ひと駅向こうの百貨店に行くまでは、約二十分ほどだっただろうか。
その間、私たちが会話をすることはなかった。
私は最期になる全ての景色を噛み締めながら歩き、ナガトは一定の距離を保って後ろにつく。
閑静な住宅街を抜け、並木道を通り、大きな橋を超えると、やがて商店街が見えてくる。
人通りの多いこの場所は、私には眩しかった。
買い物に来た客。生きるためにそれに声をかける店員。派手な服装をした人。笑っている人。食べ歩きをする人。最近流行りの飲み物を手に、嬉々とした表情で商店街を見渡す人。
幸せそうでなにより。私も、今後のことを思い浮かべるだけで幸せだ。あなた達とは違う形のシアワセ。
後ろを振り返ってみる。人の流れに呑まれながらも、ナガトは私について来ていた。
変わった人だ。でも、彼だって私のことをそんな風に思っているだろう。
いきなり見知らぬ相手に話しかけ、今日一日付き合えだなんて言う人間なのだから。
そんな商店街を抜けると、もう目の前は駅だった。駅の中にある百貨店へ向かう。
百貨店の商品はどれも高い。当たり前のことだが、それを買う客もお金を持っていそうな人ばかりだった。
大粒の真珠のネックレスや、艶のいいカバン、オシャレに巻かれたパーマの人々が目に入る。
場違い感はもちろんあった。
だが今日は。今日だけはこの人たちと同じになれる。
「いらっしゃいませ」
優しい声と微笑みが私たちを出迎える。目の前に広がるのは、当然ながらブランド物の服屋だ。
「ナガトもいいの選んでよ。私に似合うパーティドレス」
掛かってあった白いドレスのスカートを、広げ見ながら呟く。
横目で様子を見ると、ナガトは少し口を尖らせ、嫌そうな表情をしながらも店内を見回していた。
「何か、お探しでしょうか」
高らかな声の女性店員が、美しい営業スマイルを浮かべている。私もその色を真似て、作り出してみた。
「可愛いパーティドレスを探してるんです。あとはカバンと靴も欲しいですね」
「それでしたら、こちらの白いドレスはいかがでしょうか。新作でして、今とても人気なんです」
差し出されたドレスは、ウエディングドレスのような白さに、七分袖と襟元がレースというもの。スカート部分がふんわりと優しく落ちていて、逆さにするとブーケのようだ。
「綺麗ですね!うーん、でも、もう少し暗い色か赤めの色はありませんか?泥や血で汚れると、せっかくのドレスが台無しですから…」
一瞬その人の頭に、はてなマークが浮かぶ。
当たり前だ。パーティドレスを着て、一体どこに行くんだと思うだろう。でも、流石は百貨店の店員。顔色を変えず、丁寧に説明してきた。
「そうですね。こちらのモデルは最新のため、まだ白色しか発売されていません。申し訳ございません。ですが、旧型のモデルでしたら、紺やワインレッドなどがございます。少々お待ちください」
目で頭を下げ、その場を立ち去り探しに行く。
私は、渡された白いドレスを元の位置に戻した。隣や向かい、奥にも様々なドレスが置かれている。
綺麗だ。私の家にあったパイプハンガーとは月とすっぽんだな。
昔はきっと、こんな場所に来たら目を輝かせて商品を見ていた。だが、どうしてだろう。綺麗だとは思っても、心がまるで反応しない。
胸に手を当ててみる。
踊っていたはずの鼓動は、もう酸素を送る機械でしかなかった。
ああ、やはり死んでしまったんだな。
冷たい目で、まだ暖かい手のひらを見る。こんな状態でも、果たして私は〝生きている〟のだろうか。
人間とは不思議なものだ。
「ナガト、いいのあった?」
「…わかんね。だってどれもいい物じゃないか」
「……そっか」
ナガトの言葉も不思議だ。それほど会話をしていないのに、一つ一つの言葉が前向きで、生きているという感じが伝わってくる。
自分が生きるために子供を助けなかったのは、どうかと思うけれど、何故か私より正しい感じがして嫌だった。
「お客様、こちらのドレスはいかがでしょうか」
先程の店員が、荷物を抱えて戻ってくる。その腕の中には、言った通り紺とワインレッド、そしてブラックのドレスがあった。
鏡の前の私に、それを着てもらう。正直、旧型と新型の違いがわからなかった。色が違うのは明確だが、他のデザインの違いがわからない。
少しだけ、旧型の方がレースの模様が詰まっている気がする。それだけの違いだった。
「いいですね!じゃあ、試着してもいいですか?」
「はい、わかりました。ご一緒にこちらの靴はいかがでしょう」
「あ、じゃあそれも。あと、このドレスに似合いそうな鞄も探して貰えますか」
「わかりました。では、あちらの試着室へどうぞ」
案内してもらった試着室で、お気に入りだったワンピースを脱ぎ捨て、高級な黒いドレスに袖を通す。背中を真っ直ぐに割るチャックを、なんとか自分で引っ張りあげた。
大きな鏡に映る私は、最近の私とは別人だった。
悪魔だ。私の死を笑う悪魔がそこにいる。
そして私自身も、それを喜んでいる。
服を脱いでも乱れない、均等に巻かれた肩までの髪。整形級のメイク。さらに、袖の黒いレースから見える肌が妙な雰囲気を誇張していた。
「お疲れ様です」
シャッとカーテンを開けると同時に、声が飛んでくる。その手には、また服に合わせた色合いの鞄があった。
「まあ!お客様はスタイルが良いので、よくお似合いです」
「本当ですか!ありがとうございます」
褒められて、悪い気はしない。
ストレスとお金の関係から、あまり食べられなくなったせいで、自分でも細くなったとは思う。綺麗とは言えないが。
「はい。靴と鞄も、こちらの三点ずつご用意致しました」
左から順に、ブラック、ホワイト、シルバーが並ぶ。
指先と踵の部分だけが隠され、足首をパールのようなもので縛られる形のパンプスだった。
「ドレスの方が黒ですと、シルバーがいい感じにアクセントになるかもしれません」
「じゃあそうします。あと、鞄はその黒で」
持っているものは、候補のドレスと同じ色の鞄だった。だったら、黒には黒で染め上げた方が美しいはずだ。それほどファッションに詳しくないが。
「かしこまりました。では、レジの方にお持ちしますので」
「あ、あと、このまま着て帰ってもいいですか。靴も、鞄も」
珍しい客だと思ったのか、言葉に間が空く。そしてまた彼女は笑みを浮かべた。
可哀想。営業スマイルで、延々と客に媚へつらわなければならないなんて。
そうしなければお金が入らない。生活できないなんて。
昨日までの私みたいで、本当にカワイソウ。
「わかりました。では、タグをお切りします。着ていた服を代わりに袋にお詰めしてもよろしいでしょうか」
「あーいえ、もし良ければ捨てておいて貰えますか?私、もう死ぬんで、要らないんですよ〜」
営業スマイルに負けない、作り上げられた悪魔の微笑みを全面に出す。
この服装の雰囲気を吸収した私の笑みは、さぞかし不気味だっただろう。
後ろにいるナガトには、どう見えただろうか。私の背中は笑っていただろうか。今の私なら、背中にも顔を浮かばせることができそうだ。
そこにきて初めて店員の顔色に変化が現れた。ゾッとしたような、驚いたような、怒っているような表情。
「お客様…失礼ですが、ご冗談ですか?」
「いいえ。本気ですよ?」
彼女の瞳が震えるのが分かった。どういう表情なのか、読み取れない。世の中には色んな反応をする人がいるものだ。
「駄目です…。絶対に死なないでください…。御家族が悲しみます」
震える瞳が、私の目を貫く。私より奥の誰かを見ているようだった。
「家族も、もう居ないんです」
「それでも…!」
「え、どうして事情も知らずに、死ぬことを止めるんですか?」
純粋に疑問だった。生きることが正しくて、死ぬことが間違っているなんて、誰が決めたんだ。どうして見ず知らずの人間を心配して、自殺を止めるのか。あなたにとって私なんて、赤の他人であり、どうでもいい人じゃないか。
店員の瞳が正気を取り戻したように、私自身に戻る。
「大変失礼しました。つい…自殺した娘を思い出して…」
そうだよ、思い出して。あなたは店員で私は客。それだけの関係に、深い話なんていらない。
「そうですか…さぞ辛かったでしょうね。事情はわかりませんが、きっと今、娘さんは幸せですよ」
私は鞄の中身を詰め替え、元着ていた服と靴、それに鞄を渡し、会計をする。
潤んだ瞳の彼女は、呆然とレジに数字を打ち込んだ。
昨日までの私なら、手も出せないような額が表示される。それを軽々しく財布から出し、その上にトランプも置いた。
「お手数かけてすみませんが、このカードも一緒に処分しておいてください。あと、あなたは素敵な人ですね」
少しだけ、昔の笑顔を思い出せた気がした。口角なんてそれほど上がらなくて、瞼だけが重く落ちるのがわかる。
「……わかりました。ありがとうございました。またお越しくださいませ」
テンプレートが背後から聞こえた。私はナガトと共に、店を出る。
人には色々な事情や過去がある。だからこそ、あの人は私を止めたのだろう。彼女の善意だけは伝わった。
トランプケースから消えたのは、ハートのジャックだった。
その間、私たちが会話をすることはなかった。
私は最期になる全ての景色を噛み締めながら歩き、ナガトは一定の距離を保って後ろにつく。
閑静な住宅街を抜け、並木道を通り、大きな橋を超えると、やがて商店街が見えてくる。
人通りの多いこの場所は、私には眩しかった。
買い物に来た客。生きるためにそれに声をかける店員。派手な服装をした人。笑っている人。食べ歩きをする人。最近流行りの飲み物を手に、嬉々とした表情で商店街を見渡す人。
幸せそうでなにより。私も、今後のことを思い浮かべるだけで幸せだ。あなた達とは違う形のシアワセ。
後ろを振り返ってみる。人の流れに呑まれながらも、ナガトは私について来ていた。
変わった人だ。でも、彼だって私のことをそんな風に思っているだろう。
いきなり見知らぬ相手に話しかけ、今日一日付き合えだなんて言う人間なのだから。
そんな商店街を抜けると、もう目の前は駅だった。駅の中にある百貨店へ向かう。
百貨店の商品はどれも高い。当たり前のことだが、それを買う客もお金を持っていそうな人ばかりだった。
大粒の真珠のネックレスや、艶のいいカバン、オシャレに巻かれたパーマの人々が目に入る。
場違い感はもちろんあった。
だが今日は。今日だけはこの人たちと同じになれる。
「いらっしゃいませ」
優しい声と微笑みが私たちを出迎える。目の前に広がるのは、当然ながらブランド物の服屋だ。
「ナガトもいいの選んでよ。私に似合うパーティドレス」
掛かってあった白いドレスのスカートを、広げ見ながら呟く。
横目で様子を見ると、ナガトは少し口を尖らせ、嫌そうな表情をしながらも店内を見回していた。
「何か、お探しでしょうか」
高らかな声の女性店員が、美しい営業スマイルを浮かべている。私もその色を真似て、作り出してみた。
「可愛いパーティドレスを探してるんです。あとはカバンと靴も欲しいですね」
「それでしたら、こちらの白いドレスはいかがでしょうか。新作でして、今とても人気なんです」
差し出されたドレスは、ウエディングドレスのような白さに、七分袖と襟元がレースというもの。スカート部分がふんわりと優しく落ちていて、逆さにするとブーケのようだ。
「綺麗ですね!うーん、でも、もう少し暗い色か赤めの色はありませんか?泥や血で汚れると、せっかくのドレスが台無しですから…」
一瞬その人の頭に、はてなマークが浮かぶ。
当たり前だ。パーティドレスを着て、一体どこに行くんだと思うだろう。でも、流石は百貨店の店員。顔色を変えず、丁寧に説明してきた。
「そうですね。こちらのモデルは最新のため、まだ白色しか発売されていません。申し訳ございません。ですが、旧型のモデルでしたら、紺やワインレッドなどがございます。少々お待ちください」
目で頭を下げ、その場を立ち去り探しに行く。
私は、渡された白いドレスを元の位置に戻した。隣や向かい、奥にも様々なドレスが置かれている。
綺麗だ。私の家にあったパイプハンガーとは月とすっぽんだな。
昔はきっと、こんな場所に来たら目を輝かせて商品を見ていた。だが、どうしてだろう。綺麗だとは思っても、心がまるで反応しない。
胸に手を当ててみる。
踊っていたはずの鼓動は、もう酸素を送る機械でしかなかった。
ああ、やはり死んでしまったんだな。
冷たい目で、まだ暖かい手のひらを見る。こんな状態でも、果たして私は〝生きている〟のだろうか。
人間とは不思議なものだ。
「ナガト、いいのあった?」
「…わかんね。だってどれもいい物じゃないか」
「……そっか」
ナガトの言葉も不思議だ。それほど会話をしていないのに、一つ一つの言葉が前向きで、生きているという感じが伝わってくる。
自分が生きるために子供を助けなかったのは、どうかと思うけれど、何故か私より正しい感じがして嫌だった。
「お客様、こちらのドレスはいかがでしょうか」
先程の店員が、荷物を抱えて戻ってくる。その腕の中には、言った通り紺とワインレッド、そしてブラックのドレスがあった。
鏡の前の私に、それを着てもらう。正直、旧型と新型の違いがわからなかった。色が違うのは明確だが、他のデザインの違いがわからない。
少しだけ、旧型の方がレースの模様が詰まっている気がする。それだけの違いだった。
「いいですね!じゃあ、試着してもいいですか?」
「はい、わかりました。ご一緒にこちらの靴はいかがでしょう」
「あ、じゃあそれも。あと、このドレスに似合いそうな鞄も探して貰えますか」
「わかりました。では、あちらの試着室へどうぞ」
案内してもらった試着室で、お気に入りだったワンピースを脱ぎ捨て、高級な黒いドレスに袖を通す。背中を真っ直ぐに割るチャックを、なんとか自分で引っ張りあげた。
大きな鏡に映る私は、最近の私とは別人だった。
悪魔だ。私の死を笑う悪魔がそこにいる。
そして私自身も、それを喜んでいる。
服を脱いでも乱れない、均等に巻かれた肩までの髪。整形級のメイク。さらに、袖の黒いレースから見える肌が妙な雰囲気を誇張していた。
「お疲れ様です」
シャッとカーテンを開けると同時に、声が飛んでくる。その手には、また服に合わせた色合いの鞄があった。
「まあ!お客様はスタイルが良いので、よくお似合いです」
「本当ですか!ありがとうございます」
褒められて、悪い気はしない。
ストレスとお金の関係から、あまり食べられなくなったせいで、自分でも細くなったとは思う。綺麗とは言えないが。
「はい。靴と鞄も、こちらの三点ずつご用意致しました」
左から順に、ブラック、ホワイト、シルバーが並ぶ。
指先と踵の部分だけが隠され、足首をパールのようなもので縛られる形のパンプスだった。
「ドレスの方が黒ですと、シルバーがいい感じにアクセントになるかもしれません」
「じゃあそうします。あと、鞄はその黒で」
持っているものは、候補のドレスと同じ色の鞄だった。だったら、黒には黒で染め上げた方が美しいはずだ。それほどファッションに詳しくないが。
「かしこまりました。では、レジの方にお持ちしますので」
「あ、あと、このまま着て帰ってもいいですか。靴も、鞄も」
珍しい客だと思ったのか、言葉に間が空く。そしてまた彼女は笑みを浮かべた。
可哀想。営業スマイルで、延々と客に媚へつらわなければならないなんて。
そうしなければお金が入らない。生活できないなんて。
昨日までの私みたいで、本当にカワイソウ。
「わかりました。では、タグをお切りします。着ていた服を代わりに袋にお詰めしてもよろしいでしょうか」
「あーいえ、もし良ければ捨てておいて貰えますか?私、もう死ぬんで、要らないんですよ〜」
営業スマイルに負けない、作り上げられた悪魔の微笑みを全面に出す。
この服装の雰囲気を吸収した私の笑みは、さぞかし不気味だっただろう。
後ろにいるナガトには、どう見えただろうか。私の背中は笑っていただろうか。今の私なら、背中にも顔を浮かばせることができそうだ。
そこにきて初めて店員の顔色に変化が現れた。ゾッとしたような、驚いたような、怒っているような表情。
「お客様…失礼ですが、ご冗談ですか?」
「いいえ。本気ですよ?」
彼女の瞳が震えるのが分かった。どういう表情なのか、読み取れない。世の中には色んな反応をする人がいるものだ。
「駄目です…。絶対に死なないでください…。御家族が悲しみます」
震える瞳が、私の目を貫く。私より奥の誰かを見ているようだった。
「家族も、もう居ないんです」
「それでも…!」
「え、どうして事情も知らずに、死ぬことを止めるんですか?」
純粋に疑問だった。生きることが正しくて、死ぬことが間違っているなんて、誰が決めたんだ。どうして見ず知らずの人間を心配して、自殺を止めるのか。あなたにとって私なんて、赤の他人であり、どうでもいい人じゃないか。
店員の瞳が正気を取り戻したように、私自身に戻る。
「大変失礼しました。つい…自殺した娘を思い出して…」
そうだよ、思い出して。あなたは店員で私は客。それだけの関係に、深い話なんていらない。
「そうですか…さぞ辛かったでしょうね。事情はわかりませんが、きっと今、娘さんは幸せですよ」
私は鞄の中身を詰め替え、元着ていた服と靴、それに鞄を渡し、会計をする。
潤んだ瞳の彼女は、呆然とレジに数字を打ち込んだ。
昨日までの私なら、手も出せないような額が表示される。それを軽々しく財布から出し、その上にトランプも置いた。
「お手数かけてすみませんが、このカードも一緒に処分しておいてください。あと、あなたは素敵な人ですね」
少しだけ、昔の笑顔を思い出せた気がした。口角なんてそれほど上がらなくて、瞼だけが重く落ちるのがわかる。
「……わかりました。ありがとうございました。またお越しくださいませ」
テンプレートが背後から聞こえた。私はナガトと共に、店を出る。
人には色々な事情や過去がある。だからこそ、あの人は私を止めたのだろう。彼女の善意だけは伝わった。
トランプケースから消えたのは、ハートのジャックだった。