きっと気付かないうちに疲れが溜まっていただけだろう。
 ゆっくりと湯に浸かって部屋で休んでいれば問題ないと考え、支えられている体を起こそうとした時だ。

「大変だ大変だ!」

 ランプの灯りが淡く揺れる落ち着いた雰囲気のロビーを、慌ただしく走る従業員の姿が目に入った。

 肩までロールアップした作務衣の袖。
 ウルフカットの小豆色の髪をオールバックにセットし、頭にバンダナを巻いた彼は、余程のことがあったのか、こちらには気付いていない。

干汰(かんた)、何があった」

  ミヅハの声に、廊下に向かおうとしていた彼は足を止めて振り返る。

「それが、女将が……って、姫さんまでどうした!?」

 普段はどこか甘やかさを漂わせたくっきり二重の目が、驚きに染まり見開かれた。

 彼は【干汰】という名で、河童のあやかしだ。
 私は小さな頃からカンちゃんと呼ばせてもらっている。
 宿での担当は湯守。
 以前、天照様から聞いた話によると、天のいわ屋が創設された頃よりずっと、母様と共に宿を盛り立ててきた一人らしい。
 外見年齢はミヅハと同じくらいで二十代半ばほど。
 宿の従業員の中でも明るく気さくな性格で、私のことを昔から「姫さん」と呼んでいる。

「若旦那! まさか姫さんも倒れたのか!?」

 方向転換し、私たちの元へと駆け寄ったカンちゃんの言葉に、ミヅハが「いつき”も”とはどういうことだ?」と眉根を寄せた。

「それが、今しがた、女将も倒れたんだ」
「母様が!?」