朝から降る雨が、宇治橋のたもとに建つ伊勢鳥居を濡らしている。
 内宮(ないくう)の神域を守るそれを見上げた私は、雨粒を弾く深紅に染められた和傘の下で一礼し、大鳥居をくぐった。
 俗界から神域に入る瞬間、「おかえり」という声なき声に迎え入れられるような、神聖で温かな空気に包まれるのを感じ、僅かに頬を緩め五十鈴川にかかる宇治橋を渡る。
 なだらかに反った橋を歩いていると、いつのまにやってきていたのか、狸が一匹、私の歩調に合わせて小さな足をひょこひょこと必死に動かしていた。
 同じく橋を渡る参拝者は、誰ひとりとして狸には気付いていない。
 その理由は誰も足元を見ていないから、というものではなく。

「いつき様! こんにちは!」

 愛くるしい顔でこちらを見上げ、私、野々宮(ののみや)いつきの名を呼ぶこの狸が、ただの狸ではないからだ。

「こんにちは、豆ちゃん」

 歩む速度を落としつつ返した挨拶に、ふさふさの尻尾を大きく振った豆ちゃんは、この伊勢神宮を囲む千古の森に住まう『あやかし』と呼ばれる存在であり、正式なあやかし名を『豆狸』という。

 あやかしは、俗にいう幽霊と同様、普通の人間には視えない。
 だから、私を追い越し、すれ違う参拝者たちは、何もない足元に視線を落としぶつぶつと話す私に、なんとも怪訝そうな視線を向ける。
 しかし、あやかしを視ることも、不思議そうな視線を受けることも、小さな頃から日常茶飯事となっている私は、周囲の反応をあまり気に留めることなく、可愛らしい豆ちゃんとの会話を楽しむ。