いや、でも。それならそうと言ってくれてもいい。今回は貸しをつくったから次回次々回と二回連続で運転してね、と。でも彼女はそれを言えない性格だ。奥ゆかしさは彼女の長所。それは数回デートを重ねてわかったことだ。一緒に生活していくのだから遠慮せず伝えてほしいとぼくは結婚するときに彼女に言った。彼女もはいと小さな声で返事をした。親族の紹介で食事をし、知り合って半年と経たずに結婚した。互いをよく知らないまま一緒になって、彼女がどんなことで不機嫌になるのか、機嫌を直すのか未だにつかめないでいる。もし今日の彼女の態度がそれであるなら、ぼくはどうしたらいいのだろう。そう、まさかの離婚の危機。突然三下り半を突き付けられた夫はどうするべきか、と負の妄想は進む。

 いや、ぼくたちに限ってそんなことは。
 いやいや、そんな思い込みは危険だ。

 彼女がメニューを閉じたのを合図にぼくは呼び鈴を鳴らし、店員を呼びつけた。グラスワイン、チーズ盛り合わせ、ラムチョップ。続いて彼女が淡々と注文を口にする。店員がメニューをさらって引き上げると、ぼくたちのテーブルは沈黙にさらされ、逃げるように彼女が先に目を逸らした。

 この前の付箋紙とか? ピンク地の、ウサギのキャラクターが描かれた柄に、丸文字の「ありがとう」とご丁寧にハートマークまでつけられたメモになにかやんごとでもない妄想をくりひろげてしまった、とか。あれはぼくよりも二十も年上のお姉さまで、異性というよりは母親に近い先輩からのメモで、と説明すればいいのか。こないだ助手席の背もたれについていた長い髪は最近入社したイマドキの男性社員のものだと説明すればいいのか。

 彼女は奥ゆかしさゆえに遠慮して聞いてこないから、説明のしようもないのだ。わざわざ話したらかえって怪しまれると危惧して何も言わずに来た。それがあだになっているのか。

 赤いワインの注がれたグラスがコトリとテーブルに置かれて、考えごとに夢中になっていたことに気づく。いつの間にかぼくを見つめていた彼女と目が合って、気まずさに微笑むと、彼女はまた目を逸らした。

 窓の向こうに白いものがちらつき始めた。

「雪、か。予報は当たったね。これぐらいならぼくだって運転ぐらいできるさ。キミが飲む?」
「忠信さんが飲んで」
「体調、悪いの?」
「ううん」
「それともぼく、何かした?」