商店街には、様々な店がある。
服屋、雑貨屋、本屋、もちろん飲食店も。
その並びの一角に、高級イタリアン料理店があった。かなり有名な店で、いくつもの賞を取ったことがあるのだとか。
いつか行こうね、なんて今では一切連絡を取り合っていない友達と、当たり前のように話していたことを思い出す。
もうそんな未来はこないけれど。
時間的に少し早かったおかげか、あまり長く待つことも無く、店に足を踏み入れることができた。
生きた人間を感知した扉は、静かに私を出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」
甘いパスタの香りが鼻を掠める。広々とした入口には姿勢の正しい清楚な店員たちが数人おり、いかにも眠りへと誘い込みそうなBGMが鼓膜に触れた。
店の中にも関わらず、床には人工的な小川が流れており、下から照らすライトによって幻想的な雰囲気を醸し出している。
「何名様でしょうか」
「二人です」
そう言いながら振り返ると、ナガトは他人のような顔をして、少し離れたところに突っ立っていた。
「なにしてるの?早く入りなよ」
「いや俺、腹減ってないんだよな」
「なにそれ、パスタ嫌いの言い訳?別に食べなくてもいいけど、ちょっと付き合ってよ〜。私にとって、最後の昼食なんだからさ」
並んでいた客や出迎えるスタッフたちの視線が突き刺さる。
やばいものを見た、といった異様な表情で。
そうだよ。そうやって私のことを記憶のどこかに残しておいて。数日後に、ニュースにでも載った私を見て『あの時の人だ』って驚愕してよ。
私はまたにんまりと笑い、スタッフさんと視線を交わす。
「案内をお願いします!」
いかにも真面目そうな学生らしきお兄さんは、呪いが解けたようにハッとなって、「こちらです」と進行方向に手を伸ばした。
案内された席は、人工的な小川とは離れた、小さな個室のような空間だった。
靴は脱がないものの、狭く、ぼんやりとしたオレンジ色の照明が、いつしかの自宅のような安心感を誘う。
ナガトは私の向かいに座り、ジャケットを脱いだ。
「ナガトは、何も食べないの?」
「ああ」
「もしかして、お金が無いとか?ふふっ、あいにく私も奢ってあげられるほどのお金はないのよね〜」
「まあ、否定はしない。でも奢って欲しいとは微塵も思ってないな」
「そっか〜!良かったぁ」
そういえば、ナガトは何かを探していると言った。よくは知らないが、そちらに金を注ぎ込みたいのかもしれない。
でも、一緒に探す気は無いので、特には聞かないでおいた。
メニュー表を広げる。高級料理店特有なのか、写真は一切なく、黒く硬い紙の上にはイラストや英語が大半を占めていた。
正直、私だってお腹が空いているわけではない。時間的な問題ではなく、単に空かなくなったのだ。節約と称して、お昼の住人が居なくなった胃は、どんどん間取りを狭めていったらしい。
だけど今日は、定員オーバーになってでも詰め込んでやると決めた。
「私、このランチ特製コースにしよっと!」
一人、楽しげにボタンを(はじ)く。店内に、深いベルの音が響いた。
間もなく店員がやってくる。笑顔でメニュー表を指差し、飲み物や麺の種類を選択した。
「お高くつきそうだね〜!四千円くらいって書かれてたかな?」
「ほんと、よくこんな高級料理食べられるな」
顔色ひとつ変えず、ナガトは手の甲に顎を乗せ、肘を着いた状態でメニュー表に視線を落とす。
「え、人生最期の日に普段通りの食事なんてする?せっかくなんだから、全額使い切りたいでしょ」
「普段通りの食事が取れるのも幸せだよ。俺の幸せの形はそれ」
「じゃあ私の幸せの形とは違うね!」
正直、ナガトと私は正反対だ。
きっと、何もかも違う。ナガトは私のことがわからないだろうし、私も彼をよく知らない。知ろうともしていない。
それでも、今この時を共にしているというのは不思議なものだ。居心地も悪くは無い。
最期の日に良い思い出ができたと思っておこう。
私の体と共にすぐ消え去る、過去の出来事になるだろうけれど。
「それで。この後はどこに行くんだ?」
「そうだなぁ。チェーンを買いに行きたい!この指輪に通すの」
私は首元にさげられた二つのリングを見せる。
今は安っぽいただの紐に身を預けているリングは、体温で温められ、すっかり冷えを失っていた。
「その指輪ってお前のものか?」
「ん〜、今は私のもの。というか形見?両親が去年事故で死んじゃってね」
あはは、と軽く笑ってみせた。普通の人なら人でなしと罵られるかもしれない。
ただナガトは、「ふうん」と冷めた瞳で呟くだけだった。
「ナガトって、他人に興味ないの?」
「別に、無いわけではないけど。人っていつ死ぬかわからないだろ。現に、今目の前に今日死のうとしてる奴いるし」
「あはは。そうだね」
「それに、俺はちゃんと質問した。お前こそ他人に興味ないだろ。俺について何も聞かねぇし」
あ、バレたと笑って舌を出す。そして自然と、顔の表情筋が死んでいくのがわかった。瞼が重くのしかかり、引き上げていた口角が下がる。
冷えきった私の本当の顔が、表に出てきた瞬間だった。
「だって、面倒じゃん。もう死ぬってのに、あなたの正体や探している物を知ったところで、私に何の利益があるの? 教えてよ、生きる幸せを。いいよね、生きることが幸せな人は」
こんな言葉は、一定の音でしかなかった。
それなのに、ナガトは初めて顔を歪ませ、苦しそうに私を見つめる。
「俺が、幸せそうに見えるか」
「どうかな。少なくとも私よりはね」
ナガトが視線を逸らす。
それと同時に飲み物が運ばれてきた。透き通った白ワインは照明に照らされ、キラキラと輝いている。
私はそれを一度で全て飲み干した。
グラスの半分ほどしか入っていないそれは、一瞬にして醜い私の中に消える。
キラキラとした輝きは、体内に収められただけで、宿りはしなかった。
「生きる幸せを教えて欲しいって言ったよな」
俯きながらそう言ったナガトが、顔を上げた。
「人間は分かり合えない生き物だ。教えてくれだって?本当は思ってもいないくせに。俺が教えたって、自分の考えは変わらないんだろ。だったら教えねぇよ。理解しようとすらしない人間が、誰かに何かを聞くな。そんなことをするくらいなら、自分の信念を貫け。お前自身が、死を幸福だと思うのなら、それでいいじゃないか」
真っ直ぐに私の瞳を貫いた。意志という矢が私に放たれた。
グラスを持つ手の力が抜け、空になったそれが机に落ちる。割れることはなかったが、ゴツっと重い音が鳴った。
やはり、ナガトは変わっている。ナガトといると調子が狂う。私や周りの人が思っている〝普通〟をことごとく覆してくる。
こんな私は、誰にだって否定されて当然だと思っていたし、否定されることで『そうだよね』と他人を冷めた目で見ることも出来た。
私自身が〝普通〟じゃないこともわかっていた。
それなのに、ナガトはそれを貫けと言う。死ぬことが幸せだと思うならそれでいいと。
おかしな人だ。〝普通〟じゃない。私と同じく。
「無理して作ってまで笑うな。最期だって言うなら、ありのままの自分で暴走しろよ」
暴走していいと、死にたいなら死ねと、そんな感覚の持ち主に、私は動揺を隠せなかった。
グラスが倒れたままの机に、スープが運ばれてくる。浅い器に盛られた、淡いオレンジ色のカボチャのスープだった。
目の前の状況を見た店員は「大丈夫ですか」とグラスを置き直したが、私はそれをただ眺めることしかできなかった。
店員は困ったように手を伸ばしかけていたが、ゆっくりと体を半回転させ、立ち去って行く。
置き去りにされたスープからは白い湯気が天井に向かって上っていた。
「こんな駄目な人を肯定して、信念を貫けなんて…ナガトってほんと変わってるよね…」
「変わってるって…じゃあ変わってない人って何だよ。人間は十人十色だ。だから、例え大多数の考え方から外れていたとしても、それは駄目な奴ってことじゃないだろ」
じわりと体が熱くなった。お酒のせいだろうか。一気飲みなんてするんじゃなかった。
大きなスプーンを手に取り、カボチャのスープを口に運ぶ。
なめらかに吸い込まれていくそれは温かく、気がつけば器に透明な雫が落ちていた。
涙なんでいつぶりだろうか。胃の中で、温かいものがじんわりと広がっていく。
私って泣き上戸だったっけ。いや、そんな事ないはず。
感情が溶けて、私が私であることを許していくのがわかった。
生きたいと思えない自分を、それでいいと言ってくれる人に、初めて出会ったような感覚だった。
両親もいない、友達にも会えていない私は、いつの間に肯定してくれる人が周りにいなかったのだと今更気がついた。
友達でもいいから、会いに行けばよかったのかもしれない。そうすれば、私はナガトのようになれていたのだろうか。
「そっか…。ありがとう。私はもう、生きたいとは思えない。けど、そう思ってもいいんだよね」
私は頬を伝う雫を拭くこともなく、ナガトを見た。
ナガトは微笑んでいた。
「そうだよ。理解できないものを、無理に理解しなくていい。漠然と、相手はそう思ってるんだなと捉えるだけでいい。お前が死にたいと思うように、俺は生きたいと思っている。それだけの話だ」
私もつられて唇の端が上がった。