遅い晩ごはんの後、風坂先生と麗さんは、あたしを朝綺さんの病室に入れてくれた。風坂先生は切ない顔で微笑んだ。
「笑音さんと瞬一くんの話を聞いたとき、他人事だと思えなかったんだ。大切な人の病気を治すために医学の道に進む瞬一くんは、麗と同じだよ。笑音さんは、ぼくと同じだ。根本的な治療に貢献できない、その力を持たない。笑音さんとぼくは、よく似た悔しさを抱えてる」
 麗さんがかぶりを振った。
「違う能力、違う立場から助けてくれる仲間《ピア》がいなきゃ、わたしも何もできない。それを教えてくれたのは、おにいちゃんよ。ルラも……いいえ、笑音も、おにいちゃんと似てるわ。縁もゆかりもないのに、わたしたちを助けてくれてる」
 あたしの胸には、いろんな思いが渦巻いてる。家族のことと、家族のことと、家族のこと。パパの病気を中心に回ってる、あたしの家族のこと。
 知りたい。朝綺さんの病状はどんなふうなの? 眠り続けてるのは、どうして? 魂がゲームの中に迷い込んだのは、どうして?
 説明してほしい。そして、パパにも同じ治療をして、パパを元気にしてほしい。あたしはパパを死なせたくない。
「教えてもらえませんか?」
 声が震えた。あたしは図々しくて自分本位だ。目の前にいる朝綺さんを、まっすぐには心配できない。パパと似た病気を患っている、というフィルターを介してしまう。朝綺さんを見つめながら、パパの未来を見つめている。
 麗さんはまなざしを強めた。射抜くような目だ。
「わたしが朝綺にしている治療は、正しくないかもしれない。人によっては、禁忌を犯していると言うわ。人間に許される領分を超えている、神の領分に踏み入っている、と。わたしを非難する人も軽蔑する人もいる」
 麗さんは笑わない。初めましての挨拶をしたときも、愛想笑いさえしなかった。でも、無表情ってわけじゃない。シャリンさんも笑わなかったけど、それは麗さんの繊細な表情をアバターでは反映し切れなかっただけだ。
 あたしは麗さんのまなざしを正面から受け止める。逃げ出すわけにはいかない。あたしは、きちんと知りたい。
「非難も軽蔑しません。話してください。お願いします」
 麗さんはうなずいた。スピーカ越しに何度も聞いたため息が、そっと空気を震わせた。
「わたしがしていることは、臨床試験という名の人体実験よ。わたしは万能細胞を使った先端医療を極めつつある。万能細胞ってわかる?」
「体のどの器官にもなれる細胞、ですよね?」
 細胞は普通、役割が決まってる。皮膚になる細胞は筋肉になれないし、筋肉になる細胞は髪の毛になれないし、髪の毛になる細胞は遺伝子になれないし、遺伝子になる細胞は皮膚になれない。
 ただし、万能細胞は違う。その名のとおり、どんな役割でも担える。皮膚でも筋肉でも髪の毛でも遺伝子でも、指定された部位や器官の細胞へと自在に分化することができる。
 自然に生まれる万能細胞は、受精卵だけだ。1つの受精卵は分裂を繰り返して、役割を持つ数十億個の細胞へと分化していく。
 麗さんは白い手をギュッとこぶしにして、目の前に掲げた。
「わたしは、この手で万能細胞を作れる。患者の体から取り出した細胞を材料に、患者の体のあらゆる器官に分化しうる万能細胞を作るの」
 頭の悪いあたしが万能細胞について知ってるのは、瞬一の影響だ。響告大医学部に医療用万能細胞を完成させた天才がいて、瞬一はその人の下で研究したいと望んでる。麗さんが、瞬一の目指してる人だったんだ。
 麗さんは淡々と告げる。
「命の素である受精卵と同じ機能を持つ万能細胞を、実験室の培養液の中で作る。非難の声は毎日のように届くわ。宗教的な観点から、わたしの研究を許せないと言う人たちがいる。これがわたしの1つ目の禁忌」
「でも、麗さん、先端医療の研究は、患者さんやその家族にとっては大きな希望なんですよ。禁忌だなんて」
「宗教のことはわからない。わたしはただ、生きててほしいだけ。朝綺が生きててくれるなら、禁忌を犯すことも怖くない。朝綺を失うことに比べれば、何も怖くはないのよ。わたしは何だってできる」
 麗さんの気持ち、あたしも同じだよ。でも、麗さんがうらやましい。「何だってできる」って言葉を実現する能力を、麗さんは持ってるから。