「ちょっと、何すんのよ」
 私はびっくりすると同時に腹が立って、無意識に片方の手が上がって今にも突っかかりそうにキーっとにらみつけた。
 池谷君は、咄嗟の私の反撃に驚き、お手上げと言わんばかりに両手を前に出して及び腰に仰け反った。
 それでも余裕でヘラヘラと笑っているところが、益々腹立たしくなる。
 辺りは民家が並ぶ、人も車もごっちゃに行き来するような道路で、人通りがなかったことだけが唯一、不幸中の幸いだった。
 こんなことを近所の誰かに見られていたらどんな噂が立つかわからない。
 私は辺りをキョロキョロして人がいないことを確認する。
 そしてハンカチをポケットから出して、何度も頬を拭いた。
「おいおい、まるでばい菌扱いだな。俺、これでも結構女にはもててるんだぜ。割とイケメンだって中学では評判だったの知らないのか?」
「知るわけないでしょ。池谷君のことなんて全然眼中になかったし、全く記憶にありません」
「そこまでいうか。まあ俺のこと男として見ていないから、俺、倉持のこと結構好きなんだよね。周りに左右されずに自分の意見が言えるというのか、気が強い ところとかも。他の女は猫被ったりしてさ、俺がちょっとしゃべるだけで目の色変えて気があるなんて思って舞い上がるから、やり難くてさ」
「池谷君って見た目通りにチャラチャラしてるのね」
「もしかして、俺のこと蔑んで見てるんじゃないの? 俺、こんな制服着てるからどこの高校かも分かってるんだと思うけど、一応そんなに悪くないぞ。結構普通な方だと思うぜ」
「別にどこの高校行ってたって、そんなの関係ないわよ。ただ、無理やり頬にキスするなんて酷いじゃない」
「何を今更。俺、倉持にキスしたの初めてじゃないぜ」
 その時、私は「ん?」と一瞬声が詰まった。
 そして思い出したように、思いっきり「えー」っと嫌悪感タップリに声を上げてしまった。
「あっ、もしかしてそのことは覚えていてくれた? 小学一年生の時、雨の日に俺がキスしたこと」
「うそ、あの時、私にキスしたのって、池谷君だったの?」
「うん。そうそう。俺!」
 ニコニコとした笑顔を池谷君は振りまいていた。
 曖昧だったあの時の記憶はやはり本当に起こったことだった。
 今まで誰にも話した事がなく、私しか知りようのない過去の記憶を、池谷君も知っている。
 それはまぎれもなく、池谷君が真実を述べているということだった。
 私は言葉を失い、口を開けてただ驚いた顔を池谷君に向けていた。
「俺たち、結構昔からすごい仲だったってことさ」
 胸を張って、口元をかすかに上向きにして、堂々と言い切っている。
 かっこつけていうような台詞か。
 軽々しく、生意気に、私を見下ろしている池谷君とは対照的に、私は体を強張らして固まって見上げている。
 ショックもあるし、これが現実に起こっていることだとは信じられなくて、どこかで否定できる要素を探していた。
「おいおい、難しく考えないでもいいじゃんか。俺たちただ仲良くしてさ、時々一緒に時間を過ごして楽しもうっていうだけじゃないか」
 私は池谷君の目をじっと見ていた。
 でもその目はどこか落ち着かず、瞳がぐらついたように泳いでいる。
 私が何を言うのか不安になっている様子にも見えた。
 だけど、その目からは私を真剣に思う気持ちなど微塵も感じられず、これはからかわれているとなぜかそう感じ取った。
「池谷君。起こってしまったことは仕方がないけど、池谷君は私のこと本当に好きじゃないんでしょ。ただ遊びでからかってるだけなんでしょ」
「あれ、なんでそう思うかな。まあ、結構自分の気持ちを表現するのは下手くそだけど、俺は本当に倉持と付き合いたいなって思ってるんだけど。倉持ももっと柔軟になった方がいいよ」
「お断りします。それと、もう二度と私に近づかないで」
「あれれ、それは無理だわ。俺はもっと倉持に近づきたい。しかし、今日のところは帰る。俺諦めないから。そんじゃね」
 池谷君は手を振って、そして走って行ってしまった。
 私は一人取り残され、すでに雨はやんでいるのに、いつまでも傘を差していた。
 頭の中はただこんがらがるばかり。
 山之内君に誘われて、ドキドキとしながら帰ってきたら、今度は池谷君が現れて付き纏われ、そして頬にキスされた。
 混乱を招いている中、一つだけはっきりしたのは、過去のあの出来事が実際に起こったことで、その犯人が池谷君だったこと。
 それでも、今更そんなこと言われても、やはり困惑の何ものでもなかった。
 私は力果てて倒れそうになるくらい、フラフラとしながら歩いていた。
 雨が止んで、空が明るくなりだし、それでもまだ傘をさしたままだった。
 傘に日が当たると透けて見えるが、そこにいくつもの水滴が影を作って、水玉模様に見えた。
 陽の光にはっとして、傘を閉じれば、雨の雫が下に向かって流れて行く。
 ぽたぽたと傘の先から落ちるのを見れば、自分もなんだか泣きたくなってくるようだった。
 泣くほどのことではないが、この日の事をまた忘れたいと強く思う。
 しかし、山之内君に声を掛けられて一緒に帰ってきたことまで忘れるのは少し勿体無かった。
 なぜそう思うのか。
 山之内君はすでにアイドルとなって学年では人気があるから、そんな人に声を掛けられて優越感が発生したのかもしれない。
 自分もミーハーだと思うと、ふっとため息が出てくる。
 でも山之内君を見るとなんだか、ピピピと感じるものがあるというのか、私の好みってことなのかもしれない。
 私は、気を取り直して、空を見上げた。
 そこには薄っすらと消え行きそうな七色の光が浮かんでいた。
 住宅の屋根が密集していて、それが視界の障害となって、全てが奇麗に見られなかったが、虹が顔を出してくれたお陰で、幾分かそれに励まされ、前向きに考えてみる。
 池谷君とは近所だけど、学校が違うからそう会う事もないはず。
 無視すればいいだけ。
 高校生活は始まったばかりなのだから、こんなことで負けてはいられないと、私はさっさと歩き出した。
 家に入る前にもう一度、虹を見ようとしたが、密集して立っている建物が邪魔で、虹が出ている空は見えなくなっていた。
 その代わり、電線にはたくさんの雫がついていて、それがぽたりと落ちたのが見えた。