商店街を抜けて脇道に進むと、一気に人通りが少なくなった。
家々が立ち並び、雨風で汚れたコンクリート製の壁が、細い道を歩く私達に圧迫感を強いる。
庭から見える木は、多少色素が変化してきていた。
まだ日は高く昇っている。
前を歩くナガトは、歩幅を合わせてくれていて、新品のパンプスを履いていてもそれほど辛くはなかった。
風が前から吹き荒れる。まだ生暖かい風は、少しずつ秋の香りを運んでいた。
人間の記憶と嗅覚は繋がっていて、しばしばその記憶は強く鮮明だという。
そのせいだろうか。あの頃の記憶が脳裏に浮かぶ。
「このくらいだったかなぁ」
本当は言うつもりなんてなかった。でも、ずっと誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
足はそのまま動かすも、ナガトは「ん?」と呟いて振り向いた。
「両親がね、去年死んだの。交通事故。最初は意味がわからなくて、ずっと夢だと思ってた。何が起こったのか理解できないまま、葬式を終えて、仕事に戻って…」
人は、嫌な記憶を忘れるように出来ているらしい。記憶上の私は、ぼんやりとしている。
「今年で二年目だから、去年は新入社員だったの。しかもブラック企業の。だから本当に辛くて、たまに実家に電話してたのよね。ある時、上司に理不尽に怒られたんだったかな。家に帰って思わず電話しちゃったの。出るわけがないのに。そこで気がついちゃった。もうこの世界のどこにも居ないんだって」
スマートフォンを握りしめて泣いた。もう「大丈夫だよ」と言ってくれる存在がいないことを知った。
一人っ子の私を、ここまで立派に育ててくれて、大学も就職も、自分の好きなところに進みなさいと、温かく見守ってくれた。
間違っていたら叱ってくれた。発表会で失敗して泣いていたら、慰めてくれた。試合で負けて悔しがっていたら、次はいけると応援してくれた。友人関係で苦しんでいたら、隣で静かに頷いて話を聞いてくれた。嬉しいことがあれば、一緒に喜んでくれた。
それは今まで、当たり前だったんだ。
これから先、永遠に続くと思い込んでいた。
でも、それはとんでもなく特別なことで、そんな日々が存在すること自体、奇跡だったのだ。
失ってから気がついたところで遅かった。
何も言えなかった。
就職して一人暮らしをする時だって、気恥ずかしくて、ここまで育ててくれてありがとうなんて言えなかった。
いつも支えてくれてありがとうすら言えなかった。
いつか結婚して孫の顔を見せたい、なんて一般的な夢も叶えられなかった。
「人はいつか死ぬなんて、わかってるくせに、わかってなかったんだ。死なずに今があるって奇跡だったんだよ」
もう涙は出てこなかった。ナガトはあの頃の両親と同じように、何も言わず、ただ頷きながら歩いてくれた。
「それからね、辛くても頑張ろうと。両親から貰ったものを大事にして生きていこうと、頑張ったんだ。でもね、無理だったよ。仕事を辞めれば何とかなるのかなって思ったこともある。だけど、もう私には恐怖しかなかった。またどこかの職場に行って面接をして、さあ頑張ろうと思って働いたらきっとまた地獄で…また怒られるんだ、また失敗するんだ、また同じように…って」
トラウマになった。私は諦めてしまったんだ。辞めるのも怖かった。後から職場でなんと言われるだろうか。そもそも簡単に辞めさせてくれるのだろうか。
新しいところでもう一度、なんてできる気がしない。一度辞めてしまったら、その居心地の良さに、私は二度と仕事につけないだろう。
怖くて辛くて、でも抜け出せないし進めない。
苦しくて毎晩泣いた。どうしてこんなにも辛い思いをしなければならないのかすらわからなくなって、余計に自分が嫌いになった。
誰かに縋りたくて、友達に相談しようとした。
SNSを探って出てきたのは、充実した日々の写真。
『仕事疲れたー!頑張ったから自分にご褒美!』
そう書かれて載せられた、高そうなパフェの写真。
別の友達も、彼氏と思わしき人の一部を写した海の写真や何気ない幸せを描いたものを見せつけていた。
別世界だった。憧れでもあり、恨めしくて仕方なかった。
どうして私だけ、と。まるで呪いのように私は私であることが嫌いになった。
一度、頑張ろうと決意した人に地獄が待ち受けていると、努力することが怖くなるのだと知った。
手を差し伸べてくれる人も居ないと気づいてしまうと、無意識に殻を作ってしまった。
殻はいつの間にか箱になり、闇の中に一人放り出され、冷たい孤独に包まれた。
箱の外には人がいるのに、見ようとしなかった。
そうすることで、せめて自分の感じたことを肯定し、身を守っていた。
「友達にも相談できない。仕事を辞めることも怖い。まるで動く人形のように毎日同じ行動を繰り返してた。でも一週間ほど前に、気がついたの。馬鹿だなって。生きるのって馬鹿みたいだって。人形のようになってまで、生きてる意味ってなんだろう。心が死んでるのに、肉体があるだけで生きてるって言えるのかなって。どうして肉体のために生きなければならないのかなって」
働くのは、なんでも手に入れられる魔法の紙が必要だからだ。その紙切れが欲しいのは、食事を取って、栄養を手に入れ、体を動かすためだ。それは生きるためだ。
生きているから金を求め、働かなければならない。
ならば無駄だ。
そう思って何かがプツンと切れた。
途端に楽になった。
そうだ、死んでしまえばいいんだ。
この地獄から解放されるんだ。両親にも会える。
最高の幸せだ。こんなにも幸せな選択肢があるのなら、最初からそうすれば良かったと。
給料が入るであろう日まで我慢してみたが、この一週間は本当に幸せだった。
幸せの形を履き違えていることは、なんとなくわかっていた。それでいいと思っていた。
常に笑顔だった。上司は気味の悪そうな顔色で私を見ていたが、心の底からどうでもよかった。
これももう終わるんだ。やっと終わりが見えた。
「だから今日という終わりの日が来て、私は幸せだよ」
ナガトがら立ち止まる。続いて私も足を止めた。
「……辛かったよなとか、苦しかったよなとか、そういう同情はしない。その痛みは本人にしかわからないからな。でもお前が今、幸せならそれで良かったんじゃないか」
首だけ半分こちらを向いたナガトに、風が吹き付ける。
綺麗な焦げ茶色の髪が私の方に流れていた。
「俺は、幸せだと感じることも苦しいと悩むことも、生きている時だけの特権だと思ってる。だから死にたくない。それに、苦しんでる奴らはその後、高確率で成功を収めているからな」
ナガトはまた前を向き、地面を蹴った。その大きな背中は、まるでナガトの堂々とした生き方を表しているかのようだった。
「ただそれは俺が思っているだけで、お前や他の奴らには関係ない。俺がそうだと思うように、他人にも『こうだ』と思うものがある。正義も悪も、善も偽善も、幸せも不幸も、全て紙一重だ」
取り残された私も、同じように足を動かす。
ナガトのような人になりたかった。そうすれば、こんな状態の私であっても、幸せだと感じられたかもしれない。
いいや、自分は自分だ。どうしようも無い、変えられない運命。
それに、今は幸せだ。例え、一般的な幸せとは違っても。
「私は私で、ナガトはナガトだもんね」
ナガトは静かに「ああ」と言った。