早朝の研究所はひとけがない。足音が響く。
 走る風坂先生の背中を、あたしは必死で追い掛けた。足が長い風坂先生は走るのも速い。置いていかれたけど、目的地の場所は覚えてる。息も絶え絶えに、それでも走る。
 あたしは朝綺さんの部屋に駆け込んだ。ちょうどその瞬間、風坂先生が白い遮光カーテンを、さっと開けた。
 鮮やかな朱色の空。朝の太陽が放つ光は、黄金色な透明。息を切らしながら、目を奪われた。朝焼けがあまりに綺麗すぎて。
 風坂先生が朝日を浴びて振り返る。半分シルエットになった顔は、微笑んだ影のほっぺたに涙が光ってる。
「まぶしいだろ、朝綺?」
 優しい声は震えながら、親友の名前を呼んだ。
 朝綺さんを覆っていたガラスケースは取り外されていた。麗さんが、そっと朝綺さんの髪を撫でた。
 あたしは1歩、横たわる朝綺さんに近付いた。朝綺さんはまぶしそうにまぶたを閉じて、また薄く開く。そのたびに、長いまつげがキラキラする。かすかに、ほんのかすかに、朝綺さんの唇が動いた。
 キ・レ・イ・だ。
 潤んだ目に表情が浮かんでいる。カッコいい人なんだって、初めて、ちゃんとわかった。麗さんとは美男美女でお似合いだ。
 数本の管が朝綺さんの腕や胴体につながってる。ベッドサイドにはいくつかの計器があって、朝綺さんの体調がモニタリングされてる。
 朝綺さんの血圧も脈拍も呼吸数も、衰弱気味ではあるけど、正常っていっていい。ナースの授業で波形の見方は習った。
 生きてるんだ。魂を取り戻したんだ。
 風坂先生が朝綺さんのベッドに寄って、麗さんに尋ねた。
「上体を起こすのは、まだ危険かな?」
「布団から浮かせる程度にしておいて。三半規管がついていけなくて、めまいを起こすと思う」
 麗さんは冷静だった。大人だな。あたしだったら、相手は寝付いて弱った体なのに、抑え切れずに抱き付いてしまう。麗さんだって、ほんとはそうしたいのかもしれないけど。
 風坂先生は床に膝を突いて、朝綺さんの首の後ろに腕を差し入れた。朝綺さんの肩を抱くように、少しだけ上体を起こす。
「今が西暦何年か、教えてやろうか? 2058年だよ。朝綺が冷凍保管《コールドスリープ》に入って4年後。約束どおり、麗が朝綺を目覚めさせたんだ」
 朝綺さんは目を閉じて、ちょっと眉をひそめていた。めまいがしたのかな? ゆっくりと、再びまぶたを開く。まなざしが揺れて、麗さんを見つめた。唇が、今度はハッキリと動いた。
 あ・り・が・と・う、う・ら・ら。
 吐息が麗さんを呼ぶのがわかった。繰り返し呼んでいる。う・ら・ら、う・ら・ら。麗さんが口元を手で覆った。喉の奥が、きゅうっと頼りなく鳴った。
「バカ……!」
 つぶやいた麗さんが、声を上げて泣き出した。朝綺さんのやせた手のひらに顔を押し付けて、白い床に座り込んで、小さな女の子みたいに。
 朝綺さんと出会ってからの6年間。麗さんが一生懸命に過ごしてきた時間。その苦しみ、喜び、悲しみ、楽しさ、何もかもを、止まらない涙が証明してる。
 朝綺さんが、泣きじゃくる麗さんを見つめてる。まばたきの内側に、もどかしそうな色がある。あたしの体が、導かれるみたいに動いた。
「麗さん……麗さんは、ステキです」
 あたしは麗さんのそばにしゃがみ込んだ。背中をさすってあげる。朝綺さんが動けない代わりに、あたしが。
 朝綺さんを見上げると、うなずくようにまばたきをしてくれた。あたしは、もらい泣きしそうな顔で無理やり微笑んだ。
「初めまして、朝綺さん。あたし、甲斐笑音です。ピアズでは、ラフさんの仲間《ピア》になってます。そっちはルラって名前です。ラフさんの馬鹿力、いつも頼りにしてました」
 朝綺さんの乾いた唇がかすかに動く。
 し・っ・て・る。
 そうなんだ。魂の姿でピアズの中をただよってたこと、朝綺さんは覚えてるんだね。夢を見てた感じなのかな? 話、聞いてみたい。