大分日が昇った。シャッターを閉めていた店が次々と顔を出し始める。
 その中でも、少し早くから開いた美容院に足を踏み入れた。
「すみません。予約してないんですが、いけますか?」
 ヒノキの香りが鼻腔を引っ掻き回す空間に、綺麗なスタイルの女性スタッフが二人。
 もちろんと言うように笑顔で受け入れてくれた。
「今日はどういったようにしましょう」
 私の髪を櫛で整えながら、金色に艶めく髪を巻いた女性が言った。
 手入れされてないことが一目でわかる私の髪とは大違いだ。
「うーん、そうですね。ちょっとね、人生の晴れ舞台に似合うような髪型にしてほしいんですよ」
「あら、それでしたら、可愛くアレンジもしませんとね」
 鏡を通して彼女と私は視線を絡めた。やる気に満ちた表情から、生気があふれているように思える。おそらく、まだ私の笑顔が死んでいるとはバレていないだろう。

 美容師はテンポよく私の髪を整えていく。伸びきって枝毛だらけの一部が床に捨てられる。
 おめでとう、良かったね。最後まで私と一緒にいる必要なんてないよ。
 髪の毛に語り掛けていることなど気付くはずもない美容師は、おしゃべり好きなのか職業病なのか、どうでもいいことをひたすら話しかけてきた。
 もうすぐ十月になるのに暑いですねとか、電気代もばかにならないとか。
 そして最後に、聞くであろうと思っていたことをやはり聞いてきた。
「失礼ですが、今日はどちらに行かれるんですか?」
「ふふっ、どこだと思いますか?」
 はたから見たら、ただ楽しそうに会話をしている客とスタッフ。彼女は「えー、どこだろう」と幸せそうに考えを巡らせているようだった。
「結婚式とかですか?お姉さん、きれいな格好してますし」
「はは、残念!こんなの引っ張り出してきただけですよ。結婚式じゃありません。そんなものよりもっと幸せなことです」
「ええ!教えてくださいよ~」
「いいですけど、聞いたら後悔するかもしれませんよ?」
 意地悪く笑った。なお一層興味をそそられた彼女は、これまで以上に興奮した様子で尋ねてくる。
「ふふっ。実はね、今日念願の自殺をしに行くんですよ」
敢えて視線を合わせずに、鏡へ伝えた。そうして跳ね返ってくる表情と言葉。
それは何の変化もなかった。
「やだ〜。冗談はやめてくださいよ〜。はい、どうですか?」
一瞬、笑顔を吐き捨てるような表情をしていた気がする。冗談だと小馬鹿にされたのか。
私は何も言わず、揃えられた髪を見て「いいですね」と言った。
鏡に映る私の笑顔は、腐った泥団子にスパンコールを(まぶ)したようだった。

丁度胸の辺りまでの長さになった髪を、もう一人の女性が優しく洗う。
適温のシャワーとマッサージのような手つきに、思わず眠りの世界へ溶かされそうになる。
そんな私を現実に繋ぎ止めたのは、やはり職業病の会話だった。
いや、きっと彼女だって私と話したくはないはずだ。でも話せと教わったのか、それが所謂(いわゆる)『普通』なのか。彼女の引き出しからは、様々な類の話を出してくる。
でもさっきの会話を聞いていたのか、決して私の行き先には触れない。私の事情に入り込まない。上手く(かわ)して、そのまま排水溝(ゴール)に流れる。
賢い人だ。礼儀なのか、一般常識なのか、客と店員の間に引かれた絶対的な線なのか。
ただ私たちは、どうでもいい話を無理矢理盛り上げて、その時間を終わらせた。

それからは早かった。再び担当が変わり、カットしてもらった女性に髪を乾かしてもらって、今度は可愛らしくアレンジをしてもらう。
クルクルと巻かれた髪はトリートメントのお陰か、やや艶めきを増していて、先程掛けてもらった甘い香りは、少し揺れるだけで蝶が飛んできそうだ。
あれだけ酷かった髪が、一瞬にして輝く。カットをして、かつ巻かれた髪は、肩より少し浮くくらいに短くなっている。
更にこめかみの辺りには、小さな花が咲いていた。
「凄いですね!髪の毛で花を作るなんて!」
「いえいえ。普段は後ろの方で大きな一輪を作るのですが、お姉さんは巻いた方が似合うかと。でも、今日は晴れ舞台らしいので、小さくお花を咲かせてみました!」
まるで、何かはわからないけど晴れ舞台だから、と言っているようだ。周りに飛び散る、目に見えない花弁が代弁している。
無かったことにされた。きっとこれが普通の反応だ。
「ありがとうございます。今日一日、楽しみますね!」
今日一日、だけ。

今度は二人体制でメイクをしてもらった。秋らしいブラウンとゴールドのアイシャドウが目の上に散らされる。
丁寧に引かれた黒のアイライン。瞬きする度に、団扇(うちわ)を扇いでいるのかと思われるほど伸びた睫毛。
ファンデーションが毛穴を覆い隠し、その上にピンク色のチークをデコレーションされる。
最後に、唇が真っ赤に彩った。
まるで別人だ。ここまで着飾ったのはいつぶりだろうか。
仮面を被っているようにまで思えた。
「やっぱり化粧で人は変わりますね〜!」
顔面と髪型が出来上がった私は、そう言って会計を済ます。二人はわざわざ玄関口まで見送ってくれた。
ヒノキの香りが、自動ドアが開くと同時に店内の奥へと引っ込む。
「素敵に仕上げてくださって、ありがとうございました!」
子供みたいなやり方だった。
感謝の気持ちとして、折り紙やビーズで作った指輪などをあげる感覚と同じ。
彼女たちの手に渡したのはハートの4と7。
唖然とした表情を後目に店を出る。
「無かったことにする。問わない」
風に乗って、彼女達に聞こえただろうか。いや、そんなことはどうでもいい。どうせもう二度と合わない。今日することや会うもの、全てが最後。
酷いかな。人の悪いところばかりを見て、こんな形で評価するなんて可笑しいかな。
馬鹿げてると思われたっていい。私が狂ってることなんてわかってる。彼女たちが一般的に正しいことも。
それでも一つだけ確かなことがあった。
風が私の髪を操る。顔を覆って、不気味なこの表情が明るみに出ないように。甘い香りが汚い口に入る。

これはとんでもなく面白くて楽しい、最期の遊びだ。