スープの器の底が顔を見せた頃、アンティパストミストというものが運ばれてきた。
アンティパストとは、いわゆる前菜。ミストは盛り合わせ。つまり、前菜の盛り合わせだ。
大きく平らな皿に、ちょこんと盛られた山が三つ。
それを二つほど崩した時に、パスタがやってきた。
たっぷりとかけられたトマトソースの香りが鼻腔に触れると、スープやアンティパストミストで既に満たされていたはずのお腹が、一気にそれを求めた。
真ん中にバジルの葉が飾られている、薄く平たいフェットチーネのスパゲティがフォークに絡まる。
その艶めきに見とれながら、開いた口で包んだ。
舌の上で、スパゲティが踊る。滑らかなフェットチーネが舌に絡み付き、バジルとトマトソースの香りが口内に広がった。
高級料理だからか、ナガトの言葉のおかげか、それら全てが『美味しい』と感じた。
当たり前なはずなのに、そんな感情は久々だった。
ナガトは相変わらず私を眺めるだけ。水も飲もうとしない。
こんなにも美味しそうな料理を見て、欲しくはならないのだろうか。
「ナガト、ちょっとあげようか?」
「いやいい。最期の昼食を盗む気はない」
いいと言われたら、それまでだ。私はまたフォークを回す。
次に届いたのは、メインらしい子羊のカチャトーラ風。
調べてみたところ、カチャトーラとは猟師という意味らしく、ワインビネガーとニンニク、ローズマリーを使うもの。
焼かれた子羊の肉が、ステーキのように大きく四枚ほど盛られており、ニンニクの香りが食欲をそそる。
ナイフを入れ、一口サイズにして食べた。
口に収められた肉に歯を立てると、ローズマリーとワインビネガーと思わしき酸味が広がり、肉の旨味を引き立てるのがわかる。
正直食レポというものは苦手だったが、あまりにも美味しすぎる食事に、脳内の語彙力は今までの人生で最高潮とも言えた。
頬っぺが落ちるとはこのことかと、初めて知ることが出来たと思う。
もう胃が限界だと悲鳴をあげ始めた。いくらなんでも、昼間からこんなにも入るわけがない。
昨日まで、水一滴入らなかった時間なのに。
夜ご飯はいらないなと思いながら空に向かって息を吐くと、デザートが運ばれてきた。
いちごとババロアのスープ仕立て。
ババロアの上に、可愛らしく苺が座っており、その上には粉糖が雪のごとく降り積もっている。
そしてスープ状になった深い赤色の海が、ババロアの島の周りを囲んでいた。
こんなの反則だ。
胃が消化を急ぐ。食べたい、と。欲というものが私の元に帰ってきていた。
予想通り、いやそれ以上のものだった。
舌触りの良い滑らかなババロアは、すぐに食道へ流れ、口内から消えてしまった。
苺の酸味と甘みが忘れられず、また一口すくって食べる。その繰り返し。
こんなもの、止まるわけが無い。
だが止まった。全て私に吸収されたから。
見計らっていたのか、ジャストタイミングでラストのジャスミンティーが届く。
最初の白ワインのせいで酔いが回ったのか、体はなんだかポカポカとしていた。
あれほど少量だったのに、こんなにもお酒に弱くなってしまったのかと思いながら、ジャスミンティーで胃の食べ物を押し込む。
温かく、香りの良いそれは、まさに終わりにぴったりだった。
「ふうー!やっばい、お腹いっぱい!」
息をするのも億劫になるほど、お腹が膨れ上がっている。そろそろ爆発しそうなくらいだ。
私はソファにもたれかかっていた体を起こし、ずっと待っていてくれたナガトに向かって言う。
「……ありがとね。本当に。こんな見ず知らずの人に付き合ってもらって…。お礼と言ってはなんだけど…ナガトの探し物を探すの、手伝わせて欲しい。私の最期の時間、それに費やしたい」
そう言うと、ナガトは「あー…」と少し困った表情で、頭をかいた。
「今更だけど…ナガトは、何を探してるの?」
ナガトは私から目線を外し、床下や壁、天井など一頻(ひとしき)り見回して、悩んでいるようだった。
そんなに私に教えたくないような探し物なんだろうか。どこかに変態なグッズでも落としてきたとか。
いや、ナガトに限ってそんなことは無いはずだ。もし本当にそうだとしても、それくらいなら堂々と打ち明けてきそうな気がする。
「……詳しくは言えない…けど、それに繋がる、ある人を探している…かな」
大分濁した言い方だった。だがナガトが言いたくないなら聞かなくてもいい。
それに従うまで。
「わかった。じゃあ、チェーンを買ってからでもいい?」
「ああ。ありがとう」
ポカポカとした気分のまま、私は会計を済ます。
大体予想通りの値段で、お札の上にハートのクイーンを置いた。
「えっと、お客様、こちらは……」
「貰ってください。捨ててもらっても構わないので」
戸惑った表情の店員にそのまま押し付けて、店を後にする。
外に出ると、店に入る前と空気が違う気がした。
私は大きく手を広げ、深呼吸をする。
「どうした?」
「ううん。ここの空気も悪くなかったんだなと思って。空気のご馳走を食べてた!」
「なんだそれ」
ナガトは鼻で笑った。私も、我ながら馬鹿なことをしていると思った。
でも、最期だからこそ、空気も取り込んでおきたかった。
風も、匂いも、景色も、感情も。
死んだはずの機能が蘇りつつあるのなら、思いっきり自分の中に残しておこうと。
残り少ない時間だけれど、無駄と思わず手に入れて、そして一瞬で消そう。
大きく膨れたシャボン玉が、パチンと割れるように。

そうして私たちは、また歩き出した。