「さ、豆ちゃん、中へどうぞ。私も母様に挨拶にいくわ」
今日は一日休みをもらっているので、本来なら宿の裏手に建つ従業員寮を兼ねた離れ座敷に向かうところだが、宿内で働く母様に、帰ったことだけ伝えに行こうと格子扉に手をかけたのだが。
「あ……れ?」
中途半端に扉を横に引いたところで、軽い眩暈に景色が歪んだかと思った直後、体の内側から闇が浸食するように目の前が暗くなった。
意識まで遠のいていく感覚が私を襲い、足元から崩れ落ちてしまう。
「いつき!」
ひどく慌てるミヅハの声が、窓の向こう側で発したかの如く籠って聞こえ、さらに奥の方で豆ちゃんが私の名前を連呼しているような気がした。
しかし、次第に音は消えて、膝をついているという体の感覚さえ薄れていく中、ミヅハの少しひんやりとした大きな手が私の肩を抱いた瞬間、脳裏に過る映像。
濃紺の夜空に輝く月を背に立ち、私へと手を差し伸べる彼。
……そう、”彼”だ。
逆光で顔は良く見えないけれど、私は”彼”を良く知っている。
……私? 私が知っている?
違う、私じゃない。
私だけれど、彼のことを良く知っているのは……
『──』
優しい声が、愛しい彼が、野々宮いつきではない”私”の名を呼んだ気がした。
そうだ。”私”の名は──