彼が口にした【ちかせ】という響きが、とても懐かしいような、それでいてなんだか泣きたくなるような、切なくて不思議な感覚。
「ミヅハ……?」
いつの間にか足を止めていたミヅハは、私が首を傾げると白昼夢から覚めたように我に返った。
「すまない……忘れてくれ。瀬織津姫のところに急ごう」
「え、ええ」
何を忘れろというのか。
デリカシーの話か、それとも【ちかせ】という言葉についてなのか。
聞きたいけれど、そっと見上げたミヅハの顔がもう触れてはならぬと拒絶していように見えて、私は黙って従業員の住居となっている数奇屋造りの離れ座敷へと連れて行ってもらった。
玉砂利が敷かれ、手入れの行き届いた庭を横目に廊下を進み、一番奥の部屋の前で下ろしてもらうと、格子模様の引き戸を少し乱暴にノックする。
「母様! 大丈夫!?」
返事を待たずに戸を開けると、十五畳ほどの広い和室に駆け込むようにして入った。
母様が好んで使う落ち着いた白檀の香りが鼻をくすぐる。
中央に置かれた座卓向こう、敷かれた布団に横たわる母様が見え、その横に正座する大角さんが、ゆっくりと頭を下げた。
ライオンのたてがみにも似たボリュームたっぷりのこげ茶色の髪からは、猫耳がピンと出ている。
「まったく、騒々しいね」
母様は明るい声で小さく笑いながら上体を起こした。
後ろでひとつに纏め、高い位置に結んだ艶のある長い黒髪が肩から落ちる。
ややつり目がちの力強い翡翠色の瞳は、私の姿を捉えると「おかえり、いつき」と優し気に細められた。