓動はとても弱く、まともに動かせる状態ではない。

このまま無理にでも動かし続ければ、簡単に壊れてしまうだろう。

俺は引きずられていく涼介を振り返った。

だけど、ここで俺の心臓を涼介の体から外せば、確実にあいつは、死ぬ。
「獅子丸さまからいただいた力で、私自身も精進に励んでおりました」

スヱは、楽しそうに笑う。

「この辺りに巣くうケダモノの魂を喰い、死んだ人間の魂も奪いました。お陰で随分と、立派になったでしょう?」

スヱの飛ばす泥が、ムチのようにしなり、襲いかかってくる。

「あぁ、どうしましょう。こんな死に損ないのような状態の獅子丸さまにだったら、私にも勝てるのかしら」

スヱの体が、ふわりと宙に浮いた。

「そうしたら私は、悪魔公爵家の第一養女として、認められるのかしらあぁぁつっっ!」

泥の波が覆い被さる。

そんなことより、今は涼介の方が大事だ。

動かない心臓のせいで、息が苦しく体もだるい。

俺は重たい足を引きずって、校舎へ向かう。

「獅子丸さまは、随分とご自分に自信がおありなのですねぇ、そのうぬぼれは、どこからやってくるのでしょう」

泥の塊が飛んで来る。

それは俺の体に巻き付くと、足の動きを奪い、首を絞めた。

「邪魔だ」

波動の力で、まとわりついた泥を吹き飛ばす。

俺は次の一撃を、スヱに向かって飛ばした。

切り裂かれた空気の刃が、泥で出来た女の体を真っ二つに切り裂く。

それを見届けると、俺はもう一度校舎を振り返った。

涼介を引きずったまま、山下は校舎の屋上へと向かっている。

「さすがですわ、獅子丸さま」

俺の背後で、スヱの声がした。

二つになった体が、泥となってまた一つになる。

そこから姿を現したのは、巨大なムカデに姿を変えた、スヱだった。

「どうせなら、聖人の魂と一緒に、あなたの肉もいただきたいと思うのは、当然のことだと思いません?」

ムカデの大顎が、俺を狙って鋭い牙を打ち鳴らす。

その攻撃は飛び上がって避けたものの、そんな動きをしただけで、俺の胸に潰れそうなほどの痛みが走る。

くそっ、面倒なことになった。

俺は校舎に向かって走り出した。
「ここで敵に背を向けるとは、お父さまもがっかりなさいますよ!」

山下の後を追って、階段を駆け上がる。

背後からは、スヱが執拗に追いかけて来ていた。

宙を舞い、その巨大な体を校舎の壁に打ち付ける。

吐く息は猛毒の息で、そうでなくても息苦しい俺の呼吸を、さらに妨げる。

階段の踊り場で俺に追いついたムカデが、飛びかかってきた。

目標を外した大顎は、階段にその牙をめり込ませる。

その隙に上階へと向かおうとした俺に、刃のような尾が振り下ろされた。

「くそっ」

その刃先が、俺の頬をかすめた。

わずかに血がにじむ。

俺は魔方陣を描く。

もう一度波動の刃を、その堅い殻で覆われた額に叩きつけた。

ムカデとなったスヱの悲鳴が、空気を切り裂く。

俺はようやく屋上へとたどり着いた。

山下は、錆び付いたフェンスの一部に穴を開けていた。

その横で、息も絶え絶えな涼介が横たわっている。

「涼介!」

駆け寄ろうとした俺よりも素早く、山下は涼介を抱え込んだ。

涼介は背後から腕を首元に回され、苦しそうにその腕にしがみついている。

「やめろ、何をする気だ」

「ねぇ、山下さん」

涼介は、かすれる声を絞り出す。

「山下さん自身は、どう思ってたのかは知らない。知らないけど、俺は、俺はうれしかったんですよ。山下さんや、他の仲間たちが、俺を受け入れてくれたこと」

涼介の顔色が悪い。

山下の腕は、さらにそれを締め上げる。

「放課後、とか、学校が休みの日に、一緒に、ゲームしてくれたり、お菓子を分け合って食べたこと、あの時間は、俺にとっては、あの頃の唯一の救いでした」

涼介を抱えた山下は、その体を引きずってフェンスの穴へと向かう。

「山下、さん、たちが、いてくれなかったら、俺は、きっと、もっと早く、弟と、母さんを……」

山下の体が、涼介ごとフェンスから身を乗り出す。

「山下、やめろ!」
俺は波動を山下に向かって飛ばした。

その空気の刃は、山下の腕を切り裂く。

その瞬間、校舎の屋上の床面が破壊され、巨大なムカデとなったスヱが姿を現した。

「獅子丸さま! 人間の魂とは、このようにして奪うものでございます!」

ムカデが襲いかかる。

俺は手の平の火球を、スヱに投げつけた。

山下は涼介を引きずったまま、校舎から飛び降りる。

「涼介!」

伸ばした手は、山下の体をすり抜け、涼介の足首をつかんだ。

俺はそれを引きずりあげる。

階下には、スヱに取り憑かれたまま転落した、山下の姿が見えた。

「それが偉大なる魔王の息子のすることか! なさけない! いつまでも屋敷の奥に引きこもり、甘えてばかりの出来損ないが! 聖人の魂くらい、なぜ奪えぬ!」

巨大なムカデが、怒りに狂い宙を舞う。

死んだ山下の体から、スヱとの契約を交わした魂が抜け出した。

スヱという低級妖魔にそそのかされ、命を落としたその小さな魂は、契約者の元へと漂う。

巨大なムカデとなったスヱは、それをガシャリと飲み込んだ。

若い人間の魂の力を得たスヱは、その力を増幅させる。

「それで魔界公爵家の跡取りとは、笑わせるな!」

涼介の息が細い。

「獅子丸、俺のことは、大丈夫だから」

「お前は何も心配するな」

無理な移動は出来ない。

止まった心臓を抱えた身では、体が重かった。

仕方がない。
「アズラーイール! 出て来い! お前の使命を果たせ!」

俺の呼び声に、天上のゲートは開き、天使はその姿を現した。

「涼介を頼む」

「お前に頼みごとをされる覚えはない」

その手には、天界の剣が握られていた。

「ちょうど都合がいいじゃないか。お前は短期間に二度も人間の死を引き受け、弱っている。あんな低級妖魔にこの剣を持ち出すのはもったいないが、お前が相手となると、話しは別だ」

アズラーイールは、その手に聖剣を構えた。

「お前を裏切ったあの女共々、冥界に送り出してやろう」

空中に浮かび上がったスヱは、アズラーイールの持つ剣を目にして、一瞬動きを止めた。

「獅子丸の肉を喰い、力をつければ、お前なんぞ敵ではない!」

スヱが襲いかかる。

その動きを見計らって、アズラーイールは横に動いた。

スヱを殴りつけたその俺に、聖剣が振り下ろされる。

跳び上がって、後ろに剣先をよける。制服の胸に一筋の切れ目が入った。

「あきらめて、今すぐ魔界へ帰れ。そうすれば、お前の命は助かる」

「それは、涼介の魂をあきらめろと言っているのか?」

「俺がきちんと面倒を見てやる。お前はもう関わるな」

剣は聖なる光を帯びる。

さらに力を増したそれを、アズラーイールは振り回した。

「天使のくせに、剣術も学ぶのか」

「悪魔のくせに、天界の流派を知っているとは、悪魔らしくもない」

スヱは無駄に長い体をぐるりとひねり、俺の背後から泥を吐いた。

飛び散った細かい泥は、俺の体を這い上がり、喉を締め上げる。

俺は目の前で剣を振りかざすアズラーイールの刃先をよけると、泥を引きはがし地面に叩きつけた。

振り下ろされる刃の下をかいくぐり、飛び上がって、少し離れた位置に降り立つ。

反撃を、しなければ。

そうは分かっていても、呼吸は荒く、軽くめまいもしている。

俺は胸に手をあて、止まった心臓に動けと命じた。

それはようやく、コトリと小さな音を一つたてる。
「悪魔公爵の息子といえども、大した力はないな」

アズラーイールはあざ笑う。

スヱが大顎で噛みついてくるのを避けた。

「おのれ、出来損ないの、甘えきったクソガキが!」

ムカデの尾が、校舎の屋上に叩きつけられる。

俺は魔界の屋敷にあった槍を、手元に取り寄せた。

もう少し、ちゃんと実践を積んでおけばよかった。

襲いかかるムカデの額に、真っ直ぐにそれを突き立てる。

スヱは悲鳴をあげた。

「スヱ、大人しくしておけ。所詮お前の力では無理だ」

「無理じゃない、無理などではない!」

その平たい顔の両端についた眼が、涼介の姿を捕らえた。

その瞬間、スヱの標的は涼介に変わる。

「先にお前の魂をいただいておこうか!」

ぬるりと体を動かし、聖人の力を手に入れようと、スヱは涼介に向かった。

その百の足の一本を、アズラーイールの聖剣が切り落とす。

べちゃりと音をたてて崩れ落ちたそれは、しかしもぞもぞと流動し、すぐに元の体に戻った。

「天界の剣も、大したことはないな」

「俺の持ってる剣とは、タイプ相性が合わなかっただけだ!」

「おのれ、天使め、お前も許さん!」

スヱがアズラーイールに飛びかかる。

それを何度切り裂いても、本体が泥であるスヱには、効果がないようだった。

「その剣は、なまくらか」

「そう思うのなら、お前も受けてみるがいい」

笑った俺を、聖剣が襲う。

その剣先は頬をかすめ、赤い血が流れた。

「今は涼介を守るのが先だ」