父さんから出来上がった小説を渡されたのが、梨緒が頼み込んで二日後のことだった。
 私が朝ご飯を食べていると、父さんがクリップでとめられた紙の束を差し出してきたのだ。
「ゆーちゃん、出来ましたよ」
「え、早っ!」
 私は余りの出来上がりの速さに、箸の動きを止めた。
 確かに、手紙には“早めにお願いね”という注文は付けてはいたのだが、正直に言って、二日で仕上がってくるとは思わなかったのである。
「こういうものは鮮度が命ですからねぇ」
「食材じゃないんだから……どれどれ……」
 私は受け取った束をペラペラと捲って、中身を確認した。
 私が作成した事件の概要を渡してあるから、そこら辺の背景をちゃんと汲み取っていて、且つ、ミステリー作家の司馬静節が炸裂している文章になっていた。
「二日でこのクオリティは流石だわ。父さん、ありがと」
「あのような煽り文句を書かれていたら、私も本気にならねばと思いましてね」
 父さんが言っている“煽り文句”とは、恐らく、『真相を父さんの手で作り出してみない?』という一文のことだろうと想像が出来た。
 確かに、私が父さんにやる気を出してもらう為に書いた煽りだったわけなのだが、効果がこんなにもテキメンだったとは……、正直驚きである。
「さて、これをどうするつもりなのですか?」
 父さんが答えづらい質問を投げかけるものだから、私は父さんから目線を逸らす。
「……ゆーちゃん?」
 父さんが声のトーンを変えて、私の名前を呼ぶ。この落差が怖すぎる。
「り、梨緒に読ませて、あげるのよ。少しずつ縛りを外せって言ったのは父さんの方だからね」
「それはそうですけど、他に何か裏がありそうですねぇ……」
 父さんは疑うような目で私を見てくる。私は必死にそっぽを向いてやり過ごすほか無い。
「まぁ、いいです。その代わり、最悪の場合は自分で後処理してくださいね」
 やれやれという風に父さんは諦め顔になる。
「大丈夫よ。梨緒が傷つかないようには配慮するから」
「それならいいですが、気をつけてくださいね」
 父さんは私の返事を聞くと、書斎へと戻っていった。
 はぁ、ちょっと威圧感で寿命が縮むかと思ったわ、さて……。
 私はいそいそとスマホで叔父さんに電話を掛けた。
『なんだ? 今忙しいんだが?』
 叔父さんは若干眠そうな声で電話に出た。恐らく連日徹夜なのだろう。
「そろそろ、事件が進展してるかなぁー、と思って電話を掛けたのだけれども、その様子じゃちっとも進歩なしってところかしら?」
 私が嫌みったらしく言うと、電話先では『うるせぇ』という声が聞こえる。
「まだ、栗林って警察署に居るの?」
『ん? あぁ。一応、署の拘置所に居るが確か、今日が拘留期限だったような気がするぞ。どうしたんだ?』
「ちょっと、栗林と一緒に先輩のマンションに来てくれない? 見せたいものがあるの」
 私の言葉に叔父さんから『は?』という間抜けな声が聞こえた。
『お前、何を企んでやがるんだ……』
「それはね、来てからのお楽しみって事で。そうねぇ、時間は死亡時刻の13時辺りで。待ってるねー」
 叔父さんがまだ何かを話していたが、そんなのお構いなしに、私は電話を切った。
 それと同時に梨緒が起きてきて、リビングへとやってきた。
「有加、おはよー」
 大あくびをしながらやってくる梨緒に私は父さんから渡された紙の束を突き出す。
「父さんから出来たって」
 その言葉を聞くや否や、梨緒は目を輝かせて紙の束を受け取った。
「やったー。これで、憧れの静さんのミステリーが読めるぞー」
 梨緒がいそいそと椅子に座って、貰った紙の束を捲ろうとした瞬間、
「待った。まだ見ちゃダメよ」
 私が梨緒に待ったをかける。
「え、どうして?」
「まだ見る時間じゃないからよ。13時に叔父さんと先輩のマンションで待ち合わせしてるから、そこで読んで?」
 私の説明に梨緒は意味が分からないようで首を傾げた。
「雰囲気作りよ。それで、梨緒にはソレを読んで重要な役回りをして欲しくって」
「役回り?」
「それは、13時頃のお楽しみで」
 私は悪戯っぽく笑って見せた。

 先輩のマンションに到着したのは、13時少し前だった。
 もう、叔父さん達は到着していて、先輩の部屋も鍵が既に開いていた。
「何をする気なんだ一体。一応、連れてきたけど」
 叔父さんの背後には俯いて何かブツブツと唱えている栗林の姿があった。拘留生活で完全に参ってしまっているのだろう。
「これから、推理ショーでも開こうかと思ってね、はい、梨緒、例の小説。今から読んでいいわよ」
 私はそう言って再び梨緒に父さん作の小説を渡す。受け取った梨緒は渡された小説を隅々まで読み込んでいく。
 叔父さんはその様子を見て、直ぐに勘付いた。
「お前、梨緒を使うつもりか」
「使うだなんて失礼な。梨緒の力で事件を解決させようとしているのに。ねぇ? 叔父さん?」
 私は突っかかる叔父さんを嘲笑うように答えた。
「一体、なんの話だよお前らは。俺はこんな場所一刻も早く出て行きたい。解放しろよ!」
 栗林は落ち着かない様子で私と叔父さんに訴えかける。
「栗林さん、ダメよ。ちゃんと、座って事の顛末を見なきゃ?」
 私の一言で、栗林はいきなり座り込んだ。
「なんで、俺はいきなり座り込んでいるんだ! チクショウ、体がいう事を効かない」
 いきなりの事態に栗林は座ったままジタバタとするもんだから、実に滑稽だ。
 私がそんな状況に笑っていると、

 バサッ。

 梨緒が貰った小説の束を床に落とした。
 その時、梨緒の表情は……、

 いつもの彼とは似ても似つかないような顔に豹変していた。

 梨緒はまるで、そこに座り込んでいる栗林のような顔つきになっていた。
 梨緒のスイッチが入った証拠だ。
 私はソレを確認してニヤリと笑った。
「さぁ。これから始まりますのは、この部屋で起こった悲しくも残忍な物語でございます。皆様、ここで起こった真実、目玉をかっぽじってよくご覧下さいませ」
 私は楽しくなって、舞台の口上のような言葉を吐く。
 どんなに私が喋っても梨緒はどこか一点を見つめたまま動かない。

 さて、始めますか。
 
 私は、先輩が倒れていた位置へと腰を下ろした。
 すると、梨緒もヨロヨロとよろめきつつ、私の隣へとやってきたのだ。
 これは、全て父さんが書いた小説に書かれている描写である。
「あのさ、話があるんだけど……」
 私が小説に書かれていた通りの言葉を梨緒に言う。父さんが書いたあの小説は一通り見たときに全て暗記したので、一字一句漏らさず言えるハズだ。
「いきなり……なんだよ」
 梨緒も小説通り言葉を紡いだ。
「あのね、克也と付き合ってもう長いじゃない?」
「……そうだけど、ソレがどうした」
 私がモジモジしながら言うと、梨緒は素っ気なく答える。
「そろそろ、結婚とかも考えてもいいかなって。その為にはさ、資金も必要じゃない?」
 私は懐から自分の手帳を梨緒に見せた。もちろん、手に入ったコピー通りの電話番号をそのまま記して……。
「克也もそろそろお仕事再会してみない? このままじゃ、克也がダメ人間になっちゃうような気がして」
「別にいいだろ、俺のことなんて! ほっといてくれよ」
 梨緒は私の手帳を取り上げると、隅の方へ投げつけた。
 いつもの梨緒なら絶対にありえない行動。
 そう。梨緒は今、“父さんの作った小説の中の栗林克也”になりきっているのである。

 コレが梨緒のヒミツ。

 彼は、他人の感情を己にトレースすることが出来る。それが、現実の人物であれ、架空の人物であれ、多種多彩だ。
 なので、物語の中に一度入り込んでしまうと、キャラになりきってしまい自分の自我が消失してしまうのだ。
 そして、そのせいでアノ事件が起こってしまって、梨緒は今日までミステリーを読むのを禁止されていた訳だ。

 私の手によって。

「まだ、精神的に負担が大きいのなら、在宅でライターっていう仕事もあるんだよ。克也、格闘技してたから、その経験を生かして……」
「俺に構わないでくれよ!!」
 梨緒は私を突き飛ばすと、ぴたっと動きを止めて申し訳無さそうな顔をする。
「文香ゴメン、痛くなかったか?」
 梨緒は私に執拗に抱きついて、顔を手でさわさわと触ってくる、
「大丈夫。私の方こそゴメンね。克也の気持ちが理解してあげられなくて」
 私はそう優しく微笑むと、
「やめろ! そんな顔で微笑むな! 文香と同じ様な顔で笑うな!」
 外野で本物の栗林がギャーギャーと騒ぎ出す。
「すこし、大人しくしていてくださいね?」
 私の指示に従うかのように、栗林は急に静かになる。
「……何か入れてくる」
 栗林を演じている方の梨緒はさっきまで騒いでいた、本物に目も合わせずにキッチンへと向かい、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してコップに注いだ。
 それから、ポケットから私が出掛ける前に仕込んでおいたピルケースを取り出し、錠剤らしきものを1錠コップに入れてスプーンで混ぜた。
「おまたせ」
 梨緒は錠剤が入ったほうのオレンジジュースを私に手渡した。
「わぁ、ありがとう」
 私はあたかも先ほどの梨緒の行動に一切気づいて無い様にオレンジジュースを飲み干し、テーブルの上にコップを置いた。
「……片付けてくる」
 梨緒は私がジュースを飲んだことを確認すると、再び立ち上がって空のコップを持ってキッチンへと歩いて、コップを洗って食器棚へ戻した。
「うん、ありがとう。あと、15時から大学の後輩が来てくれるから会ってくれない?」
「いいけど、なんで?」
「ちょっと、私達の今後の相談でもしようかと思って……、あれ、ちょっと眠くなってきたみたい。克也、仮眠するから、1時間後に起こしてくれない?」
 私の言葉に梨緒は今までに浮かべたことのない歪んだ笑みで答えた。
「いいよ。ゆっくりおやすみ……文香」
 私はそう言ってから、横になって寝るフリをする。梨緒に仕込んでおいたピルケースの中の錠剤は実はタダの砂糖の塊だ。
 それを本物の睡眠薬だと思っている梨緒は私が寝ているのを仁王立ちで見下ろしていた。
「文香が全部悪いんだぞ。もしかして、俺のことを愛せなくなったのか?」
 梨緒は辛そうな表情でクッションを手に持った。
「俺は、お前は居ないとダメなんだ。お前が居ないと俺は……」
 ゆっくりと手に持ったクッションを私の顔に近づけていく梨緒。
 そして、そのクッションを力強く私の顔へと押し付けた。
 苦しくて私は必死にクッションを取ろうともがくが、梨緒の何処にそんな力があったのか分からないくらい彼の力は強く、クッションが外れることは無かった。
「梨緒! 何をしているんだ、離せ!」
 その異様な状況に叔父さんが飛び出してきて、必死に梨緒を止めようとするが、梨緒は未だ、私をクッションで窒息死させようとしている。
「叔父さんは止めないで! このまま続行させて」
 私は必死に叔父さんに向けて訴えかける。
 そう、そのまま中止させるわけには行かないのである。小説の中に描かれていることは完遂させなければ意味が無い。
「このままじゃ、お前が死ぬんだぞ!」
「私なら大丈夫だから、梨緒から離れて」
 私の言葉に渋々叔父さんは梨緒から離れる。
 次第にクッションを押し付ける力が強くなっていく。そろそろ頃合だろうか?
「うっ……」
 私は、カクンと体を弛緩させて、倒れる。もちろん死人の演技として。
 梨緒はその様子を目の当たりにして、狂ったような悲鳴を上げた。
「う、うわあぁぁぁぁあああ!!!!」
 目を見開き、私の無残な姿を見る。
「文、文香、文香文香文香文香文香文香文香文香文香文香文香文香!!! しっかりしろって、おい!!」
 梨緒は乱暴に私を揺さぶるが、私は微動だにしない。
「う、嘘だろ。死ぬなんて、なぁ、嘘だろ? 嘘だって言ってくれよ!!!」
 梨緒がいくら呼びかけても、私は起きなかった。
 すると、梨緒は部屋の引き出しから布キレを取り出して、ベッドの柱に巻きつけた。
「ゴメンな、今は自殺に見せかけてしまうけど、俺も後から追うからな」
 梨緒は涙ぐみながら私が持ち上げて、巻きつけた布キレを私の首へと通し、ノートパソコンには捏造した遺書をタイピングした。
「文香、本当にゴメンな!」
 もう一度、死体と化した私のことを見て、梨緒は玄関に向かって走りだした。
 このままでは、逃走してしまう。そこで。
「梨緒、ストップ。眠りなさい」
 私は目を急に開いて、梨緒に向かって叫ぶと、
 梨緒は急に電源が切れたかのように、玄関で倒れこんだ。