いつの間にか、辺り一面が闇に染まっていた。
橋の下で小さく座る私たちは、流れ方の違う時間を共有している。
水の囁きと、傍を通る車のエンジン音が、言葉のない私たちの間を駆け抜けていった。
まなみさんの過去を話すと、ナガトは次第に落ち着いていき、最後は静かに泣いていた。
ナガトの涙を目にするのは初めてだった。
といっても、まだ出会ってから二十四時間も経っていない。それにも関わらず、私はナガトに素を見せることができていた。感情を解放し、新しい考え方を知ることが出来た。
今日初めて出会った人なのに、これほど自分が自分でいられるのは、きっとナガトだからなのだろう。
幽霊かなんて、関係ない。
何故、私にだけ見えるのかを考えてみた。どうして私がナガトに出会ったのか。
一つの答えとして、私の死期が近づいているからなのかもしれない。
もしくは、ナガトと私が正反対だからか。
死ぬことを望んでいる私と、生きることを望んでいるナガト。
お互いに見える世界が違って、でも苦しんでいて。だからこそ、二人で支え合えると神様が結んでくれた縁なのかもしれない。
ナガトのおかげで、私は異なる視点から物事を捉えられることを知った。
私は、ナガトとまなみさんを多少なりとも救えたのではと思う。
ナガトはあれから何も言わない。
これからどうするのだろうか。死んだという事実を受け入れかけている今、このままこの世を彷徨うのか、あの世と言われる世界へ向かうのか。
「ナガトは、これからどうするの?」
道路を走る、車の光に照らされた川を見つめて呟いた。
その上にかかる橋は、随分と遠くまで伸びており、川は相当深いと思われる。
ナガトも同じ方向を見つめていた。
「どうすればいいんだろうな。鉄骨が落ちてきた時、『あ、死ぬかも』と思って記憶が途切れて、別に神様に会うこともなくここにいる。目覚めたのは、事故から多分数ヶ月は経ってたんだよな。何が起こったのかもわからず、でも死んだと思いたくなくて、無理やり生きてた。生きてる証拠を探して。でも本当は最初からわかってたんだよ。腹も空かねぇ、話しかけても答えてくれねぇ、時々ふわっと飛んでいきそうな瞬間がある。認めたくなくて、この世にやり残したことが多すぎて、死ぬに死にきれなかったのが俺だよ」
神様なんて、本当にいるのだろうか。いるのならいっその事、最初から連れて行ってくれれば良いのに、と言いたげな表情だった。
「そんなに、生きたかったんだね……」
「そうだな。生きるって、本当に奇跡みたいなものなんだよ。自分のしたいことや、したくないことでも、色んな世界を見ることが出来て、立ち止まったり、迷ったり、苦しんだりするのも生きてる人の特権だよ。今でもそう思ってる。死んでも尚、俺は苦しいという感情があるけれど、なんというか、そういうことじゃないんだよな……。いつまでも進まない時間を、一人でただもがいて、苦しんでいるだけ。もしあの世がちゃんとあるのなら、もうそこに行ってしまいたいよ」
苦笑いをしながらそう話したナガトは、息を止めるように表情を一変させ、私と視線を交わせた。
「お前の意志を、変えさせようというつもりじゃない。けど、俺はやっぱり生きていて欲しいと思う。今ならまだ間に合う。考え直せる。決断したことを破棄するのも、恥ずかしい事じゃない。生きることは、時には辛いこともあるけれど、その後必ず、幸せが訪れるから……」
最後の交渉のようだった。
それ以上は言わないと、彼の瞳が語っていた。
「本当に、死んでしまっていいのか?」
ナガトは私を見つめていた。私の心に問いかけていた。
手探りで心中を伺っているのがわかる。
だが、同時に私もそうだった。
私も私に問いかけていた。本当に死にたいのだろうか。結局、現状から逃げ出したい一時の気の迷いなのではないか。私は本当は、どうしたいのだろうか。
私は私の心がわからなかった。
胸に手を当て、聞いてみる。
若村有利、あなたは生きたいですか、死にたいですか。
返ってくるのは心臓の鼓動だけ。それは紛れもなく今私が生きていることを示していた。
ふと、指先が何かに触れた。首に提げた指輪だった。
死ねば会えるという喜びと、まだ生きたかったであろう両親の分まで生きるのはどうだろうという感情が、胸の中で渦巻いていた。
「……生きるって、ナガトにとっては幸せなんだよね」
「ああ。そうだ」
「そっかぁ……」
私は鞄の中を漁った。最初に入れた、私の評価の仕方。
箱を乱雑にひっくり返し、傾いた地面にカードが飛び散る。
その中から、ジョーカーとクラブのキングを一枚ずつ探し、手に取った。
「私ね、初めてナガトにあった時、ナガトの価値はジョーカーだって思ったの。子供を助けようとも、呟くだけで大声で危険を知らせようともしない、最低な人。でも、違った。一緒にいることで、初めはわからなかった部分が見えてきて、私の中で、ナガトの価値はキングになったの」
綺麗に整えられた髪が、風によってなびく。顔に触れるそれは、まだ甘い香りが残っていて、今にも手に持つ二枚のカードを手放してしまいそうだった。
「ナガトにとって、〝生きる〟が〝幸せ〟なんだよね。幸せと言えば、クローバーでしょ?クローバーと言えばクラブ。つまりこのカード」
「どういうこと?」
私は笑って、そのカードをナガトに見せつけた。
最初にしたやり方で、私は決めるんだ。
「ナガトが引いて欲しい。私はこれで、生きるか死ぬかを決めるから」
ナガトは目を見開いた。正気なのか、と。元々、正気でこんな格好していない。正気であれば、〝普通は〟自殺なんてしない。
カードを裏返し、シャッフルをする。
決して表が見えぬように。
そして、私自身も、どちらがどうだかわからないようにして。
「はいナガト」
私は地面にカードを並べた。もちろん、私もナガトも表は見えていない。
顔を歪めませたナガト。でもきっと、私の決意は伝わっているはずだ。
流水の音が大きくなる。車の排気音、呼吸の流れ、心臓の拍動。
ナガトの手が伸び、左手を指した。
「こっち」
震える手をトランプに近づける。ちょん、と端を摘み、カードの顔と挨拶を交した。
「……クラブだ」
はらりと緊張の手からトランプが滑る。そのままナガトの目に視線を移すと、安堵した様子で、カードを見つめていた。
そして私も、自分の心がわかった。
「ナガト!いこう!」
笑って駆け出した。荷物をその場に捨てて、私は駆け出す。楽しくなって、私は靴までもその場に捨てた。
素足に近い、ストッキングで地を感じた。
大きく息を吸って、酸素を取り込む。
星が輝きを放ち始めた夜空は、果てしなく美しかった。
「ちょ、どこ行くんだよ」
私は堤防を駆け上り、橋の歩道をクルクルと回りながら進んだ。
すぐ隣で走る車は、徐々に数を減らしてきている。
私はその橋の丁度真ん中で足を止め、振り向いた。
「ナガト、本当にありがとう」
私は高い手すりに手をかけた。グンっと力を入れ、足を上げる。
誰も触れることの無いそれは、白く汚れていて、あらゆる所についた。
「は!? なにしてんだよ! クラブが出たじゃねぇか!」
ナガトは理解できないといった顔色で、私の足を掴んで降ろそうとする。それでも、一向に私は降りなかった。触れられないナガトに、為す術はなかった。
「私ね、クラブのキングが出た時、心のどこかでショックを受けたの。一瞬だけど、嫌だって。きっと、それが私の本心なんだ」
私は立ち上がった。目の前に広がるのは、どこまでも伸びる大きな川。ちらちらと家の明かりが灯りだし、幻想的な夜景が映る。
「私はちゃんと、私の心を大切にできる人間になれたよ。だからナガトも、『それでいいんだ』って、私を認めて、受け入れて……欲しい……」
何故かじんわりと目頭が熱くなる。涙が零れ落ちた。溢れて止まらなかった。少しでも動けば落ちてしまいそうなこの場所で、涙を振り払うことも無く、風に乗って雫が川に落ちた。
ナガトは、最期まで諦めてはいなかったんだろう。こんな私でも、生きて欲しいと願ってくれたのだろう。
でも、ナガトはナガトで、私は私だと教えてくれたのはナガトだから。きっとそれは、彼が一番よくわかってる。
ナガトは、小さく息を吐いた。空を眺め、手を使うこともなく、私のいる高さまで難なく浮かぶ。目の前で飛んでいる彼は、私と同じく、今にも消えてしまいそうだった。
「いいよ、有利。一緒に逝こう」
微笑みながら、ナガトは私に手を伸ばす。
その手に導かれるように、私は彼に手を伸ばした。
───ああ、幸せだ。
初めて触れた手の温もりは、私の魂を救ってくれた。
どこまでも温かく、そして優しかった。


【完】