「兼忠」
「は」
「千枷殿は神との対話が可能。よって、神託を授かる役目の巫女は不要。心身を清める潔斎や斎戒は斎宮にて短縮して行うように斎宮頭(さいくうのかみ)に伝えろ」
「初斎院にて斎戒中の輔子内親王様はいかがなさいますか」
「しばしはそのままでいい」

 承知しましたという兼忠様の声が聞こえ、遠ざかっていく足音に主上が声が被さった。

「さあ、千枷殿。行こうか」

 優しく手を差し伸べられた直後、背後から干汰の「ダメだ」という声が聞こえる。
 干汰の声は主上には届いていない。

「姫さん、ダメだ。龍芳に会えなくなるぞ」

 わかっている。
 この手を取れば、龍芳の側にいることは叶わないと。
 夫婦となり、共に過ごし、年を重ねることは叶わないと。
 けれど、この手を取らなかったら、恐ろしい未来が待っているのではないか。
 それが私だけに降りかかるのならまだいい。
 もし、龍芳に……と思ったら、私は自らの手を、主上の手に重ねていた。

「姫さん!」
「ニャ! 千枷!」

 背に浴びせられた悲鳴にも近いふたりの声を振り切るように、私は顔を上げる。
 ぶつかった視線の先で、主上が満足そうな笑みを浮かべた。

「そうだよ、千枷殿。それが正解だ」

 「よくできました」と幼子をあやすように言って主上は私を立たせ、家の外へと誘う。
 干汰が「龍芳を呼んでくる」と駆け出したのが見えたけれど、間に合わないことは百も承知だ。
 龍芳は今、隣村へ薬を届けに出ているのだから。

「……さよならも、言えないのね」
「寂しいのは今だけだ。斎王の任はきっと千枷殿を満たしてくれよう」

 震える声で零した私の声を拾った主上の言葉に、思わず強く否定しそうになって呼吸を止め飲み込む。
 村の入り口に向かう道中、数名のあやかしたちが心配そうに私の名を呼んでくれたけれど、
 答える気力もなく、ただ弱々しい微笑みを返すことしかできないまま、私は用意された天皇や皇后、斎王専用の輿、葱華輦(そうかれん)に乗り込んだ。

「……っつ、ふさ」

 必死に抑えても溢れてしまう嗚咽。
 四方を締め切られた(とばり)の中で、私はひとり引き裂かれるような胸の痛みに涙を流し続けた。